黎明編 家という鎧
かつては<家という鎧>で自分達のコミュニティの結束を図ると同時に他のコミュニティから自分達を守る必要があった。だから<家>という概念も必要だったのは事実だろうし、鎧としての機能を果たしていたのも確かなんだろう。決して最初から<無駄なもの><束縛><害悪>だったわけじゃないと俺も思う。
けれど、血を分けた者同士が殺し合うことになるのも珍しくなかったのを考えればそれは決して万能ではなかっただろうな。だからこそ<家>に頼る必要をなくすために地球人はネットワークを拡大しライフラインの共通化を図りより広範囲のコミュニティを築いてそちらで自分達を守れるのを目指してきた。その結果として昔ほどは<家>に拘る必要もなくなっていた。
にも拘らずかつての価値観に執着し<家を守ること>そのものを目的化させそこに属している個々人には、
『家を守るための歯車かつ装置であれ』
と求めるようになってしまった。オリジナルの久利生遥偉もそのために生きることを強いられた。
けれど、ここには<久利生家>は存在しない。<ビクキアテグ村の久利生遥偉>は<久利生家の遥偉>じゃない。ただの一個人だ。だからこそ我が子に対してもそれぞれ一個人であることを認め、互いに人間であることを受け止めるように心掛けてきた。その恩恵に与れたのはビアンカもだったな。オリジナルのビアンカ・ラッセがどれほど想いを寄せようとも<久利生家の遥偉>とは結ばれることはなかったはずなんだ。けれどここにいるのは<一個人・久利生遥偉>だ。だからこそ想いを受け止めてもらえた。ゆえにビアンカもまた、自分の子供達をただただ一個人として受け止めることを心掛けてくれた。
自身の親からそう認めてもらえてきた未来も黎明も蒼穹も、他者を<一個人>として認めるなんてむしろ、
『当たり前』
だった。シンプルな話だ。立場や背景は関係なくただただ一個人として対峙できるんだから、それぞれの<想い>もあくまで対等なものでしかない。その想いとどう向き合うかについても<家の事情>なんてものに縛られたりしない。ひたすら、
『自分の想いが届くかどうか。届けられるかどうか』
だけを考えればいいんだ。
<自分自身の在り方>
だけで勝負できるんだよ。そして想いを向けられる側も、無理にどちらかだけを選ぶ必要もない。どちらも等しく愛せるならその両方と向き合えばいい。
<黎明の恋物語>
は、地球人社会のそれのように紆余曲折が必要になるわけじゃないんだ。




