久利生遥偉編 全員がそうできるとは
ルイーゼにとって今の自分が<コピー>かどうかは本当にどうでもいいらしい。ただただ、
『今の自分が興味あるかどうか』
だけが大事で。
俺も、ルイーゼほどではないものの<過去>についてはそこまで拘りはない方だと思う。もちろん両親や光莉に関する記憶については大切なもののそれ以外についてはたとえ友人とのであってもそこまで執着はないんだ。まあ<友人>のつもりだった相手自体が、
『お互いに過剰に束縛しないし無理に合わせようとしない』
という感じだったからというのもあるかもしれないが。なにしろ、
『何年も連絡を取り合っていなかったのに偶然に顔を合わせたりしたら昨日も会ってたかのように気軽に話ができる』
って相手だったし。そいつが今はどうしているかは確かめようもないものの、だからといって両親や光莉と永久に会えなくなった事実に比べればそこまで苦しくもないのは確かなんだよな。両親や光莉のことを思い出すと今でも胸がざわめく感じがあるってのに友人に対してはそれがまったくない。
『元気にしててくれればいいな』
とは思ったりするにしても。だからもし俺が<例の不定型生物由来のコピー>として顕現しようと、しばらくはショックを受けてても割と早々に元の俺とは別人なんだと受け入れてしまいそうな気はするな。
ただ、今の俺を知る周りの人間が別人と認識してくれるかどうかは分からないが。そう認識してくれるのもいるとしても全員とは限らない。全員がそうできるとは限らない。
実際、シモーヌもビアンカも久利生もシオもレックスも果たしてどこまでお互いを『オリジナルとは別人だ』と認識できているかと言われれば正直なところ心許ない。
シモーヌとシオはそれこそ<同じ秋嶋シモーヌのコピー>として同時に存在しているし、レックスも<生命活動を行えなかった個体>とはいえ自分と同じ<十枚アレクセイのコピー>を目撃しているからまだ『そういうことなんだな』と自分に言い聞かせられているかもしれないが、ビアンカや久利生は必ずしもそこまでじゃないかもしれない。久利生は表面上は割り切れているようにも思えるものの、それもある意味、
『別人である方が彼自身にとって都合がよかったから』
というのもありそうだ。<久利生家の呪縛>から解放されるためにも。
また、ビアンカの場合は、
『アラニーズとして顕現してしまったから』
という事情もあって、
『元の自分とは違うと認識せざるを得ない』
のはあったんだろうな。その一方で久利生に対しては<オリジナルのそれ>と同じ気持ちを持っているそうだが。




