Prolog なにもない、はじまり
空が泣いていた。
悲鳴を体現させた雨音と、壁の向こうに蠢くうめき声が朦朧としていた意識に染みてくる。それに漠然とした不安がひっそりと近づいてくるのをベッドの上で感じながら、少年は光のない目で黒い天井を眺めていた。
ベッドわきのランプでは部屋の半分すら照らせず、天井には一筋も届かない。
世界に、光が満ちることはなかった。
それでも光は少年の小さく幼い体を照らす。毛先が鈍く金に輝く茶色の髪と濁った青い瞳。血の気のない白い腕に刺さる点滴の針が冷たく光っていた。
「何か……何かきみのほうから聞きたいことってある?」
女性の声に視線がゆっくりと落ち、青緑の瞳と目があう。
首を横に力なくふった。次の瞬間には視線は目から離れ、定まることなく辺りを漂う。
死の気配と重たい空気が容赦なく力の入らない体にのしかかる。
怖い、とは思わなかった。
どうしようもなく落ち着かない一方で、動こうという至極あたりまえな思考にはたどり着かない。いっそのこと眠れればいいのにと思うのに、ぎりぎりのところで無理やり起こされているような、眠ることを許されていない ―― そんなだるさが体中を回っている。
「困ったなあぁ……」と、彼女の言葉が重たい空気に上乗せされた。
「原因は頭の怪我か、精神的なものか……どっちにしろパッと治せるものじゃないし、こんな状況だと専門家に見せるのもムリそうだし……知能障害までいってないといいけど」
好き勝手につぶやいているだけの、会話にならない一方的なやりとり。そんなどうでもいいことはわかるのに、憐れみに満ちた言葉が何を意味しているかはわからなくて。
すべてがあっさり流れて、分類されることなく底にたまっていく。不安も、だるさも、言葉も、音も ―― 何もかもが、ただそれだけのものだった。
だから、何もせずにゆっくりと流れる微睡む時間に身を任せる。
「命が助かったぶんマシなんだろうけど……どっちにしろ、〝あの娘〟はしばらく遠ざけておいたほうがいいかな、これは」
(あの娘……?)
だが、ぼやけた意識にその一言だけが消えることなく引っかかった。あの娘、あの娘、あの娘……頭の中で同じ言葉をつぶやきつづける。
けれども、それだけだった。到着点そのものをなくしたように思考はその先にたどり着けない。それでも少年は何も思いつかないまま、感じないまま繰り返す。
「あのこ……って…………?」
無意識のうちにかすれた疑問がもれでた。
自分の頭にすら届かない声。
しかし、それに応えるように暗い部屋に一筋の弱い光が入りこんだ。
「すみません、ティオは……」
「げえ」と、女性がもらした品のない言葉が耳をかする。
隙間から覗く少女の澄んだ青い瞳と目があった、気がした。彼女の言葉は続かない。潤んでいた目が見開き、たまっていた雫がほおに流れ落ちる。
「ティオッ!?」
泣きかけの顔が輝いた。
女性の対応を待たないで少女は部屋に飛びこむ。勢い任せに開けた扉をそのままにまっすぐベッドに駆け寄った。一歩ずつ笑みが深まり、雫は涙に変わって溢れつづける。
通り過ぎる彼女を女性は止めなかった。
行き場をなくして空をさ迷う手をさらにのばすことを躊躇し、深いため息を吐き出して手を下ろす。視線をそらせずにいる顔はけっして明るいものではなく、歪んで。
「無事、なの……よかった……! ほんとに、ほんとによかった……ティオ」
気づけば少女の顔はすぐそこまで迫っていた。
輝く金色混じりの茶髪に青い瞳 ―― 自分によく似た顔。彼女は何度も名前を大切そうに繰り返して、優しい言葉を並べて、温かくて、いいなと心の底がほんの少し揺れ動く。
しかし、同時に奇妙な違和感を覚えてしまった。矛盾を、おかしいと意識してしまった。
それは流してはいけない何か。なのに気づいた瞬間、はっきり見えたものすらあやふやになって、つかめなくなって、頭の中の少女の姿がにじんでいく。
「あ、あ……れ?」
「ティオ、どうかしたの?」
首を傾げ戸惑う少女の肩に女性が静かに手を置いた。
「ディアちゃん……ティオくんは目覚ましたばっかなんだ。だから、今はゆっくり休ませてあげて、ね? お話はまたあとでもできるじゃない」
「で、でも……わたし、言わないといけないことが」
必死に訴える少女に彼女はさらに顔を歪め、苦しそうに言葉を吐き出す。
「ごめんね。今は、本当にダメなのよ」
そのまま問答無用で少女は腕を引っ張られ、小さな悲鳴をもらした。ちらちらと名残惜しげに自分を見ながらも、今度はおとなしく従って女性についていく。
小さな背中が遠ざかる。
その背に「ディア……?」と手をのばすようにつぶやいた。彼女の足が止まる。ふり向いたその顔は笑顔で、入ってきたときよりも何倍も嬉しそうで。
「ティオ、またあとでね」
それに何か言うべきことが、彼女に訊きたいことがあると思えた。
口を開く。声がもれる。けれど、言葉にならない。
それはすぐに消えてしまう泡のような疑問だった。あやふやな思いは形にならない。形にする方法を知らない。これの名前もわからない。
代わりに「ディア」と、その言葉を再び口にする。
それだけで少し気持ちが温かくなって、それにさらに違和感が増す。
「……ティオ、どうしたの?」
立ち尽くしていた少女が女性の手をふり払って駆けよってくる。
点滴の存在なんて忘れて手をのばした。その手を迷わず彼女は握ってくれて、「だいじょうぶ?」と繰り返す。
暖かかった。それだけでいいと思えるぬくもりだった。
だから、だからこそ、わからなかった。
どうして少女がこんなにも優しくしてくれるのか、自分は知らない。この幸せな気持ちの出どころも検討がつかなかった。とめどなく浮かんでくる疑問に世界が少しずつ鮮明になっていく。一カ所にたまって固まっていた要素が明確に分かれ、ひとつひとつ形になる。
ようやく根源の疑問の正体に気づいた。
「きみ、」
「ティオ?」
彼女が言葉にしつづける名前の意味に気づけないまま、自分の意志で言葉を紡ぐ。
「……だれ?」
何気ない疑問。
少女の顔が凍りついた。
†
僕は何も知らなかった。
内乱に巻きまれたことも。
自分が死にかけたことも。
両親が殺されたことも。
少女が妹であることも。
ひとつ残らず、何もかも忘れてしまっていた。
―― そして、時間は戻らずに……気づけばなくしたぶんと同じだけ、月日は流れていた。




