黎明編 同列には語れない
『どんなに自身の選択について責任を負ってるつもりでもいつかそれを後悔する場合もある』
それもまた<人間という生き物>の残念な部分でもあると思う。野生の生き物は基本的に<後悔>はしない。人間ほどの知能を持たないから、
『後悔というものができない』
と言った方が正しいのかもしれないにしても、実際に後悔はしない。しかし人間はそれができてしまう。こういう点から見ても人間に野生の生き物の本能や習性を当てはめて考えるのは無理があると思うんだよ。<獣人としての形質を持つ朋群人>については野生の生き物にずっと近いかもしれないが、それでもやっぱり野生の生き物と同じじゃない。<力のアウトソーシング>を使える時点でもう同列には語れない。
黎明や未来や蒼穹は、『ムカついたから』なんて理由で武器を持ち出したりはしないものの『それができてしまう』時点で違うんだ。
だからこそ、
『人間として敬う』
ことを疎かにしちゃいけないんだ。子供は大人に比べて未熟で未発達だとしても『人間じゃない』わけじゃない。大人が子供の前で、
『人間を人間として扱わない』
なんてのを示してちゃ駄目なんだよ。親がそんなことをしていて子供が、
<他者を敬うことができる人間>
に育つはずがない。具体的に<他者を敬う振る舞い>を示してもらえなかったんだから学びようがない。『外面がいい』だけじゃそれは他者を敬ってることにはならないわけで。
親にとって子供は<他者>だ。<赤の他人>ではなくても、
<自分とは別の人間>
という意味では他者なんだよ。その他者を敬う振る舞いを間近で示してこそ子供も感覚としてそれを学べる。言葉だけじゃ<感覚>は伝わらない。大人なら経験上それを知っていてもおかしくないのにな。なぜか<親子>というフィルターを通すとたちまちポンコツになるのはなんなんだろう。
要するに、
『自分を甘やかしてる』
ということなんだと俺は思うよ。その辺を肝に銘じておかないと俺自身もきっとポンコツになるだろうという予感はある。それでなくてもポンコツなんだし。
<立派な親>である必要はない。ただ、
<自分じゃない相手>
に対して真摯であろうと努めるのが必要なんだ。そう努める姿勢を子供に示すのが必要なんだ。それを子供は学んでいくんだ。完璧ではなくても立派ではなくても、
<他者に対して真摯であろうと努めることができる人間に育つことができる土壌>
がそこに生まれると。
『親がそれを台無しにしてどうするんだ?』
と、俺は自分自身に言い聞かせてる。




