2
2
ウィリディス島は島民二百人にも満たない、自然豊かな田舎島だ。
子どもの足で半日もかからずに一周できるほど小さな島。ある者はわずかな平地で畑を耕し、またある者は広大な森で狩りを、海で漁をし、そして得た恵みを住民全員で分かちあいながら平穏に暮らしている。
だからこそ、だれもが仲間で、他人などここにはひとりもいなくて。
(でも……)
カッ ―― 変化した足音にティオは思わず足を止めた。
足下の感触が硬い。重たいまぶたの隙間から見えたのは地面に半ば沈んだ黄みのある石だった。まっ平らとは言い難い、少しでこぼこした石。道を進むとあっという間にむきだしの土はなくなり、変わりに大きさも形もばらばらな石が敷きつめられた石畳となる。
「あ……」
石畳を汚す土もなくなり、ようやくティオは現状に気づいて顔を上げた。
目の前に見慣れたものが飛びこんでくる。耳の奥がざわめきはじめる。
木々に隠れた、けれど緑に侵食されることなく、石造りの小さな遺跡が佇んでいた。
道におおいかぶさっていた枝葉はもうなく、道にそうように同じ素材の柱が点々と並んでいる。石畳には降りつづいた雨の名残である水たまりが多く残っていたが、陰湿さはなく、むしろ日を浴びて遺跡全体が輝いて見えた。まるで世界中の光が集まったような明るさに、せわしく行き交う見知った声、姿、すべてが暖かく感じる。
入り口には扉どころか門もなく、さえぎるものは何ひとつない。けれど、その人々の姿がティオにとっては大きな障害で、外壁に背を預けていた少女を前に足は完全に止まった。
「あ……」
同じ言葉が少しだけ違う声音で返ってくる。
わずかにうつむき加減だった目をまばたきさせて、彼女は壁から背を離す。その足が一歩、自然に前へ出てきた。
視線が交わる。深く透明感のある青い瞳に見つめられる。
同じ顔。毛先が金色に輝く茶髪も長さ以外は変わらない。自分の髪が頭の下で簡単に結いまとめられているのとは違い、腰を隠す彼女の髪は穏やかな風にふわりと揺れた。
少女はさらに足を進めて「ティオ」と、笑みを浮かべる。
ディア・フォルクロア ―― たったひとりの家族。大切な、双子の妹。
ティオは笑みを作るが、やはりその顔を直視できなかった。
「休憩中? ご飯は?」
「練習の準備含めて設営に時間がかかって……昨日は雨もだけど、風もひどかったから葉とか枝とかたくさんあって。私は練習もあるから休んでていいって言われたんだけど……みんながんばってるのに先に食べるのは、やっぱりね。そっちは?」
「早く来たから早めに休んでもいいって言われてね」
彼女の視線から逃れようと持っていたバスケットを目の高さまで上げる。ディアは軽く首をかしげ、それに見覚えがあることに気づいて「お弁当?」と口にする。
ティオはうなずき、ため息まじりに言葉を吐き出す。
「ついでに言えばディアの様子見てこいって言われたし、弁当もいつもどおりふたりぶん。みんな絶対計算してたよね」
「たぶん。私も、中じゃなくて外にいるように言われたから」
苦笑いを浮かべるディア。ティオはあわせ鏡のように苦笑を返す。
毎年お馴染みの村人総出のおせっかいだった。祭りの祭事を勤めるディアを少しでも休ませるための、いつもどおり。この島はだれも彼もが優しすぎる。
その優しさが今はつらい。特にこんな状態でディアと顔をあわせるのは。一番心配をかけたくない彼女にだけは、この不安を隠しとおしたかった。
頭の奥深くから雨音が聞こえる。遠いような、近いような、小さいのにいつまでも絶えない音はまるで自分を責めるようだ。その雨音の向こう側、真っ暗闇の中に目の前の少女と同じ顔が映りこむ。
気づかれまいと、引きつった表情の内側にすべての感情を押し隠す。だが、雨音は身体中に反響して消えなかった。雨と少女の虚像が重なり、まるで彼女が心の奥底で隠れて泣いているようで ―― その顔に自分勝手な痛みを覚える。
それでも自分の名前を呼ぶ声に、ティオはまだ微笑みを作ることができた。
「せっかくなんだから、お弁当いただかないと。広場のほう行く?」
「そうだね。あそこなら座れるし……ここは人目もあるし」
奥から感じる視線に目をやれば、遺跡で作業を進める人々の目が勝手に明後日の方向へ向く。おせっかいにもほどがある。
彼女はふり返らずに再び苦笑いを浮かべ、小さな笑い声をひとつ出した。
†
「そっちの用意は大丈夫?」
「うん。一頭、大きなの狩れたしね。たぶんたりるんじゃないかな?」
遺跡から道を少し戻った場所にある広場は普段と違い、静かだった。
広場と言っても道ぞいに木々がない開けた空間に、椅子やテーブル代わりになる切り株や石があるだけだ。それでも、日中なら遊んでいる子どもや休憩中の猟師をよく目にするが、やはり準備で忙しいのかほかに人の姿はなかった。
「よかった。けっこうみんな心配してたから。保存食も少なくなってきてたし……あと、だれも怪我しなかった? ほら、雨の中で無理に狩りして怪我した人もいたから」
「大丈夫だって。いつもどおり、知らないうちになぜか競争になってたし」
「それはよけい心配になるような……変な意地はって無茶しないといいんだけど」
言葉のわりにディアはほっと楽しげにほほ笑んだ。
ティオは彼女の笑みを見ながらバスケットのサンドイッチに手をのばす。ぶ厚い肉をキャベツとパンで挟んだそれは、現在の食糧事情とは不釣り合いなものだった。食べなければ心配させてしまうだろうと思いながらも、食べてもいいものか少し考えてしまう。けっきょくのばした手を引っこめてしまった。
「みんな、大変そうだよね」
木がなくなっていく道の先、見慣れた遺跡の塀がここからでもよく見える。
そして、張った大声は一言もかすむことなく、ここまで届いていた。
「一生懸命になるほど大切な祭りなんだよね。実感、あんまりないけど」
ディアは何も言わない。半分ほど食べたサンドイッチを口から離した。
その顔に浮かぶだろうものから目を背け、ティオは視線を落とす。
声が響く。
空気が伝わってくる。
「大切に決まってる」
沈黙を破った言葉はディアのものだった。ひとつひとつ想いをこめた声は高く、場の隅々にまで沁みていく。
「だってこれは、世界を救ってくれた女神様に感謝するお祭りだから」
彼女は遠い空を見つめる。青く輝くそこに、何かの姿を見つけたようにまっすぐと。
女神セリアシレン ―― 史実にも語られる、実在した神。
「それくらいは知ってるよ。僕だって同じ話、何回も聞いたんだからさ」
半ば呆れながらティオは軽くうなずく。
千年前、突如世界中で高濃度の毒素を含んだ赤黒い霧のようなものが湧き出した。
邪気。世界すべてを例外なく蝕む、この世でもっとも忌み嫌われる物質、力。それは肉体を毒すだけでは収まらず、瞬く間に精神を歪ませ、次第に動植物の仕組みを根本から作り替えて異形の化け物へと変貌させていった。
土も大気も冒され、作物はまともに育たず、動物も激減。邪気による病と飢え、さらに邪教との戦争や魔物の凶暴化も重なり、蔓延した死と狂気は人の力ではどうしようもできないほど世界を汚し尽くていった。
その末期状態だった時代に現れたのが、女神セリアシレン。
彼女は邪気と相反する力をもって元凶である邪神を打ち倒し、世界中に充満した邪気を浄化した。そして、再び邪な者が出たときのためにと世界に自らの力を分け与え、それ以降神と同質の力を持つ者が各地で生まれるようになったという。
近代史よりも先に聞かせられた、この世界ソルリデーレで起きた災いと女神降臨の歴史。
「女神様かあ」
しかし、何回話を聞いても実感はわいてこず、代わりに妙な空虚感を覚えた。
「あの遺跡って災いのあとにその女神様が祝福を与えてくれた場所、であってるよね? 行き場のなかった人たちがこの島で幸せに暮らせるように」
「うん。そのおかげで今のわたしたちの幸せがあるの。こうして暮らすことが、生まれてくることができたわけ。だから、きちんと感謝しないと」
「生まれって、それはさすが言いすぎじゃないかな」
そんなことない、と彼女は穏やかに首を横にふる。
女神の存在を疑っているわけではない。けれど、ディアのように特別な情を浮かべたりもしなかった。ただ、いるんだと史実の一部として何気なしに受け入れているだけで。
おそらく、何か思うほどの関心がない。
千年も昔の話だった。百年生きることも難しい人間だけなら、とうの昔に信憑性のない伝説になっていただろう。多くの ―― 中には人間の何倍もの寿命を持つ ―― 種族とともに生きてきたからこそ、事実のまま残っている。
―― この地には女神の祝福があるから、こんなにも明るくて暖かいのだよ。だからこそ、私たちはその光を忘れないで生きていかなければいけない。
そう語った長老も、この小さな島で共存している長命種のエルフだった。
「でも、みんな呑んで食べて騒いでるだけだよね。それで済めばいいけどさ、毎年酔っ払ったり、お腹壊したり……収拾つける周りの身にもなってほしいというか……」
今までの祭りの光景を思い出し、ティオは苦笑いを浮かべてため息を吐き出した。
祭りといっても祭事は正午に遺跡で行なわれる儀式くらいだ。それ以外は女神を讃える祝祭の名のもと、大人も子どもも好き勝手騒いでいるだけだった。祭りのための特別な料理とお菓子が一日中村の広場や集会所に並び、子どももこの日だけはブドウ酒などのアルコール類を呑むことが許されている。
一年に一度の特別な日。同時に一年で一番トラブルが起きる日でもあった。
羽目を外しすぎて酔っぱらい同士喧嘩して怪我する若者も、いい気になって飲み比べして二日酔いになる大人も、加減がわからずに呑みすぎて体調を崩す子どもも、毎年ひとりふたりでは済まない。いつも後始末に巻きこまれる身としてはたまったものではなかった。
同じことを思い返していたのかディアも引きつった笑い声を上げた。目を細めて彼女はティオの顔を覗きこむ。
「それでいいと思う」と語る声に今度は目をそらせなかった。
「行き場のなかった人たちの幸せを願って、この島を与えてくれたんだから。厳かに祭られるよりも、楽しんでる姿を見れるほうが嬉しいんじゃないかな……って、わたしが勝手に思ってるだけだけど」
恥ずかしげにほおを赤く染めながらもディアは笑う。そう語る彼女は幸せそうで、だからティオも「そうだといいね」と目をふせて応える。
視界の隅で彼女はサンドイッチを再びくわえた。しかし、ティオは手を動かせなかった。食欲がわかない。体中に形にならないものがつまって息苦しさすら覚えた。
女神様は幸せを願っていると、ディアは言う。
それはほかならぬ彼女の願いであると察するのは簡単だった。毎日遺跡まで行き、何かを熱心に祈っていることは島民ならだれもが知っている。
そして、双子の兄であるティオは、彼女の言葉の節々に滲みでる想いもわかっていた。
―― ただ平穏でありたい。
そう思わせている一因が自分にあることも、嫌というほど理解している。
なのに、その事実が痛くて堪らない。堪えられない自分の弱さにわく苛立ちが責めるように胸をしめつけた。
「なら、女神様はきっと喜んでるよ。みんな、幸せそうだし」
まだ残っているサンドイッチを見ないように蓋をする。
「ティオ?」と、自分の顔と閉じた弁当箱のあいだを不安げにディアの視線がただよう。
その目が張りつめた心に深く刺さり、逃げ場を求める思いに口を開けてしまった。
「それにさ……幸せだよ、僕も。だから、大丈夫」
何が大丈夫なのかよくわからないまま、お守りのような言葉を紡ぐ。
言葉に嘘はない。本音を濁して、濁しきれなくて違う言葉でもれてしまう。
心配しないで、と願う心。
気づかれたくないのに、心配かけたくなくて。そんなこと言ってもけっきょくは心配させてしまうとわかっているのに、安心させたくて。気づかれたくないのに、口にしてしまう。矛盾がさらなる矛盾を呼ぶ。
「………………」
彼女は何も言わずにうつむいた。おそらく何もかも気づかれている。失敗した、と駆け巡る謝罪の念を今度は我慢して呑みこむ。それでも口に残る唾がこのうえなく苦かった。
自分の身の上がけっして幸せと言いきれないことは、ティオ自身わかっている。
両親がいない。記憶の中にも、いなかった。
八年前に旅先の首島で勃発した内乱に巻きこまれ、勇敢だった父親も、優しかった母親も、いっぺんに死んでしまった……らしい。すべてあとからそう聞かされただけの話だった。実感は今もないに等しい。
両親の死に悲しみもなければ、そもそもその存在すらあとづけで知っているだけ。
記憶喪失 ―― 保護されたどこかの施設で耳にした言葉の意味を理解できたころには、内乱はもう終わりかけていた。
彼女はいまだ無言のまま。自分から言いだしたくせに硬く結ばれた口が開くのが怖くてしかたない。そのときになったら、また言ってはいけないことを言ってしまいそうで ――
「いつもどおりなら、そろそろ来るころだよね」
口は怯える心よりも素直だった。自分でも衝撃的なくらい、何事もなかったかのようにあっさりと現状から逃げだした。
突然の話題転換についていけず、ディアはぽかんとした顔を見せる。
「祭り。今年はだれが来るかなって思って」
「えっと……いろいろ話聞いてるからそこそこいると思う。あ、でも……アルデンスさんからまだ連絡きてないってプリムが怒ってたような ―― 」
しかし、彼女はふと言葉を止める。
「めずらしいね。ティオがこういうこと気にするの。お祭り楽しみ?」
彼女の言葉に少し考え、そのとおりかもしれないと小さくうなずいた。
「……そうだね。あたりまえのことだからあんまり意識してなかったけど、楽しみかな」
祭りと言っても身内間の小さなものだ。来る人のほとんどは島外へ引っ越した者やもとから交流がある近隣の島民で、今となっては顔見知りばかり。さまざまな世間話が飛び交って騒がしいが、その賑やかな雰囲気は好きだった。
だれもが何があっても楽しそうで。だから、自分もそれを楽しいと思えるのだろう。
「楽しめるといいね、みんなで。せっかく会えるんだから」
「トラブルはごめんだけどね、ほんと」
思い返すと口内に苦い味が広がる。去年無理やり呑まされた島外のアルコールはできれば二度と味わいたくない。だとしても、やはり楽しみな気持ちは消えなかった。
しかし、そう思っていても連絡が絶たれた人は何人もいる。今年はまだ雨のせいで郵便が遅れているだけかもしれないが、毎年帰ってきた知人から手紙すら来ないと少しだけ心配にもなった。あまりにも遠いと何かあっても噂すら届かない。
「でも、昨日まで天気わるかったからもしかしたらわざと遅く来るかも」
慌ててそうつけたしたディアの目が空へ向く。空はどこまでも青く、雲は白く輝いていた。そこに昨日までの荒れた天気の面影はなく、根拠なしに明日も晴れるだろうと思う。
「やっぱりさ、昼過ぎないと帰ってこないのって準備やりたくないからだよね?」
「だれも口にしないけど、ね。なんだかんだで大変だし」
「まったくわからないわけじゃないけど、今回ばかりは今すぐ来てほしいかな……」
互いにため息を吐きだした。まったくと言っていいほどの同時で、ふたりして苦笑いを浮かべる。それもやはりずれることはなかった。それがなぜかおもしろおかしくて、ティオは吹きだす。しかもツボに入ったのかなかなかおさまらない。
手で口を押さえても止まらない笑い声は次第に彼女の笑みと重なりあって広場中に響いていく。そんな些細なことに幸せを感じる自分がいた。
今が幸せだからそれでいい。最終的にはいつもそこに行きつく。けれど、それで重りがなくなるわけでもなく、不安は変わらずに心の底で渦巻いていた。
それでも、この島での日々が好きなのは変わらない。
それは自分が持つ、数少ないかけがえのない事実だった。
「さて、あんまり遅いとみんなに悪いし、そろそろ僕戻るね」
立ち上がるが、ディアはバスケットから目を離さなかった。
「まだ食べきってないよね?」
「お腹いっぱいになったから大丈夫。悪いけど、これ持っててくれるかな。残ったぶんはあとできちんと食べるからさ」
「……おばさんやプリムにはバレないようにね。わたしまで怒られるから」
彼女は少し目をふせ、しかしすぐにまた笑みを浮かべる。
その顔にティオは内心謝りながら「またあとで」と手をふり、歩きだした。




