第12話「原初の調和、凍てつく魂が交わる瞬間」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『俺の声が、世界を新しく塗り替えていく』
視界を覆うのは、すべてを焼き尽くすような純白だ。
教団が構築した巨大な魔法陣の中枢は、時間の概念すら曖昧になる特異点だった。
足元には何もなく、自分が浮いているのか沈んでいるのかさえわからない。
胸の刻印が、焼けた鉄を押し当てられたように激しく痛む。
皮膚の下で暴れ回る万色の魔力が、強制的に外へ引きずり出されようとしていた。
「よく来たな、我が器よ」
四方八方から、ゼフィロンの透き通った声が響き渡る。
空間そのものが彼の一部となっているのだ。
「お前の魔力をすべて注ぎ込み、均衡の儀を完成させよ。さすれば、お前は偉大なる世界の礎として永遠に語り継がれるであろう」
甘く、しかし抗いがたい強制力を持った言葉。
俺の意思とは無関係に、両腕が持ち上がり、光の奔流に向けて魔力を放出し始める。
止めなければ。
このままでは、ゼフィロンの望むままに、偽りの平和という名の支配が完成してしまう。
しかし、腕を下ろすどころか、指一本動かすことができない。
呼吸が浅くなり、視界が徐々に暗転していく。
生命力が急速に削り取られ、意識の端がポロポロと崩れ落ちていく感覚。
『ああ、ここで終わるのか』
諦めかけたその時だった。
「ルシア」
鼓膜を震わせる物理的な音ではない。
魂の奥底に直接響く、ひどく不器用で、そして必死な声。
『ゼファリアス様』
俺はその声にすがるように、意識の糸を強く結び直した。
あの人が、俺を呼んでいる。
俺が帰る場所は、この光の中じゃない。
冷たくて、不愛想で、でも誰よりも優しい、あの人の隣だ。
「俺は、誰かの道具じゃない」
絞り出すように、口を動かす。
「俺は、俺が選んだ場所に立つんだ」
胸の奥底から、かつてないほどの熱が爆発的に湧き上がった。
封じ込められていた万色の魔力が、ゼフィロンの強制力を跳ね除け、俺の意志で奔流となって逆流する。
胸元で、パリンという鋭い音が響いた。
幼い頃から俺を縛り付けていた封印の刻印が、粉々に砕け散った音だった。
途端に、体が羽のように軽くなる。
肺の奥まで清浄な空気が満ち、細胞の一つ一つが歓喜に震えている。
俺の口から、自然と歌がこぼれ落ちた。
聞いたこともない、しかし魂が記憶している古代の言葉。
精霊言語による、原初の魔法の詠唱だ。
「なっ、何をしている。詠唱をやめろ」
ゼフィロンの声に、初めて明確な焦りと恐怖が混じった。
俺の歌声に応えるように、真っ白な空間に無数の光の粒が湧き出してきた。
精霊たちだ。
彼らは俺の周囲を螺旋を描いて飛び回り、その軌跡が新たな魔法陣を描いていく。
「原初の調和」
俺が最後の言葉を紡いだ瞬間、世界が反転した。
教団の支配の魔法陣が内側から崩壊し、金色の光が淡い虹色の輝きへと塗り替えられていく。
それは、壁を作る封印ではない。
人間界と魔界を隔てていた不自然な境界をゆっくりと溶かし、本来あるべき魔力の循環を取り戻す、癒しの奇跡だった。
「馬鹿な。我が数百年かけて築き上げた秩序が」
ゼフィロンの絶叫が空間に木霊し、やがて虹色の光の中に完全に飲み込まれて消え去った。
魔法陣が完全に崩壊した反動で、凄まじい衝撃波が荒野を駆け抜けた。
俺の体は宙に投げ出され、地面に向かって真っ逆さまに落下していく。
力を使い果たし、指一本動かすことができない。
風が耳元で轟音を立て、地面が急速に迫ってくる。
「ルシア」
黒い影が弾丸のように飛び出してきて、俺の体を空中でしっかりと抱きとめた。
硬い鎧の感触。
冷たくて、懐かしい匂い。
ゼファリアス様だった。
俺たちは地面を数メートル滑り、土煙を上げて停止した。
「無茶をしおって。馬鹿者が」
彼の声は怒っているようで、ひどく震えていた。
俺の体を抱きしめる腕の力が、痛いほどに強い。
「すみません。でも、うまくいきました」
俺はかすれる声で笑い、彼を見上げた。
しかし、俺の視界はひどく霞み、体温が急激に奪われていくのがわかる。
原初の調和の反動は想像以上で、俺の生命力は底を突きかけていた。
「おい、しっかりしろ。目を閉じるな」
ゼファリアス様が俺の頬を叩くが、感覚がない。
「魔力供給を」
彼が俺の胸に手を置こうとするのを、俺は最後の力を振り絞って押し留めた。
「だめです。俺の魔力は、もう空っぽです。逆に、あなたから魔力をもらえませんか」
俺の提案に、彼は目を見開いた。
「何を言っている。お前の体が余の魔力に耐えられるはずがない。それに、余の魔力枯渇の呪いが」
「構いません。俺が望んでいるんです」
俺は彼の手をとり、自分の胸に強く押し当てた。
「俺を、生かしてください」
ゼファリアス様は数秒の沈黙の後、奥歯を噛み締め、俺の胸に置いた手から魔力を流し込み始めた。
彼の圧倒的で冷たい魔力が、俺の枯渇した血管に注ぎ込まれる。
普通なら凍りついて死に至るほどの激痛。
しかし、俺の中の空っぽの器は、彼の魔力を喜んで受け入れていた。
同時に、俺の体にわずかに残っていた万色の魔力が、彼の魔力と共鳴し始める。
俺の胸の砕けた刻印の跡と、彼の手の甲に、まったく同じ形の新しい文様が浮かび上がった。
青白い光と万色の光が混ざり合い、二人の体を包み込む。
「これは」
ゼファリアス様が息を飲む。
彼の体内を蝕んでいた魔力枯渇の呪いが、俺の魔力と循環することで、音もなく溶け去っていくのがわかった。
互いの魔力が、互いの欠落を完全に補完し合う。
血誓の契約。
魂の底まで結びつく、絶対的な伴侶の証明。
「これで、俺はずっと、あなたの傍にいられますね」
俺が微笑むと、ゼファリアス様はゆっくりと目を閉じ、俺の額に自らの額を重ねた。
「ああ。もう二度と、離しはしない」
冷たい荒野の真ん中で、俺たちの呼吸だけが静かに重なり合っていた。




