黒壁の向こう側
飛竜に乗って上昇すると進行方向に巨大な壁があり、それが遥か北方へとどこまでも伸びていっているのが見えた。
「あれは……」
「『黒壁』、メリッサと神聖国を分断する国境線」
『補足すれば、我が国を狂信者どもから守る強力な結界でもあります』
近付くと、それはあまりにも巨大な壁であることがよく解る。帝都の外壁も凄かったが、この壁の規模と迫力には到底及ばない。着地した飛竜を降りて下から見上げれば、思わず首が痛くなりそうな高さだ。
『さて、シンリさん。ここから我らは事情により同行出来ません。くれぐれもお気を付けください』
「ああ、ここまで連れて来てもらって助かった。本当にありがとう」
「ごめんねシンリ、無事に帰って来てね」
「大丈夫だ。ヴェロニカもありがとう」
二人に礼を言い、兵士の案内で黒壁内の通路に入る。通路が複雑に入り組んだ構造は、万が一敵の進入を許した際の備えなのだろう。途中で幾つかの結界を通過したとミスティも言っていた。
「この扉の向こうは神聖国。どうか本来の目的だけを考え、些事に囚われる事の無いように……」
「……わかった。ありがとう」
到着したのは人用の出入り口だろうか。小さいながらも作りの重厚な扉がゆっくりと開かれる。
差し込む眩しい光に目を細め、目を開くとそこは……
乾いた砂が吹き荒ぶ、一面の砂漠であった。
『警告。多数の者が接近中であると当機は告げます』
すぐにアオイは警告を発した。しかし、それを聞くまでもなくそれらはすでに目視出来る距離にいる。
「これは……」
くたびれたと言うより、すでにただのボロ布にしか見えない衣服を辛うじて纏い、誰もが髪はボサボサ。頬はこけ、眼底が凹むほどに痩せ細っている。
「難民?……しかも彼らは」
ボロの中から覗くのは、明らかに彼らが普通の人間ではない証。ある者はツノが、ある者には獣耳が、またある者には尻尾が……。
よくよく見れば、その全てが確かに亜人種。
そんな彼らが目指す先は、俺達がさっき出て来た扉のようだ。だが、俺達が通り抜けたと同時に扉はスーッと消えて、ただの壁があるのみ。なのに彼らは、必死で壁にすがりつき壁を叩く。前列の者を押し倒すように次の者達がのしかかり、さらにその上に次の……。
「止めろ!もう扉がないのがわからないのか?前の奴らが潰れて死ぬぞ!」
後方から数人を押し退けても、またその倍以上の者が押し寄せる。見れば俺達の周りには、すでに百人以上の難民が集まっていた。
「門番の彼が言っていたのは、こういう事か。くそ、これを些事だと見捨てろと……」
『進言。現状で打てる手はありません。マリエの救出を優先するべきだと当機は告げます』
冷たいようだが、アオイの言う通りだ。今の俺達に彼らの状況を改善する手段はない。
メリッサの国内には、普通に亜人種の者も多く暮らしていた。決してあの国は亜人種差別をしているわけではないのだ。
この現状から察するにこの難民はほんの一部なのだろう。それら全てを際限なく迎え入れてはメリッサ国自体が困窮し滅びる可能性もある。
「……くっ……すまない」
俺は背後のアオイに命じ、彼女に抱えられて空に飛び上がった。眼下にに小さくなる難民達。彼らの列はバラバラと、長く長く壁沿いに伸びていた……。
「他国から軍事国家などと呼ばれるメリッサに、それでも救いを求めてすがりつく。……それだけ、この神聖国が彼らには住み難いということか」
飛行中に眼下を過ぎる村や町。オアシスや水源らしきものを持つ場所にあるのは確かに街と呼べるもの。
だが、それ以外は砂漠の中に点在する、村などではないただの貧困街。
そこには、理不尽なまでの生活格差が上空からでもはっきりと見て取れた。
「これは確かに、アイリやツバキには見せられないな」
そんなことを考えていた時、前方に砂埃を巻き上げながら疾走する騎馬と思しき一団が視界に入る。
「主君、あれを!彼らの前方」
「あれは……人。追われているのか?」
集団の先に、小さな人影がひとつあり彼らから懸命に逃げている。その大きさから、まだ幼い子供のようだ。
「くそ!これが見過ごせるか」
俺は上空から彼らを追い抜くと、その子と騎馬の一団の間に飛び降りた。
「あんたら、ちょっと大人気ないんじゃないか」
子供は砂に足を取られて転倒した。ここぞとばかりに近寄る一団の前に俺はそう言って着地する。
「何だてめえ、俺達の狩りの邪魔すんじゃねぇ」
「狩り……だと。ふざけるな!この子は魔物や動物じゃないぞ」
「確かにそうかもな。だが、人間様でもねえんだよ。見な、あの気持ち悪いツノを!」
転んだ拍子に脱げてしまったフード。そこに見えていたのはまだ幼くそして弱々しい少女の顔と、その頭から一本だけちょこんと生えた歪に曲がった巻貝のような小さなツノ。
ガタガタと震える彼女には、俺すらも恐怖の対象でしかないのだろう。涙を浮かべ、すっかり怯えきった目をしている。
今は言葉をかけても無駄だろう。俺は優しく彼女の頭をポンポンと撫で、再び騎馬の一団に向き直った。
「何だよ、まさか獲物を横取りするって言うんじゃねぇよな」
「獲物……。まあいい、一度しか言わんぞ。命が惜しくば退け!」
「イカれてやがんのか?このバ……」
先頭にいた男の言葉を、馬の前足のすぐ前に突き刺さった数本の光剣が遮った。それに驚いて、嘶き前足を高々と上げる馬を懸命に抑えて踏み止まると、彼は即座に背中を見せる。
「こいつあ魔法使いだ!逃げろ!」
彼らの装備する武具は素人丸出しの貧相なもの。とても正規軍とは考えられない。そんな自分達では魔法使いなど相手にすらならないことがよくわかっているのだろう。一団はすぐに逃げて行った。
まだ五歳くらいだろうか。その場に残されたツノ持ちの子供は、俺を見ながらこれ以上ないくらいに怯えている。
近づいて見ると、身体はあちこち痣だらけで裸足の足の裏は肌が擦り切れ、すでにやや化膿しているようにも見えた。
「これは酷いな……」
脳裏に、先ほど見捨てた形になった多くの難民の顔が浮かぶ。彼女だけを助けるのか……だが、こうして助けてしまった以上、放っておくのも後味が悪い。
俺はミスティに『清浄』を、そしてガブリエラに『高位回復』をそれぞれかけさせた。
ぐうぅぅぅー!
「はわわっ」
身体は正直なものだ。
すっかり綺麗になり、怪我も治って体調が万全になると、彼女の身体が食べ物を求めてお腹を鳴らす。
本人は、自分の身に何が起こっているのか全く理解が追いついていないのだが、その大きな音がよほど恥ずかしかったのか真っ赤になって顔を伏せている。
「これを……。毒なんか入ってない、信じてくれないか」
ぐきゅるるうぅぅー!
俺は魔眼から、餡パンと水の入った水筒を取り出して彼女に差し出した。魔眼に保存されていたので、まるで今焼き上がったかのようないい香りが広がり、彼女より先に腹の虫が盛大な返事をする。
「信じて……」
そう言って、餡パンをひとつ彼女の手のひらの上に乗せる。変わらぬ怯えた目で、俺とパンを交互に見ていたが、だんだんとその比率がパンの方に傾いて……。
パクッ!
「んんんんっ!」
パクパクパクパクパクパクパクパク……。
美味しい物には誰であろうと抗えないものだ。彼女はその勢いのままに、結局五個のパンと水筒の水を全て平らげてしまった。
「ぷはーっ!」
満足そうにお腹をさする彼女の顔にまるでお日様のような笑顔が弾ける。
だが、勢いとはいえ自らがとんでもない事をしたと思い出したのだろう。その笑顔がみるみる恐怖の色に染まり始めた……。
「大丈夫!……大丈夫だから。大丈夫大丈夫」
俺はそう言って彼女を抱きしめ、頭と背中を優しく撫で続けた。十回目の大丈夫を言った頃だろうか、俺の胸元に濡れた温かな感触を与えながら彼女の身体の力が抜けていく。
どうにか信じてもらえたのだろう。安堵から、流れ続ける涙で俺の胸元を濡らしつつ彼女は強く強く俺に抱きつき、そのまま声を出して泣き続けた……。
その時、アオイが新たな接近者を感知する。
『警告。武装した騎兵の接近を感知しました。迎撃しますか?』
「いや、待て……あれは」




