10、捨てる日
翌日。
体調は、決して良くはない。
けれど──動ける。
処刑前の、あの最悪の状態を思えば、今の不調など大したことがないように感じてしまうから不思議だ。
あのときは、立ち上がるだけで息が切れていた。
それに比べれば、まだ歩ける。
「……よしっと」
小さく気合いを入れる。
持っていく荷物は、ほとんどない。
必要な物資は、グレイキャットに任せてある。
荷物をまとめ終えて、ふと気づく。
──大切なものは、何ひとつない。
手紙だけ机に残した。
それで十分だ。
約束の時間までは、まだ余裕がある。
けれど、その前に──どうしても寄っておきたい場所があった。
視線を落とす。
胸元に流れる、長いくすんだ金髪。
この色も、この長さも、王女だった私の象徴みたいなものだ。
机へ向かい、引き出しを開ける。
中から取り出したのは、小さな鋏。
迷えば、きっと切れない。
だから、ためらう前に刃を入れた。
しゃり、と乾いた音が響いた。
◇◇◇
祖父が亡くなってから暮らしてきた、この離宮とも、いよいよ別れだ。
(もう、きっと戻らない)
部屋をぐるりと見渡す。
けれど、もう何も残っていない。
思い出らしい思い出も、未練も──ない、はずなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ、静かに痛んだ。
「……さようなら」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
それだけ言って、振り返らずに歩き出した。
昨日、試しに転移魔法を使ってみたら、驚くほどあっさり成功した。
魔力を練り、行き先を思い描く。
ふっと身体が軽くなる。
視界が歪み──
次の瞬間、私は昨日の噴水広場に立っていた。
(やっぱりできた……!!)
二回目でも、やっぱり嬉しい。
思わず頬が緩んだ。
はっとして手で顔を覆った。
……危ない。外套姿でにやける女なんて、完全に不審者だ。
昨日は部屋に転移した瞬間、エレナにノックされて喜ぶ暇もなかった。
こうしてゆっくり成功を噛みしめられるのは初めてだ。
離宮からここまでの距離なら、魔力もまだ余裕がある。
(いける。これなら、ちゃんとやっていける)
小さく息を吐き、用事を済ませてから、約束の時間にグレイキャットへ向かった。
今日はもう外套は被らない。
堂々と扉をくぐった瞬間、ヴォルがこちらを見て、目を見開いた。
「……髪……」
「ええ。スッキリしたわ。似合わないかしら?」
問いかけると、ヴォルは一拍置いて苦笑する。
「いや、似合ってる。似合ってる、が……驚いただけだ」
肩にかかる程度まで短くなった髪が、さらりと揺れる。
離宮を出る前、思い切ってばっさり切った。
王女の象徴みたいな、あの長い髪を。
高貴な女ほど髪は長く、美しく──
それが家の財力と身分の証だから、ずっと伸ばしてきた。
……でも、もういらない。
城を出る私には、ただ邪魔なだけだ。
(それに、前世じゃこのくらい普通だったものね)
首元が軽い。風が通る。
ただそれだけで、妙に自由な気分になる。
ついでに売ったら、ちょっとした路銀にもなったし。
(平民の女性で、あんな長さの人いなかったし……正解だったわね)
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「それじゃあ、出発しましょ!」
「……りょーかい」
結局、案内役として同行してくれるのはヴォルになった。
マイザー方面に用事があるらしく、ちょうど都合がいいらしい。
初めての馬車旅。
不安がないと言えば嘘になるが、もう後戻りはできない。
揺れる馬車が動き出し、私は小さく息を吐いた。
◇◇◇
馬車で五日。
ようやく、マイザーに辿り着いた。
転移魔法のため、途中いくつかの街に寄ってほしいと頼んだせいで、道のりは少し長くなったかもしれない。
体調は正直よくない。
ほとんど眠って過ごした。
それでも街に着くたび、ヴォルが声をかけてくれる。
転移には、行き先の鮮明なイメージが必要だからだ。
重たいまぶたをこじ開け、景色を目に焼きつける。
街並み。
空気の匂い。
人の声。
ひとつひとつを、逃がさないように。
それにしても──
(やっぱり、王都は活気があったけれど……)
辺境に近づいたからなのか。
それとも、ただ王都だけが異様に栄えていただけなのか。
王都の外をほとんど知らない私には、正確なことはわからない。
けれど──
離れれば離れるほど、街は確実に寂れていった。
建物は古び、人々の服は質素になり、活気も薄れていく。
笑い声より、ため息のほうが多い。
(……もう始まってるんだ)
あのクーデターまで、あと二年半。
まだ先の話のはずなのに、破滅へのカウントダウンは、とっくに動き出している。
このマイザーだって、本来ならそれなりに大きな街のはずだ。
それなのに、人通りはまばらで、どこか空気が重たい。
馬車の窓から見える景色に、胸の奥がじわりと冷えた。
道中、ヴォルと話す時間は思っていたより多かった。
そのおかげで、魔石の検証も進んだのはありがたい誤算だ。
いくつか魔石を用意してくれたので、試しに魔力を流し込んでみる。
当然のようにバレたけれど、もう隠す意味もないだろう。
調べてみてわかったのは──
色によって効果が変わること。
大きさによって出力が変化すること。
そして──私が魔力を込めても、発動自体は誰でもできること。
思った以上に使い道はありそうだ。
そんな話の流れで。
「……で、なんでマイザーに行くんだ?」
ふと、ヴォルに聞かれた。
目的。
その一言に、言葉が詰まる。
本当の理由なんて、言えるはずがない。
けれど──
代わりに、思ってもいなかった言葉が、ふっと口からこぼれた。
「……私ね。十六年間、一度も家の外に出たことがなかったの」
自分でも、驚くほど素直に言葉が出てきた。
「小さな世界の中で生きてきて、自分はなんて不幸なんだろうって思ってた。それでも、生きていく上で何かに困ったことはなくて……それが普通なんだって、疑いもしなかった」
視線を落とす。
「でも、違ったのよ。それは“普通”なんかじゃなかった」
外に出て、初めて知った。
奪われるのは、あまりにも簡単だということ。
日常は、驚くほど脆いということ。
ひもじい思いをしたこともない。
心をすり潰されるような日々を送ったこともない。
──それでも。
自分がどれほど恵まれた環境にいたのか。
今なら、はっきりわかる。
だから私は思ったのだ。
自分にできることを、何かしたい、と。
これは私の贖罪だから──
……なんて、口には出していないけれど。
その想いを伝えると、ヴォルはそれ以上何も聞いてこなかった。
◇◇◇
マイザーでの拠点は、グレイキャット支部の店のすぐ隣にある家だった。
ちょうど空いていたらしく、すぐに確保してくれた。
家具も一通り揃っていて、住むのに不自由はない。
荷物も少ないため、片付けはすぐに終わった。
馬車での長旅の疲れもあり、その日は早めに床に就いた。
──そのせいで。
夜明け前に、目が覚めてしまった。
その選択が、あんなことに繋がるなんて。
このときの私は、まだ想像もしていなかった──
読んでいただきありがとうございます!
あけましておめでとうございます!
穏やかな1年になりますように.....




