「抜け出せない辛い日々」
──生徒会長演説会を数日後に控えた1-Aの教室。
黒縁眼鏡の少年は一人、自分の席に着席していた。
朝日が教室に差し込み、誰もいない閑散とした室内で読書に興じる。
ページを捲る、紙の擦り切れ音が微かに響く。
早朝に太陽光を浴びて、通学しているお陰か本の内容がスラスラと頭に入ってくる。
さらに整理のついた脳内ではいろいろな考えに耽ることが出来る。
しかし、その半分近くは余計なことを思考してしまう。
少なくとも中学時代はこんな状況ではなかった。
付け加えるならば、二年までは。
他の人に問い掛けたい。
目の前で痛めつけられてる人を見つけて心が痛まない人などいるのだろうか?
確かに全く知らない人間ならありえるかもしれない。
他人事──対岸の火事と、見てるだけで割り切れるかもしれない。
しかし、知り合いの中で行われていたことならば、答えは──いいえだろう。
少なくとも良心の呵責が働くはずだ。
周りからそれが偽善だと言われるならばそうかもしれない。
だが、偽善は偽善でもそれは善だ。
あの時とった行動に後悔も、反省もない。
為すべきこと──正しいと思った自分の気持ちに従っただけだ。
──しかし、結果としてこれはなんだ? と少年は自問自答する。
周りから向けられる忌むべき、冷たい視線の応酬は。
一人の少女を助けるのに、一人の少年が代わりに犠牲となる。
イジメられ、暴行を受けた彼女の容態にいてもたってもいられなくなって飛び出し、応急処置を施したあの日を、少年は思い出す。
それが地獄の始まりだった。
──自分は西条に目をつけられた。
彼女を助けられた満足感は間違いなくあった。
自己満足かもしれない、でも間違いなく彼女を救えたと思っていた。
だが、突き付けられた絶望はそれを上回るほどだった。
普段通りに接しているのに、いつも通りに向けてくれていた友人達の笑顔が日に日に消えていく、周りから嫌われていく。
その原因を知った時、さらに耐えられなくなった。
千里眼を使って少女の肢体を視姦したいがために応急処置に名乗り出た。
──驚愕だった。
あまりにも馬鹿げていて、噂を流した人間の幼稚性を疑った。
もちろん流した相手など少年はすぐに察しがついた。
少女のイジメを扇動していた西条静香だ。
一度流れた噂は一人歩きして、流体的に生徒間を止めどなく流れていく。
塞ぎ止めるのは不可能だった。
やがて少年は自分から人と関わるのに疲れた。
こんな辛い思いをするなら、と思うようになった。
だから人と距離を置くことにした。
そうすれば傷つけ合うことはない。
自分からも見えない溝を、堀を、境界を作り、自分と他人の接点を完全に潰した。
しかし、授業で仕方なく接しなければいけないことだってある。
その時は関わりを持ち、目的が達成したらすぐに離れる。
関わりは最小限に留める。
そんな生活にも一年続けばもう慣れた。
ページを捲る指に力が篭る。
紙にシワができ、少年は小さく誰もいない教室で溜息を吐く。
早朝、誰もいない時間に一人着席している少年は毎日この時間に登校していた。
朝早くに登校すれば、誰とも会わずに教室に直行出来るからだった。
頭をふり、雑念となった思考を振り払うと本の中の物語に意識を移す。
「おはよう、健太郎」
突然、声を掛けられた健太郎は目を見開いて顔を上げた。
読書に集中していたせいか、音もなく近づかれたのかどちらかは分からないが、健太郎の机を挟んだ目の前に史弥が眠たげに立って話しかけていた。
今登校したばかりか、通学バックを片手に持っている。
「…………おはよう」
無愛想に挨拶を返した健太郎はすぐに視線を落として読書に戻る。
そんな話しかけないでオーラを多分に含んだ態度に興ざめもせず、真摯に会話を続けようと史弥はさらに話しかける。
「こんな朝早くに読書って、熱心だね」
「朝早い方が内容が頭に入ってくるから」
「そうか、おっ! この前とはまた違う本なんだな」
「…………」
今度は無言の肯定が史弥へ帰ってくる。
僅かに首が縦に振れたの見ていた史弥にはそれが理解できた。
会話の糸口になる言葉すら発しなくなってしまったそんな健太郎に、史弥は慎重に恐る恐る話しかけた。
「……今は読書の邪魔だったよな。ごめん、失礼したよ」
申し訳なさそうに告げた史弥に健太郎の胸が少し締め付けられた気がした。
いつもならそれはまやかしだと思うことで緩和出来るはずだった。
しかし、今日は違った。
この顔見知り程度のはずのクラスメイトを、事情を知らなかったとはいえ声を掛けてくれた史弥を、無下にするのを惜しんでしまった。
だから次に出た自分の言葉に、自分でも健太郎は内心、驚いていた。
「別にそこまで気にならない」
普段なら他にも言いようはあった。
「助かる」や「すまない」とか肯定を含む歯切れの良い回答はいくらでも出たはずだった。
用意されていたはずの答えが口から出なかった。
これだけでも驚きだ。
眉が少し釣り上がり、意外な表情を見せた史弥は、切るはずだった会話を続けた。
「あんまり改まって言うことじゃないんだけど、健太郎と友達になりたい。もちろん健太郎のプライベートの邪魔は極力しないように努力する。良いかな?」
健太郎からすれば嬉しい一言だった。
──前の健太郎からすれば。
「それは出来ない」
冷たく突き放す一言。
沸点の低い人間であればこれで怒っても仕方ない言い方。
『親切心で言っているのに……ならもういいよ』、そう言って離れていくことだろう。
だが史弥は違った。
焦燥感に駆られることもなく、心配気な表情になると短く「そっか、なら仕方ないか…………」と残念な様子で引き下がった。
だから健太郎が次に発した問い掛けは気まぐれで突拍子もなく出てしまった。
「……怒らないのか?」
また意外なものを見るような表情を史弥は作ると、反問した。
「怒って欲しかった?」
途端に自分が口にした言葉に健太郎自身が面食らってしまう。
自分で何を言ってるんだとすぐに後悔した健太郎は、訂正を口にした。
「いや、別にそういうつもりでは…………」
「そうか、別に気が向いた時に俺に話しかけてくれれば良い。色々と無理はしなくてもな」
それ以上追求されることもなく、むしろ健太郎がフォローされる形になってしまった。
「変なことを聞いてすまない」
ひとまず健太郎は史弥へ謝罪を挟む。
「いや、気にしなくて良いよ」
ここでふと疑問が健太郎に生じた。
このクラスメイトは自分の過去を誰かから聞いたのではと。
多少の親切心でここまでするかと思ったのだ。
気の使い方が周りとは違う何かを感じ取った健太郎にその疑問は好奇心となり興味を引いた。
だから自然と唇が動いて疑問を口にしていた。
「聞いたのか?」
あえて主語を歯抜けにしたことで様々な問い掛けを含ませ、相手から情報を引き出す常套手段だ。
健太郎は少なくとも頭が切れるタイプだった。
この短い一瞬で考えた健太郎は史弥の返事で確信に変わった。
「…………あぁ、別のクラスの友達から聞いたよ。西条のこと」
「なら分かっただろう。抗ったって変えられない事はある」
「生憎、憎まれるのは慣れっこでね。それにそういう立場にもなったんだ」
「どうゆう意味だ」
「風紀委員になった」
頭の片隅で忘れ去られていた記憶を思い出して健太郎は意味を理解する。
健太郎は知らなかった訳ではない。
クラスメイトが話している声は自然と耳に入ってくる。
その一つに史弥が風紀委員に抜擢された話しは嫌でも耳に届いた。
ただ聞き流していた。
しかし、しっかりと記憶として頭の片隅の奥深くに格納されているだけ、健太郎は馬鹿ではなかった。
「なら尚のことだ。揉め事を渦中に自分から突っ込んでいくだけ無駄。損をするだけだ」
ここで会話を切ろうとページに視線を落とした時、妙に力がこもった反論が返ってきた。
「嫌だね。俺は俺が正しいと思ったことを──間違っていないと思うことを行う」
「…………」
強引な力を持った言葉が、健太郎は胸に刺さったのを感じた。
史弥へ動揺を悟られぬ様に表情を変えず、本へ視線を落とし込むことで健太郎は悟られない様にした。
史弥もそんな健太郎の機微に気付かず、読書に意識をシフトしたことを認識すると改めて自席へ着席しようと翻して健太郎から離れて行く。
これ以上気を引くものなんて何もなかったはずなのに、どうしてこんな事を健太郎は口にしたかは分からなかった。
「もし──自分の周りで人が消えて、西条が絡んでいたなら、敷地内にある廃校舎へ行くといい」
風紀委員になった史弥に対する助力を考えたつもりはなかった。
ただの気まぐれ。
何故かは分からないが、史弥が西条の情報を欲している様な──健太郎の主観でそういう風に感じ取れた気がしたからだ。
振り返った史弥は何故そんな事を教えるのだとか、知っているとは聞かなかった。
ただ屈託のない笑顔を作ると、
「健太郎、ありがとな」
感謝を口にしていた。




