久利生遥偉編 精神衛生上のリスクが高い
対して改めてルイーゼは自分が自分であるかどうかすらどうでもいいようだ。<オリジナルのルイーゼ・バーンシュタインの家族>についても、本来のルイーゼ・バーンシュタインだった時点ですでに何の思い入れもなかったと、惑星探査の任務中に語っていたとのこと。
いやはやまさに、
『極まってる』
って感じだな。彼女みたいなのはさすがに例外だろう。自分がオリジナルとは別人であると認めざるを得ない事情はそれぞれありつつも完全に割り切れるとは限らないのが人間という生き物だからなあ。
シモーヌがレックスへの気持ちを消し去ってしまえないのもそれだと思う。
俺達はそれぞれに折り合いをつけて平穏に暮らせてはいるもののそのこと自体が、
『個々人の資質や器に依存している』
のは否めないのも分かってはいるんだ。と同時に各々複雑な思いを抱えつつ折り合いはつけられている。決して簡単に上手くやれているわけじゃない。
だからこそ、
<自分がオリジナルとは別人なんだと受け入れ易くなる制度>
を用意したいとも思ってる。
『姿形が変わっていても自分は元の自分と同じ人間だ!』
と思いたいのもいるだろうが、シモーヌとシオのような<同一人物が複数いる事例>はこれからもあると思う。そうなったら、
<自分が複数いる状況>
に嫌でも向き合うことになるだろう。その時に、
<どんなに記憶や人格がそのままでもオリジナルとは別人であると受け入れられる道筋>
があった方がいいと思うんだ。その一方で、
『自分が複数いてもなお自分は元の自分だ』
と思いたい場合には属するコミュニティを別にするとかの対応も必要になると想定しておきたい。シモーヌとシオは『自分はオリジナルとは別人である』と認められているもののその上で精神の安定を確保するためにも別々に暮らしている。特にシオは想い人であるレックスと結ばれて、でもシモーヌはそうじゃないわけで、そんなシオとレックスの姿を間近で見るというのはさすがに精神衛生上のリスクが高いだろうし。
状況的にそうなるのは仕方ないとシモーヌも分かっていても完全に割り切れないのも人間なわけで。
ロボットは、
『完全に同じモデルが複数いる』
のはむしろ当たり前で製造時にすでに<シリアルナンバー>が割り振られているから実は<完全に同じ個体>というのはそもそも存在しないんだよな。<まったく同一の仕様>であっても起動したタイミングが一瞬ズレているだけでその瞬間から条件は変わっていくし、情報を数値化して管理できるロボットはその辺りを正確に認識できるからなあ。




