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やわらかい陽光が木々の合間からまだ乾ききらない地面と大型の狼に降り注ぐ。
青灰色の毛は長らく続いた大雨で汚れ、それに気を払うこともなく狼は肉を貪ぼっていた。血とだ液にまみれた肉は、もうなんの動物かわからないほど原形をとどめていない。
それでも獣の本能か、狼は餌を奪われまいと肉に食らいつきながらも周囲を睨む。
その血走った目とあった、気がした。
「………………!」
茂みに身を隠していたティオ・フォルクロアは、もれかけた声を手で押さえこんだ。
毛先が金に変色した茶色の前髪が噴き出た汗で額に張りつく。剣を握る右手がやけに汗ばみ、何度握りなおしても違和感が拭えなかった。そもそも握っている実感すら、とどめることができずに抜けていく。
もはや姿を隠せる深い茂みも簡単に切り裂ける薄っぺらい布切れだった。そもそも赤いジャケットは緑溢れる森ではいやに目立って、敏感な獣相手にバレないほうがおかしい。
しかし、その目は何事もなくティオのくすんだ青い目を過ぎていく。
(バレて、ない……?)
ほっとし、慌てて出かけた息を飲みこんだ。
しかし、まだ不安は消えず、草葉の隙間から思わず狼の姿を凝視してしまう。
通常の狼よりふた回り以上は大きい。距離は小池を挟んでおよそ十メートル。けっして安心できる距離ではなく、その距離すら本来より近く誤認してしまうほどの巨体だった。
明らかに普通ではない。少なくともこの小さな島で生息が確認されている種ではなかった。突然変異か魔物か……どちらにせよ、気づかれたら危険だ。逃げるにしても、だれかを呼ぶにしても、狼のぴんと立った耳を前に身動きひとつとれない。
(群れじゃないのが救いかな)
そうでなくとも匂いで気づかれていないのがこの状況では救いだった。やはり餌に目が行っているのだろう。穏やかな空気に包まれ、警戒心も少しずつ薄れているように見えた。
逃げるにしても、狩るにしても、チャンスは一度。相手の警戒心が解かれた一瞬だけ。
剣のグリップを握りなおす。餌もほとんどなくなり、よほどお腹が減っていたのか食い散らかした肉の破片まできれいに拾う。そして、口の周りを舌でなめとり ――
背後で銃声が響いた。
狼の鋭い目がこちらに向く。うなり声が出る口から押さえきれないよだれがたれたのを見て、背筋に寒気が走った。銃声に心あたりがあったが、気にしている余裕もない。
今まさに飛びかかってきそう威圧感を放つ狼から目が離せなかった。気づいているのか、いないのか。単純に銃声に警戒しているだけかもしれない。それならそれでいい。このまま森の奥へ、だれも入らない奥地へ行ってくれれば……そう願わずにいられなかった。
額からほおへ大粒の汗が落ちる。嫌な空気が長く尾を引く。
熱い体から、息が零れた。
「ティオ、ティオ! そっちはどう? あたしは、」
高い少女の明るい声に茂みをかき分ける音が続く。
内心びくつき、状況を忘れて飛び跳ねそうになるが、狼の目に体が固まった。
赤い瞳が自分からわずかにずれる。狼は体を低くかがめ、舌なめずり。よだれがあたりに飛び散り、にやりと何かに向かって笑った気がした。
声がもれ出るのを押さえきれない。
地面をえぐる狼の足が一歩、前へ、そして、
「逃げてっ!?」
それは駆けた。
勢いのまま叫び、ティオはふり返る。
桃色の髪をした見慣れた少女が、ぽかんと木々の間で立ち止まった。手にはまだ生きた気配を保った灰羽の鳥。もう片方は手ぶら。彼女が持ち歩く得物は、ふたつとも腰に巻いた上着の下にあるホルダーの中だった。
視界が唐突に暗くなる。自分の上を何かが通っていく。見上げれば灰色の毛が触れられるほど近くにあって、それが通り過ぎようとしていた。
反射的に狙いを定めないまま剣をふり上げた。
†
運がよかったとしか言えなかった。
剣の切っ先がわずかにぶ厚い毛皮を裂いて肉まで届いたのも、近くにいたほかの猟師が事態に気づいたことも、なにより予想以上に狼の疲労がたまっていたことも。
ひとつでも欠けていたら、だれひとり無傷で大物を捕らえることはできなかっただろう。
「ちぇ……あたしの負けかあぁ……」
けれど、目の前を歩く少女、プリム・サライズンは過ぎた出来事なんてもう気にしていなかった。最後の獲物である灰羽の鳥が手の先で元気なく垂れている。
「えーっと、身に覚えがないんだけど、負けってなんの話?」
「そんなのどっちが多く狩れたかに決まってるじゃない。なんで最後の最後であんな大物にあたれるのよ!? 運使うんだったらもっと別のところで使いなさいよ?」
「どうせみんなで食べるんだし、どっちが多いかって関係ないような……」
「関係なくないッ!」
それに、狼にとどめをさしたのは別の猟師だ。
しかし、それこそどうでもいいのか、ふり返った彼女は唇と灰色の目を尖らせて自分の獲物を突きだした。結ったサイドテールが勢いにあわせて小さく揺れる。
くすくすと周囲から隠す気のない笑い声が聞こえ、ティオは横目であたりを見渡す。
近くで皮を剥いでいた二人組の若い猟師が顔をわざとらしく背けつつも笑い、森でとれた果物やハーブを仕分けていたおばさんたちは気にせず井戸端会議の話題にしていた。
「仲いいねえ」と、だれかが言う。いつもどおりの平凡な村の光景だった。
「ところで、プリム。今さらだけど、その、頭」
「あたま?」
視線をさ迷わせながら周囲に気づかれないようにささやく。プリムは言葉に誘われるまま頭に手をやった。指先の異物感に気づいたのか慌ててそれを払い落とす。
「葉っぱが……」
色あせた葉が音もなく地に着いた。痛んでいるのか不気味な黒い斑点がやけに目につくそれを、彼女は思いきり踏みつける。靴底に消えた葉が小さな悲鳴をあげた。
「もっと早く言いなさいよっ!?」
顔全体が赤く染まり、頭にのびた手がすぐさま拳を形作る。今すぐにもふり下ろされそうな勢いに足を引くが、周囲ではお構いなしに笑い声がふくれあがった。特に男性集団は年齢関係なく遠慮なしに吹き出す。
「嬢ちゃんや、それも新しいオシャレかのお」
「んなわけあるかッ!」
猟銃を背負った老人の言葉にプリムの怒りは早くも爆発した。
そのやりとりに、二人組の青年が大爆笑して直接彼女をからかいだす。威嚇され、彼女の指が銃にふれるのを見ても「悪い、悪い」と言うだけで、青年は頭をかきながら腹の底からまだ笑う。彼女の額に青筋が浮かんだ。
視線を一心に浴びるのはいい気分ではないと言いたげに、プリムはほおをふくらませ、
「あああぁぁあぁああーーーもうッ!」
一気に不満を吐き出した。
しんと、一瞬だけ空気が静まりかえる。だが、それは逆効果だと言わんばかりに薄笑いがもれた。反響するようにかすかな声にだれかが笑い声を返し、次第に満ちていく。
「あたしのことはいーから、さっさと自分の作業に戻りなさいよ。あと、報告! 祭り明日なのに、このままじゃあぜーったい、間にあわないってば!?」
それもそうだと、彼女の叫びに笑い声もやっと静まった。それでも笑う青年に「働けッ!」と、彼女は自分の獲物を思いっきり頭に向かって放り投げ、大人たちの輪に向かう。
猟師たちは狩ってきた動物たちの皮をはいでさばき、その妻と娘たちは森でとれた木の実や果物を仕分ける。忙しくも和気あいあいとした、いい意味で落ち着きのない空気。
その中で、目の前の少女だけが楽しそうではなかった。
「大変そう、だね。でも、そんなに気張らなくてもいいような」
「あのね、そんな余裕ないに決まってんじゃない。よりによって、なんで祭りの直前に雨が続くのよッ!! 材料も準備も何もかもたりないの。つか、この機会逃したら次いつごちそうや酒にありつけるかわかんないのよ! あんただってわかってんでしょ!?」
むくれ顔がまだ引っこまないプリムを追いかけるが、ふり返ると同時に大口を開けられ、思わず「ごめん……」と謝罪が口から零れる。それにため息を返され、さらに悪いような気分になった。
大変なのはわかっているつもりだ。
彼女は自分と違って一村人ではない。村長の大切なひとり娘。たったひとりの子ども。同年代から年寄りにまで自然と頼られる、面倒見のいい若いリーダーだった。
周りから頼られる、仕事を任せられる、その期待に彼女なりに応えようとして気が立っているのを知りながら、気の利いた言葉ひとつ出せない自分がもどかしい。
「ごめん」と、気づいたら再び謝っていた。
「いや、ティオを責めてるわけじゃあ……ああもう、あたしも悪かったから」
「うん、ごめ ―― 」
「だからッ、これ以上謝ったら殴るわよ。あんたは気使いすぎ。ほかのヤツら見てみなさいよ。むしろデリカシーなんて言葉、頭にないヤツばっかじゃない!」
顔に突きつけられる人差し指がゆっくり拳になる。その向こうにプリムの刺さるような目が見え、出かけた言葉を飲みこんで大げさに首を縦にふった。
いつものやりとり。それでやっと彼女は調子が戻り、笑顔を見せた。
「あのさ、それはそれでどうかと思うけど」
「そう! だからさ、アンタだけはあんなんにならないでよね。唯一の良心なんだから」
「だからね、それ言いすぎだよ。みんなに失礼だって」
調子に乗って言葉を重ねるプリム。呆れ気味に一応注意してみるが、軽く受け流された。
そもそも言葉自体、勢いがあるだけの嫌みじみた冗談だ。今さらどうこうすることでも、変えることでもないのは本人もわかっていることだろう。たんなる日常の光景だった。
「プリムの嬢ちゃん。と、ついでにティオも」
「んーダリさん、なになに?」
大人の輪の中心にいた中年男性に手招きされる。急ぎ足で行くプリムに慌ててついていく。猟師たちのまとめ役である彼は、近づくと何も言わずにさらに輪の中へ招き入れた。
何かと思えば、皮をはいだあの魔物だろう肉がござの上に広がっている。血肉の色は普通の狼と変わらないように思えた。
「おお、けっこうな量じゃない。で、これいいの?」
「目に見えて特に変わったとこもねえ。今までなかったし、この手のは大丈夫だろうが……食べるもんだしな。念のためにだ。あとで薬師のガキ呼んどいてくれ」
「はいはい、了解したわ。ほかは?」
つつきたそうに肉をさしていた指を戻し、彼女はうなずく。
魔物は多くの生物と違い、魂を形作る精神元素〝エーテル〟が肉体にも含まれている。
多少なら問題ないが、場合によっては体が受けつけられずに毒になるときもあると聞く。もっとも処理さえされていれば普通の肉と同じように、ものによっては高級食材として扱われているらしい。島を出た若者がそんな話をしていたことをティオはふと思い出す。
ほかの肉、果物の量がダリの口から伝えられる。明日の祭り一日とその次の日の朝ぶんは確保できるだろうとの言葉に、彼女はほっと息を吐き出した。
「あとはそうだな。お前ら休め」
「は?」
プリムが間の抜けた声を出す。ティオは瞬時に意味を理解することもできない。
周りでそれぞれの仕事を行なう見知った姿が目に飛びこんできた。老人も女性も関係ない。同年代の友人たちも大人とともにまだ作業に勤しんでいる。村に行けば自分たちより幼い子どももできる範囲で手伝っているだろう。
「……怪我とかはしてないですよ」
「それは見ればわかる。話は聞いた。こんなデッカイの相手に立派だったそうだな!」
ダリが浮かべる人のよい笑みから目をそらす。
「別に、立派なんかじゃあ……なら、何か迷惑かけました、か?」
やっと紡げた二の句に余計な言葉がくっついていたが、気にしている余裕もなかった。
昼休憩には早い。休めと言われた理由が思いつかない。小さな不安が渦巻きはじめる。
だが、目の前の大柄の猟師は口を大きく開けて笑った。笑い声に周囲の視線が集まる。
「あのな、お前はなんもミスしてねえのに毎回気にしすぎだッ! 第一、ここにいるヤツらがんなこと気にすると思うか? まず、アイツのほうが何回もヘマしてんだろ」
「オヤジ……んなこと言うならオレだって跡継がねえで島出てくぞッ!」
彼が無遠慮に指さした先から買い言葉が返ってくる。突如起こる親子ゲンカにもまたもや笑いが巻き起こった。それもよくあるいつもどおりの光景で、視線が自分から外れたことにティオはひそかに安心した。
「まあいい……話を戻すぞ。プリムの譲ちゃんは働きすぎだ。昨日も遅くまで親父さんの手伝いしてたんだろ。んで、今日は朝から狩りだ」
「別にいいじゃない。これくらい平気だし」
「そう言うならもっと肩の力抜け。ついでに楽しめ。明日一日ぶっ倒れるハメになってもしらねえぞ。休みたくないなら村のほうの仕事やってこればいいだろ」
無遠慮に頭に手を置かれ、プリムは反論しようとしていた口を閉じる。
「ティオはティオで、いつものように今日も早く来て準備してただろ。なら、早く休んだってだれも文句言わねえし、俺が許す。それにな、」
「はい……」
「ディアんとこに顔出してこい。予定じゃあ昼から儀式の練習がある。一番大変なのは、おそらくお前の妹なんだ」
ディア ―― 急に出された妹の名前に、何も言えなかった。
その心遣いは心から嬉しくて、同時に申し訳なさでいっぱいになる。プリムが自然に受けるものとはまた違う、特別扱い。尊重、優しさ、心配。そこに悪い感情はひとつもない。
それは、親のいない子どもを村全体で支えようとする〝ぬくもり〟だった。
「ありがとうございます……用が終わったら、すぐに戻ってきます」
「あっ、ちょっと待って。つーか、待ちなさいッ!」
下がる頭。顔を見せないまま、ティオは足早に森へ向かう。そのあとをすぐにプリムが追いかけてくる。目をやれば同じバスケットをふたつ持ち、片方を高く掲げていた。
「ほら。母さんがあんたらのぶんも弁当用意したのよ。わかってると思うけど、いらないって選択肢はなしね。問答無用であたしが怒られるから」
足をゆるめると彼女はバスケットをひとつ半ば強引に渡してくる。ティオは笑みを作ろうとして作れず、そのまま「ありがと」と一言口にして背を向けた。
しかし、歩きだす前にあっさり肩に手を置かれる。
「あんた、変よ。なんかあったでしょ」
「そんなことないよ」
疑問ですらないプリムの言葉が胸に刺さった。とっさにティオは首を横にふる。それは反射のようで、自分でもどうしてそうしたかわからない意思表示だった。
変、だけなら何も言えなかっただろう。何かあった、と訊かれたから違うと言えた。
「いーや、絶対なんか変よ」
「それなら、プリムの真面目っぷりもおかしいよ。勉強も、それくらい真面目ならおじさんももっと安心するのに」
「話をそらそうとしない。まず、その態度がおかしいのよ。ぜんぜんあんたらしくない!」
自分でも自覚はしている。普段とは何かが確実におかしい。
落ち着かなかった。だれかといると、かすかなのにどうしようもない不安と違和感に襲われる。どういう類の違和感かもわからない。確かなのは……何も悪くないのに、ここに居心地の悪さを覚えてしまうこと。
あたりまえの善意ですら謝って、拒絶して、今にも逃げだしたくなる。その衝動にぎりぎりの位置で、妥協しながらなんとか耐えていた。耐えられている、そう思いたい。
理由はなかった。本当に、何もなかった。
ひとつだけ思いつく、理由にもならないものがあるだけで。
「きっと……雨が続いた、からだよ」
それを口にすれば、察した彼女の口からそれ以上言葉が出てくることはなかった。
力なく離れる手。前に一歩進んでティオは自分から離れる。
「早くルファルクの所行ったほうがいいよ。さっき頼まれたし。それに、どうせルファルクのぶんもいつもどおりあるんだよね?」
「ご名答。あれはあんたらと違って、ご飯食べてるかどうかから不安になるしね。いざとなったら無理やりつめこんでやるけど」
唐突の話題の変化に、プリムはいつもと変わらない軽口を返してくれた。
友人のひとりである薬師に対しての言葉に、ティオはなんとか笑みを浮かべてふり返る。
「ありがとう。僕は、大丈夫だから」
嘘でもなく、本当でもなく、そうありたいと願う気持ちを言葉にした。




