麦畑の記憶
「おーい、リーダー! そろそろ休憩にしようぜ!」
シーさんが、手にしていた農具を置いて叫んだ。
「僕はまだいけるよー!」
ユーちゃんは、額の汗を拭いながら笑っている。
「――軟弱者――」
マーくんは、それだけ言って黙々と作業を続けた。
「うっせえ! お前ら体力オバケと一緒にすんな!」
結局、ボクらは作業を切り上げて、大きな木の下へ移動した。
◇
水筒からお茶を注ぐ。土の匂い。風に揺れる麦。遠くから聞こえる鳥の声。この時間が、ボクは好きだった。
「やっぱり、マーくんが帰ってくると違うね!」
ユーちゃんが爽やかな笑顔でそう言うと、マーくんは少しだけ嬉しそうだった。
――もう長いこと、人間と魔族は争っていなかった。学校では、ずっと魔王の恐ろしさについて教えられていたけど、少なくともボクが生きている間は、勇者と魔王が戦った話すら聞いたことがない。
人間領の豊かな暮らしに憧れて、こちらへやって来る魔族もいた。彼らを見て少し戸惑う人はいたけど、ボクの周りでは、怖がる人は少なかった。
そんな頃、マーくんは魔王をやめた。
今では、人間領と魔族領を行ったり来たりしている。向こうから便利な道具を持ってきたり、こっちの農業の知恵を伝えたり。そうやって、人間と魔族の間を少しずつ繋いでいた。
「忙しいねえ、元魔王様は」
「――お前も少しは働け――」
「働いてるよ!」
「――鍬を担いでいるだけだろう――」
「ひでえ!」
いつものやり取り。みんな笑った。
元魔王に、元勇者に、元シーフ。そして元魔法使いのボク。何だか、おかしな集まりだと思う。
「そういや、あれどうなった?」
シーさんが突然、話題を変えた。
「あれ?」
「ほら、九百九十九個の……」
「星の欠片のこと?」
ユーちゃんが答える。
「そう、それ」
「あんまり見つかってないみたいだね。二百個くらいで止まってるって」
「――宝玉とは、分布が違うのかもしれんな――」
星の欠片。すべて集めると願いが叶うと言われている、不思議な石だ。当初は、一個あたり金貨二十枚の価値があった。少し前までは、町へ行けば誰もがその話をしていた。
星の欠片の前には、同じく九百九十九個の宝玉を集める騒ぎがあった。あのときは、宝玉を探す人で町がいっぱいになって、ずいぶん景気が良くなったけど……。
麦畑を眺める。
「まあ、ボクらには関係ない話だよね」
「⋯⋯」
シーさんは、コップを持ったまま黙っていた。
「——さあ、仕事だ——」
マーくんが、残りのお茶を一気に飲んで立ち上がった。
「うげぇ! 魔王様、休憩短くないすか? もうちょいお慈悲を!」
「——やらん。大体お前は⋯⋯——」
そう言って、マーくんの言葉が途切れた。その視線を追うと、少し離れたところに日傘を差した女性が立っていた。
すごく、上品な人だと思った。
「……お久しぶりね」
「――ああ……久しぶりだな――」
声が、いつもと少し違った。ボクは二人の顔を交互に見る。マーくんに、そんな人間の知り合いがいたんだ。若く見えるけど、昔からの仲なのかな。
「お元気で。また会いましょう」
「――ああ。また、な――」
女性は微笑むと、ボクらに会釈をして去っていった。
「おーっ?」
シーさんが、にやりと笑った。
「誰だよ、あの美人? うりうり、マーくん様も隅に置けませんなあ!」
そう言いながら、マーくんの腰辺りを肘でつつく。
「――やかましいぞ、出歯亀――」
「デバガメー」
ボクが便乗する。
「出歯亀って何だい?」
ユーちゃんには通じなかった。ボクたちは笑った。
なんだか、平和だなあ。ボク、この時代に生まれてよかったよ。こんな毎日が、ずっと続けばいいのに。
◇
それから、しばらくして。ボクは収穫した麦を荷車に積み、町へ来ていた。
今年はなかなかの出来だった。去年よりも穂が重く、量も多い。これなら、しばらくは安心して暮らせる。そんなことを考えながら、いつもの商人の店へ麦を運び込む。
「今年もいい出来だねえ」
「へへ、ありがとうございます!」
商人は麦を手に取り、穂を確かめる。しばらくしてから、申し訳なさそうに口を開いた。
「ただなあ……今年は、去年ほど高く買えないんだ」
「え?」
「悪いね。こっちも商売だから」
「何かあったんですか?」
「星の欠片だよ⋯⋯」
商人が、深いため息をついた。
「あれで儲けてた連中が、みんな損を抱えちまった。見つかると思って金を使ったのに、肝心の欠片が全然出てこないからな」
そう言われても、ボクにはいまひとつピンと来ない。
「まあ、麦まで売れなくなったわけじゃないから安心してくれ。でも……」
商人は、店の外へ目を向けた。
「みんな少しずつ節約し始めてる。これからどうなるかは、俺にも分からんよ」
町を歩くと、以前よりも人通りが少なかった。客を待っている商人。仕事を探している男。立ち話をしながら、何度も財布の中を覗く人。
少し前まで、あれほど賑やかだった町が、静かになり始めていた。
「はあーあ。不景気だよなあ」
「ちょっと前の忙しさが懐かしいよ」
「なんかいい仕事ないか? 今月キツいんだけど」
町を出るころには、なんだか気分まで重くなっていた。
帰り道、ふと畑のことを考える。今年も無事に収穫を終えることができた。魔族のみんなが手伝ってくれたおかげだ。
みんな、本当によく働いてくれた。力が強いから、農作業では特に頼りになる。ボクらにとっては、それだけのことだった。
◇
畑仕事をしていると、近くの農家のおじさんたちがしゃべっていた。
「なあ、魔族を雇う必要なんてあるのか? 人間の仕事がなくなってるってのにさ」
「あいつらがいないと畑が回らないだろ」
「なら、人間を畑に呼び戻せよ」
「そんな簡単な話じゃ……」
「はあ⋯⋯最初っから受け入れなきゃよかったのによう」
ボクは、黙ってその人を見た。ついこの間まで、魔族が働いているのを見て「助かるなあ」と笑っていた人だった。
それが今は、違う。誰かが言い始めると、別の誰かが続く。魔族が仕事を奪っている。魔族が人間領へ来すぎた。⋯⋯魔王が魔族を送り込んでいる、と。そんな話が、いつの間にか聞こえるようになった。
◇
「魔王様……」
夕暮れの畑で、一人の魔族がマーくんの前に立っていた。
「俺、ここにいづらくて……」
「――そうか――」
「……もう、帰りたいです……」
マーくんは、少しだけ黙った。
「――ああ。止めはしない――」
「すみません⋯⋯俺から言い出したのに。せっかく連れてきてくださったのに……」
「――気を落とすな。お前たちには、帰る場所がある――」
彼は何かを言おうとして、口を閉じた。それから、何度も頭を下げた。最後には顔を伏せたまま、肩を震わせていた。
翌日には、また一人。その翌日には、二人。ボクらの畑から、魔族の姿が消えていった。それでもマーくんは、誰も引き留めなかったし、ボクも止められなかった。
そして町では、別の話が広がり始めた。
「最近、魔族が少なくなってないか?」
「そういや、そうだな」
「示し合わせたように帰ってるらしいぞ」
「……なあ、向こうで武器を集めてるって話を聞いたんだけどよ」
「おいおい、本当かよ?」
「知らねえよ。噂だ」
「でも……魔族が一斉に帰ってるんだろ?」
ボクは腹が立った。
勝手すぎるよ。ここにいづらくなったから、故郷へ帰っただけじゃないか。なのに、いつの間にか「何かを企んでいる」に変わっている。
誰かが口にして、別の誰かが聞いて、少しだけ形を変えて。そうやって噂は広がっていく。いつの間にか、本当のことみたいになっている。
◇
農場が寝静まった頃だった。
ドン、ドン、ドン。
玄関の扉が、乱暴に叩かれた。ボクは嫌なものを感じて、しばらく扉を見つめた。
ドンッ、ドンッ。
再び叩かれる。今度は、もっと強く。
「……なんですか、こんな夜中に」
扉を開くと、月明かりの下に、武装した兵士たちが立っていた。
「この農場の責任者は誰だ」
「ボク……ですけど……」
「国内に反乱分子を多数招き入れた疑いで、身柄を拘束する」
「……え、待ってください! いきなりどういうことですか!」
何を言ってるの? 反乱分子?
「それと、ここに魔王を住まわせているな。ヤツには過去の責任も問わねばならない。直ちに引き渡せ」
「そんな!」
話が違う。
「魔族の降伏と友好を受け入れたのは国じゃないですか! なんで今さら——」
「――騒ぐな――」
背後から、低い声がした。
「マーくん!」
「――迷惑をかけて済まなかったな⋯⋯我だけ連れて行けば良いだろう――」
「それはお前が決めることではない」
マーくんが連れて行かれる。何か言わなきゃ。何かしなきゃ。⋯⋯そう思っているのに、声が出なかった。ただ、その背中を見送る。
兵士の一人が振り返った。
「勇者殿にも連絡を取れ。聖剣を忘れずにお持ちいただくよう伝えろ」
ボクの脳裏に、あの時の麦畑が浮かぶ。
あそこでみんな笑っていた。お茶を飲んで、くだらない話をして。そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
ボクは、甘かった。




