第13話「永遠の冬を溶かす、ただ一輪の春」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『二人で分け合う熱は、もう決して冷めることはない』
灰の荒野を覆っていた分厚い雲が、嘘のように晴れ渡っている。
空には、人間界と魔界の両方から見える、透き通るような星々が瞬いていた。
原初の調和がもたらした光は、世界を隔てていた不自然な壁を完全に溶かし去った。
荒れ狂っていた魔力の嵐は静まり返り、頬を撫でる風には微かな湿り気と、見知らぬ土の匂いが混じっている。
ゼファリアス様の腕に抱かれたまま、俺はゆっくりと瞬きを繰り返した。
体の中は魔力を使い果たして空っぽのはずなのに、不思議と疲労感はない。
代わりに、胸の奥底で小さな太陽が燃えているような、確かな熱が脈打っていた。
「歩けるか」
頭上から降ってきた声は、ひどく穏やかだった。
見上げると、青い瞳が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
俺はこくりと頷き、彼に支えられながらゆっくりと立ち上がった。
「平気です。なんだか、体が羽みたいに軽くて」
俺の言葉に、ゼファリアス様は少しだけ眉をひそめ、俺の手を強く握り直した。
革手袋越しではない、素肌の感触。
彼の指先は相変わらず雪のように冷たいが、触れ合った部分から、彼の強大な魔力が静かに流れ込んでくるのがわかる。
血誓の契約。
俺の万色の魔力と彼の魔力が完全に繋がり、一つの循環を作り出しているのだ。
「無茶をするな。お前の命が尽きかけた瞬間、余の心臓が止まるかと思ったぞ」
非難するような口調とは裏腹に、繋がれた手には痛いほどの力が込められている。
俺は彼の大きな手を両手で包み込み、にっこりと笑いかけた。
「でも、これでゼファリアス様の呪いも解けました。もう、苦しまなくていいんですよ」
彼は何も答えず、ただ黙って俺の手を引き、空間跳躍の魔法陣を展開した。
足元が青白く光り、一瞬の浮遊感の後、俺たちはグラシエル城の正門前へと帰還していた。
分厚い黒曜石の扉が、俺たちの気配を察知して重々しい音を立てて開く。
広間には、カイルをはじめとする城の使用人たちが勢揃いしていた。
彼らは俺たちの無事な姿を見ると、一斉に深く頭を下げた。
「魔王様、ご無事で何よりです。天空の異常な光が消え、世界中の瘴気が浄化されていくのが確認できました」
カイルの声が、微かに震えている。
ゼファリアス様は短く頷き、広間を見渡した。
「すべて終わった。ゼフィロンの支配は崩壊し、世界の理は本来の形を取り戻した」
その宣言に、使用人たちの間から安堵の吐息が漏れる。
カイルが顔を上げ、ゼファリアス様の横に立つ俺を見た。
その視線には、かつての警戒心や侮蔑の色は微塵もない。
「ルシア。お前が、我が主君を救ってくれたのだな。魔界を代表し、礼を言う」
誇り高き魔族の側近が、人間である俺に向かって深々と頭を下げた。
俺は慌てて両手を振り、首を横に振る。
「やめてください、俺は自分の居場所を守りたかっただけですから」
ゼファリアス様が俺の肩を引き寄せ、カイルに向けて静かに告げた。
「ルシアは今日から、単なる従者ではない。余の伴侶として扱うように」
広間の空気が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、カイルが目を見開き、使用人たちがざわめき始める。
俺自身も驚いて彼を見上げたが、彼の横顔はどこまでも真剣で、一切の冗談を含んでいなかった。
「ゼファリアス様、それは」
「文句があるのか」
「ありませんけど、急すぎませんか」
「余が決めたことだ」
取り付く島もない返答に、俺は小さくため息をついて笑うしかなかった。
「来い。見せたいものがある」
広間を後にした俺たちは、無言のまま城の廊下を歩いていた。
ゼファリアス様が向かっているのは、城の最奥部にあるあの重い鉄扉。
〈霜の庭〉への入り口だ。
彼の歩みは少しだけ早く、どこか急いでいるように見えた。
俺は繋がれた手を振りほどかれないように、小走りでその後を追う。
鉄扉の前に立つと、彼は鍵を使わずに扉に手を触れた。
魔力で封じられていたはずの閂が、音もなく外れていく。
扉がゆっくりと開き、中から空気が流れ出してくる。
俺は身構えた。
あの息が白く凍るほどの強烈な冷気が襲ってくると思ったからだ。
しかし、俺の頬を撫でたのは、ひどく柔らかくて、甘い香りを孕んだ春の風だった。
視界が開け、俺は息を飲み込んで立ち尽くした。
永遠に時が止まっていたはずの氷と霜の世界が、完全に姿を変えていた。
真っ白だった霜の地面には、柔らかな緑の草が絨毯のように敷き詰められている。
透明な氷でできていた木々は、本物の樹皮を持ち、枝には若葉が茂っていた。
そして何より目を奪われたのは、庭中に咲き誇る花々だった。
赤、青、紫、黄金色。
氷の彫刻だった花たちが、すべて本物の命を持ち、むせ返るような色彩を放っている。
月光に照らされた花びらが、風に揺れて微かな音を立てる。
庭の中空には、無数の精霊たちが光の粒となって飛び回り、歓喜の歌を歌っていた。
俺が魔力を暴走させた時に咲いたあの一輪のバラだけでなく、庭全体が完全に春を迎えていたのだ。
「これは……」
言葉を失う俺の横で、ゼファリアス様が静かに口を開いた。
「お前と血誓の契約を交わした瞬間、余の魔力の質が変質した」
彼は庭の中央に歩みを進め、一輪の青いユリの花にそっと指先で触れた。
「凍らせることしかできなかった余の力が、お前の万色の魔力と混ざり合い、生命を育む力へと変わったのだ。この庭は、余とお前の魔力が作り出した、新しい世界の縮図だ」
彼が振り返り、俺を真っ直ぐに見つめる。
その青い瞳の奥にあった分厚い氷の層は、もうどこにもない。
代わりに、静かで、しかし底知れなく深い熱が灯っていた。
「数百年もの間、余は一人でこの冷たい庭に立ち続けてきた。何も変わらないことが、唯一の救いだった」
彼が一歩、俺に近づく。
足元の草が擦れる音が、ひどく鮮明に鼓膜に響いた。
「だが、お前が現れて、余の世界をめちゃくちゃに壊していった。氷を溶かし、花を咲かせ、余の心臓に痛いほどの熱を刻み込んだ」
さらに一歩。
彼との距離が、もう手が触れ合うほどに縮まる。
「お前がいない世界は、もう寒すぎて生きていけない」
ゼファリアス様が、俺の頬を両手で包み込んだ。
冷たいはずの彼の手が、今は俺の体温と同じくらいに温かい。
彼の顔が近づき、おでことおでこが軽くぶつかる。
吐息が混ざり合い、互いの心音が一つに重なって聞こえる。
「余の傍にいろ」
低く、震えるような声。
それは王としての命令ではなく、一人の男としての切実な願いだった。
「……命令ですか」
俺はわざと、少しだけ首を傾げて聞いてみた。
彼は小さく息を吐き、俺の瞳を覗き込む。
「……頼んでいる」
その不器用すぎる言葉に、俺の胸の奥底から愛おしさが爆発するように溢れ出した。
俺は背伸びをして、彼の首に両腕を回した。
「はい」
耳元で囁き、彼の肩に顔を埋める。
「でも俺、忠犬なので。命令されなくても、もう絶対に逃げないですよ」
俺の言葉に、ゼファリアス様の肩が微かに震えた。
彼が俺の腰を強く抱き寄せ、体が宙に浮く。
彼の唇が、俺の額に、頬に、そして最後に唇に、ひどく優しく落ちてきた。
溶け合うような甘い感触と、流れ込んでくる温かな魔力。
閉じた瞼の裏に、庭に咲き誇る鮮やかな花々の色が浮かぶ。
彼が初めて声を立てて笑った気がした。
ほんの少し、口の端を上げただけの不器用な笑み。
しかしそれは、永遠の冬の中で確かに咲いた、世界で一番美しい花だった。
『捨てられた俺を拾った人の隣で、俺の春が、ここから始まる』




