20、いらない
今度は、唐突にそんな言葉を口にした。
まるで求婚みたいな台詞なのに。
声色には熱も照れもなくて、ただ事実を述べているだけのようだった。
だから余計に、意味がわからない。
この状況も。
目の前の人も。
何ひとつ理解できないまま、私はただラルフさんを見上げる。
視線が絡むと、ラルフさんはにこりと微笑む。
柔らかな、いつもと同じ笑顔。
──なのに。
その目だけが、まったく笑っていなかった。
「……そんなに見られると、困ります」
小さく呟く声は穏やかなのに、なぜか背筋が冷える。
反射的に目を逸らした。
(ここ、どこ……? 何をされてるの、私……)
思考がまとまらない。
さっきからずっと、頭の芯に薄い霧がかかっているみたいだ。
「あの……っ」
もう一度、視線を戻した──その瞬間だった。
すぐ目の前に、ラルフさんの顔がある。
近い、なんて距離じゃない。
吐息が触れそうなほど、すぐそこ。
いつの間に、ここまで。
気づいたときには喉がひくりと鳴っていて、息がうまく吸えない。
そっと、両頬に手が触れる。
包み込むみたいな優しい手つきで、乱暴さなんて欠片もない。
なのに──逃げ道を、塞がれた。
そんな錯覚が、背中をぞわりと這い上がった。
「ラルフ、さん……」
「……」
離れなきゃ、と本能が叫ぶのに、足も、腕も、まるで誰かに縫い止められたみたいに動かなかった。
(なに、これ……)
視線すら、逸らせない。
「は、離して……」
自分でも驚くほど、かすれた声が喉から落ちる。
そのとき、低い声がすぐ耳元で囁かれた。
「動かないで」
命令でも、脅しでもない。
ただ事実を告げるみたいな、静かな言い方だった。
なのに──
体が、ぴたりと止まった。
糸で縫い止められたみたいに、指一本、動かない。
うるさいくらいに鳴っているのは、心臓の音だけだった。
「……少しだけ、教えてください」
怪我人に問診でもするみたいな、やわらかくて丁寧で穏やかな声音だった。
こんな状況じゃなければ、きっと安心してしまう声。
「僕の正体を知って、近づきましたか?」
「……いいえ」
(ちが──)
否定しようとした瞬間、唇が勝手に動いた。
自分の意思より先に、言葉だけが滑り落ちる。
喉の奥が、ひやりと冷たい。
違う、と言いたいのに声が続かない。
「ヴォルさんに頼まれて?」
「……はい」
(どうして……)
まただ。
嘘をつこうと考えた、その思考ごと消される。
隠す、誤魔化す、黙る──
そんな選択肢が、最初から存在しなかったみたいに。
この人の前に立っているだけで、頭の中を一枚ずつ剥がされていく。
全部、見透かされている気がした。
「ああ……やっぱり」
ラルフさんが怒りでも嘲りでもなく、ただ純粋に嬉しそうに笑う。
難しい問題の正解を引き当てた子どもみたいな、無邪気な笑顔。
──だからこそ、怖い。
ぞくり、と背中を冷たいものが這い上がった。
「あ、そうだ」
ふと思い出したみたいに、ラルフさんが小さく首を傾げた。
「例の粉。焚こうとしましたよね?……でも、ヴォルさんに止められた」
問いかけの形をしているのに、声色は確信に満ちていた。
ただ事実をなぞっているだけで確認ですらない。
「……はい」
まただ。
考えるより先に、口が動く。
喉が勝手に開いて、勝手に肯定してしまう。
「ああ……よかった」
ほっとしたように、ラルフさんは微笑んだ。
──よかった?何が?
背筋に、じわりと冷たい汗が滲む。
「あれ、結構強いんですよ。量を間違えると壊れちゃうから」
壊れちゃう。
子どもが玩具の話でもするみたいな、軽い口調。
人に使う言葉じゃない。
ぞわ、と鳥肌が立つ。
「……あれは麻薬です」
さらりと落とされた一言は、あまりにも簡単に告げられて、逆に理解が遅れた。
──麻薬。
その単語が、遅れて胸の奥に沈む。
途端に、いくつもの光景が脳裏に蘇った。
病室の隅に残っていた黒い焦げ跡。
甘ったるくて、やけに鼻につく匂い。
ぼんやりと虚ろな目で笑っていた患者たち。
誰もいないはずの天井を見つめて、何かと話していた声。
点だった記憶が、線になる。
──最初から全部、ラルフさんの仕業。
目の前の男が、にこりと微笑む。
優しくて、穏やかで、善人みたいな顔のまま。
それが何より、恐ろしかった。
ぞっとして見上げると、彼はただ観察するみたいに私を見ていた。
人を見る目じゃない、結果を待つ研究者のような目だ。
「それと……もう治癒法も見つけてますよね?」
責めるでも探るでもなく、ただ世間話でもするみたいな穏やかな声だった。
「……はい」
違う、と言いたいのに、喉が勝手に言葉を吐き出してしまう。
止めようとしても、舌が言うことをきかない。
ラルフさんは満足そうに目を細めた。
「本当に優秀だ」
うっとりとした、熱を孕んだ視線が向けられる。
褒め言葉のはずなのに、少しも嬉しくない。
「だから困るんです。あなたの周りに人が集まるの」
困る──?
その言葉の意味を考えるより先に、胸の奥がざわついた。
「僕の邪魔になる」
淡々と告げられたその一言に、背筋を冷たいものが走った。
そこには悪意も怒りも敵意もなく、ただ事実を並べているだけ。
「そろそろ潮時かなって思ってたんですよね」
独り言のようにそう呟いて、ラルフさんは小さく微笑った。
その笑みは穏やかで、優しくて──まるで本当に私を気遣っているみたいで、だからこそ言いようのない不気味さが胸の奥に滲んだ。
「……殺してしまえば、問題ないか」
あまりにも自然に、まるで明日の天気でも話すみたいな軽さでそう言った。
(この人……誰……)
妹の話をして、患者を気遣って、優しく笑っていた人。
──化けの皮が剥がれただけだ。
きっと最初から──こっちが、本物だった。
ラルフさんは私を見下ろして、慈愛みたいな顔で笑った。
それは壊れ物を手に入れた子どもみたいだった。
「ああ、そう……その表情」
私の顔を見て、ラルフさんはどこか恍惚とした、熱を帯びた吐息を漏らした。
指先で撫でるでもなく、ただ確かめるみたいに私の頬に触れる。
「その顔を見るために、僕はこの仕事をしているようなものなんだ」
ぞくり、と背中が粟立った。
告白のはずなのに、まるで研究成果を語るみたいな口調だった。
「でも安心してください。殺すのは依頼主の方にしようかなって思ってて。依頼ごと、無かったことにするのも悪くない……どう思います?」
軽い問いかけだった。
天気の話でもするみたいに、人の生死を並べている。
けれどそこに私の意思を尊重する気配はなくて。
ただ──
どんな反応をするのか、観察している目をしている。
こんな人を、私は知らない。
「……サラさんも可哀想だ。僕みたいなのと、一生一緒にいる羽目になるなんて」
くす、と喉の奥で笑った。
言葉だけ聞けば自虐なのに、その声は少しも傷ついていない。
むしろ、嬉しそうだった。
自分が“異常”だと理解しているくせに、それを恥じるどころか、誇っているみたいに笑っている。
その歪んだ在り方が、背筋をぞっと撫でた。
凍りついた喉が、かすかに動く。
「い、いやよ……」
楽しそうに笑っていたラルフさんの動きが、糸を切られた人形みたいに、ぴたりと止まる。
そしてゆっくりと、感情の抜け落ちた目だけがまっすぐ私を見下ろした。
「……何……?」
向けられた視線に、息が詰まる。
そこにあったのは、もう“さっきのラルフさん”じゃなかった。
笑いも、怒りも、何も残っていない。
光のない、空っぽの瞳をしている。
人の形をした“何か”に見下ろされている気がして、背筋がぞわりと冷えた。
「……今の、もう一回言ってくれる?」
ラルフさんが首を傾げ、パチンと指を鳴らした。
その音と同時に、喉に絡みついていた何かがほどける。
さっきまで縛られていた感覚が、嘘みたいに口元の強張りが消えた。
(……解けた……?)
逃げることも、叫ぶこともできたはずなのに、足は床に縫い止められたみたいに動かなかった。
ここで何か一つでも言葉を誤れば終わると、本能だけが必死に警鐘を鳴らしている。
それでも、頷くことだけはできなかった。
死ぬよりも、その選択をする方がずっと嫌だった。
震える喉に無理やり空気を押し込み、必死に声を絞り出す。
「……あなたと共には行けないわ。私には──」
「……ああ」
被せるように、ラルフさんが小さく呟く。
その声は独り言みたいにかすれていて、私に向けられたものなのかさえ分からなかった。
「そっちなんだ」
「……え?」
ラルフさんは、ほんのわずかに目を細めた。
怒りでも悲しみでもなく、ただ結果を確かめる研究者のような、感情の抜け落ちた視線だった。
「なるほど。サラさんは、僕を選ばない」
こくりと頷き、淡々と事実を読み上げるみたいに言った。
「じゃあ、いらない」
ぞっとするほど軽い声だった。
壊れた玩具を処分するみたいに、ただ「価値がなくなった」と判断しただけの声音で、そこに感情はひとかけらも乗っていない。
あの、光の抜け落ちた目と視線が絡んだ、その瞬間。
「死ね」
たった二文字。
囁きみたいな小さな声だったのに──
息が、止まった。
吸ったはずの空気が、どこにも届かない。
喉が、閉じている。
──入ってこない。
「……っ、か……は……」
指先が痺れ、視界が白く滲んでいく。
息が苦しいのに、喉は塞がれたみたいに声が出なかった。
「あはは……あなたが悪いんだよ?」
頭上で、楽しそうな笑い声が落ちてきた。
叱るでも怒るでもない、ただ「当然だよね」とでも言うような軽い声音で、頬に触れていた手が離れていく。
支えを失った体はそのまま床に崩れ落ち、冷たい石の感触が背中を打つ。
肺が焼けるように痛み、必死にもがいているのに、ラルフさんはもう、こちらを一度も見ようとしなかった。
興味を失った子どもみたいに、軽く肩を回して、ひとつ伸びをする。
「んー……これじゃ任務失敗だなぁ」
困ったなぁ、と世間話みたいな軽い口調だった。
さっき人を殺しかけたばかりの声とは、とても思えない。
「どうしよっか。証拠、消さないと。……ああ、そっか。治療院の人、全員いなくなればいいよね。うん。それが早いか」
ぞっとするほど、明るい声だった。
買い物の予定でも決めるみたいな軽さで、当たり前の顔をして命の数を数えている。
視界がゆっくり沈み、輪郭が水の底みたいに揺れた。
瞬きをした次の瞬間には、もうそこに姿はなくて。
残ったのは、水滴が落ちる音と、空気を求める音。
それだけが、自分のものじゃないみたいに、遠くで響いていた。
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