エピローグ「雪解けの風が運ぶ、新しい春」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『世界は少しずつ、確実に形を変えていく』
人間界と魔界を隔てていた灰の荒野は、今や広大な緑の平原へと姿を変えていた。
かつて命を拒絶していた黒い大地には色とりどりの花が咲き乱れ、穏やかな風が草を揺らしている。
その平原の中央に、白亜の巨大な天幕が張られていた。
今日は、両世界の歴史上初めてとなる、公式な外交会議の日だ。
天幕の中央に置かれた長い円卓。
魔界側の席には、ゼファリアス様の名代として俺が座っている。
そして、円卓を挟んだ向かい側、人間界の代表として座っているのは、兄のレオナだった。
「……以上の条項により、国境地帯における魔力資源の共同管理を提案する」
レオナの声は、かつての冷酷な響きを失い、静かな威厳に満ちていた。
星詠み教団が崩壊した後、人間界は一時的な混乱に陥った。
しかし、レオナを中心とする若手魔術師たちが改革に乗り出し、腐敗した組織を一掃して新しい体制を築き上げたのだ。
彼の顔には隠しきれない疲労の色が見えるが、その瞳は真っ直ぐに前を向いている。
「魔界側として、その提案に異議はありません」
俺が魔族の代表者たちを見回し、同意を伝えると、天幕の中に安堵の空気が流れた。
会議が終了し、他の者たちが退室していく中、俺とレオナだけが天幕に残った。
「立派になったな、ルシア」
レオナが円卓越しに、微かに口元を緩めた。
「魔界の王の伴侶として、堂々とした立ち振る舞いだった。かつての、怯えてばかりいたお前とは別人のようだ」
「兄さんこそ。人間界をまとめるなんて、本当にすごいと思います」
俺の言葉に、レオナは少しだけ視線を落とした。
「教団の犬として生きてきた過去は消えない。これは、私なりの贖罪だ。お前が命を懸けて繋いでくれたこの世界を、二度と歪ませはしない」
彼は深くため息をつき、姿勢を正した。
「今でも、お前を家から追い出したことを悔やんでいる。だが、結果的にお前は、お前を心から必要としてくれる者の元へたどり着いた。……幸せか?」
その問いに、俺は一秒の迷いもなく答えた。
「はい。これ以上ないくらい」
レオナは満足そうに頷き、静かに天幕を後にした。
和解というにはまだ不器用な距離感だが、俺たちの間にあるわだかまりは、確実に溶け始めている。
外交会議を終え、グラシエル城へ帰還した俺は、すぐに作業着に着替えて〈霜の庭〉へと向かった。
緊張の連続だった分、土に触れて心を落ち着かせたかった。
庭は相変わらず、百花繚乱の美しい姿を保っている。
俺がしゃがみ込んで草むしりを始めると、精霊たちがどこからともなく集まり、俺の周囲を飛び回り始めた。
彼らの歌声は風に溶け、庭全体に穏やかなリズムを作り出している。
「人間界の空気はどうだった」
背後から響いた低い声に、俺は顔を上げた。
ゼファリアス様が、腕を組んで俺を見下ろしている。
執務の合間を縫って、様子を見に来てくれたのだろう。
「少し疲れましたけど、大丈夫です。兄さんも、元気にやってました」
「そうか」
彼は短い返事をし、俺の隣にしゃがみ込んだ。
黒曜石のように滑らかな黒い髪が、風に揺れて俺の頬に触れる。
「お前が城にいない数時間が、余にはひどく長く感じられた」
「俺だって、早く帰りたいってずっと思ってましたよ」
俺が笑って答えると、彼は土のついた俺の手を躊躇いなく握りしめた。
「魔王様、手が汚れちゃいますよ」
「構わん。お前の熱が感じられるなら、土の汚れなど些末なことだ」
彼は俺の手を引いて立ち上がらせ、そのまま強く抱き寄せた。
胸元から伝わる彼の規則正しい心音。
それは、世界で一番心地よい音楽だ。
執務室の窓から、カイルがこちらを見下ろしているのが見えた。
「魔王様。次の書類の決裁が滞っておりますが」
カイルの声が、遠くから控えめに響く。
ゼファリアス様は俺を抱きしめたまま、視線だけを窓に向けた。
「……あと少し」
その返事は、かつての冷酷な王のものではない。
ただ愛するものを手放したくない、一人の男のひどく柔らかい声だった。
俺は彼の胸に顔を埋め、目を閉じる。
空っぽだった俺の体に、満ち足りた熱が巡っていく。
不要だと捨てられた俺を拾ってくれた人の隣で。
今日も、そしてこれからもずっと。
俺の温かい春が、続いていく。




