第10話「白光に降り立つ傲慢なる神と、抗う黒」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『俺の命は、俺のものだと思っていた時期があった』
灰の空を覆っていた厚い雲が、不自然な形にねじれ始めている。
城のバルコニーに吹き付ける風の温度が、急激に変化した。
凍てつくような冷気の中に、ひどく甘く、むせ返るような花の香りが混じっている。
俺はバルコニーの手すりを強く握りしめ、上空の異変を睨みつけた。
隣に立つゼファリアス様の外套が、荒れ狂う風に激しく波打っている。
彼の青い瞳は、雲の渦の中心を射抜くように細められていた。
「来るぞ」
低く冷たい声が、風の音を切り裂いて鼓膜に届く。
その瞬間、天空が音もなく真っ二つに割れた。
裂け目から溢れ出したのは、眼球を焼き尽くすほどの強烈な純白の光だ。
物理的な質量を伴った光の奔流が、グラシエル城を容赦なく押し潰そうとする。
黒曜石の壁が悲鳴のような軋み音を上げ、城全体が激しく揺れた。
俺はたまらずひざまずき、両手で顔を覆った。
指の隙間からでも、その光の暴力性が網膜に焼き付いてくる。
光の中から、滑るような足取りで一つの人影が降り立ってきた。
足元に透明な階段があるかのように、重力を完全に無視した動きだ。
透き通るような金糸の髪。
性別すら曖昧にさせる、完璧に均整の取れた恐ろしいほどの美貌。
背中には光の粒子で形成された巨大な六枚の羽が揺らめいている。
精霊王、ゼフィロン。
その存在が放つ神々しさは、ひどく人工的で、呼吸をすることすら罪悪感に思わせるほどの威圧感を持っていた。
「見つけたぞ、我が愛しき器よ」
ゼフィロンの声は、空間そのものを共鳴させて直接脳内に響いてくる。
何重にも重なったような、高く澄んだ、しかし感情の欠片もない冷酷な響きだ。
俺の胸の刻印が、火を押し当てられたように激しく脈打ち始めた。
布越しに青白い光が漏れ出し、心臓の鼓動を強制的に速めていく。
「ゼフィロン」
ゼファリアス様が、俺を庇うように一歩前に出た。
彼が床を踏み鳴らした瞬間、バルコニー全体に分厚い氷の壁が展開される。
光の奔流が氷の壁に激突し、凄まじい衝撃音が連続して弾けた。
「下等な魔族が、神の御前に立つか。お前はただの取るに足らぬ存在に過ぎないというのに」
ゼフィロンは羽を微かに動かし、氷の壁を一瞥した。
それだけで、絶対零度の硬度を誇るはずの氷が、音もなく溶け落ちていく。
次元の違う力だ。
ゼファリアス様の魔力が、根本的な法則の違いによって無力化されている。
「愛し子よ。お前は己の役割を理解する時が来た」
ゼフィロンの透き通った瞳が、俺を真っ直ぐに捉えた。
体が鉛のように重くなり、指一本動かせない。
「お前のその体にある万色の魔力は、この歪んだ世界を平定するための鍵だ。命を燃やし、大封印を発動させよ。そうすれば、魔界も人間界も、争いのない完全な静寂に包まれる」
平和な世界。
俺の命一つで、それが手に入るというのか。
争いがなくなり、誰もが傷つかない世界。
俺が死ねば、ゼファリアス様も魔力枯渇の呪いから解放されるかもしれない。
不要な人間として捨てられた俺が、最後に誰かの役に立てる。
なんて美しい、そして残酷な取引なのだろう。
『それでいいじゃないか』
頭の奥で、もう一人の自分が囁く。
どうせ空っぽの命だ。
燃やし尽くして、意味を持たせろ。
俺は無意識のうちに立ち上がり、ゼフィロンの光に向かってフラフラと歩みを進めていた。
足取りがおぼつかず、視界の端が白く霞んでいった。
「ルシア」
背後から、ひどく焦燥を含んだ声が聞こえた。
同時に、手首を力強く掴み引かれる。
凄まじい力で引き戻され、俺はゼファリアス様の硬い胸に激突した。
「離してください」
俺は彼の腕の中でもがき、すがるように顔を見上げた。
「俺一人の命で、全部終わるなら。あなたも、苦しまなくて済むなら」
ゼファリアス様の青い瞳が、激しく揺らいでいる。
彼は俺の肩を両手で掴み、骨が軋むほどの力で締め付けた。
「黙れ」
それは王としての命令ではなかった。
ただの一人の男としての、絞り出すような懇願の響きだ。
「お前の命は、お前だけのものだ。誰かの道具として消費されるためにあるのではない」
彼の言葉が、俺の耳の奥に突き刺さる。
「お前は、余の傍にいる。それが余の命令だ」
ゼファリアス様の声が、震えていた。
彼の手から伝わる必死な熱が、俺の中の虚無感をゆっくりと溶かしていく。
俺は道具ではない。
この人が、俺を必要だと言ってくれている。
俺の視界が急速にクリアになり、胸の刻印の痛みが嘘のように引いていった。
俺はゼファリアス様の外套を強く握りしめ、ゼフィロンを真っ直ぐに睨み返す。
「俺は、あなたの駒にはならない」
俺の言葉に、ゼフィロンの完璧な顔がわずかに歪んだ。
「愚かな。器が意志を持つなど、許されるはずがない。ならば、無理やりにでも引きずり出すまでだ」
ゼフィロンが右手を高く掲げた。
上空の雲がさらに激しく渦を巻き、無数の光の槍がバルコニーに向けて降り注ぐ。
ゼファリアス様が俺を抱き寄せ、瞬時に黒曜石の結界を展開した。
光と闇が激突し、世界そのものがひび割れるような轟音が鳴り響く。
鼓膜が破れそうな衝撃の中、俺はただ、俺を抱きしめる彼の腕の力強さだけを感じていた。
結界の外側で、光の槍が絶え間なく炸裂している。
黒曜石のドームに亀裂が走り、細かい破片が頬を掠めた。
鋭い痛みが走り、生暖かい血が首筋を伝い落ちる。
ゼファリアス様は片手で結界を維持しながら、もう一方の手で俺の背中を強く抱え込んでいた。
彼の呼吸が荒く、体温が異常なほどに上昇しているのがわかる。
魔力を急激に消費しているのだ。
「ゼファリアス様、魔力が」
俺が叫ぶが、轟音にかき消されて届かない。
彼は俺の言葉を待たず、結界の一部を意図的に解除した。
開いた穴から光の槍が飛び込んでくる直前、彼の指先から放たれた極低温の吹雪がそれを迎撃する。
空中で氷と光が衝突し、細かなダイヤモンドダストとなって降り注いだ。
その美しさに目を奪われる暇もなく、ゼフィロンがゆっくりと降下してくる。
「抵抗など無意味だ。世界の理に逆らうことはできない」
ゼフィロンの冷酷な宣告が、頭の中に直接響く。
「理だと」
ゼファリアス様が、血を吐くような声で吼えた。
「貴様が作り出したまやかしの盤上で、これ以上誰も踊らせはしない」
彼の全身から、黒いオーラのような魔力が立ち昇る。
それは周囲の光を食らい、空間そのものを凍結させていくほどの凄まじい密度を持っていた。
氷の槍が数千本も空中に形成され、一斉にゼフィロンに向かって射出される。
ゼフィロンは光の盾を展開したが、ゼファリアス様の執念を込めた氷はそれを易々と貫通した。
ゼフィロンの羽の一部が切り裂かれ、光の粒子となって霧散する。
「人間界へ向かうぞ」
ゼファリアス様が俺の腰を抱え上げ、バルコニーの縁から空へと身を躍らせた。
落下する浮遊感に胃が持ち上がる。
空中で黒馬が召喚され、俺たちはその背に飛び乗った。
「ゼフィロンの本体は、人間界の星詠み教団の中枢にある。そこを叩かなければ、終わらない」
風切り音の中、彼が短く告げる。
俺は彼に強くしがみつき、後ろを振り返った。
ゼフィロンの巨大な光の幻影が、城の上空で怒りに身をよじらせている。
俺たちの向かう先には、かつて俺を絶望の底に突き落とした金色の街がある。
だが、今の俺は一人ではない。
俺の背中には、世界で一番強くて、一番不器用な人の体温がある。
俺の胸の刻印が、決意に呼応するように静かな温もりを放ち続けていた。




