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見放された女

「勇者様だ……!」


「本当だ……! 勇者様だ……!」

  

「勇者様が……勇者様が勝ったぞおぉぉ!」

 

 城門をくぐった勇者様の姿を見て、街中から歓声が上がった。飛び跳ねて喜ぶ人。抱き合って涙を流す人。泣きながら何度も「ありがとう」と叫ぶ人。


 けれど、凱旋する勇者様は、悲惨な姿だった。左腕は肩から先が失われており、上半身は火傷で爛《ただ》れている。片目は潰れ、残った目もほとんど見えていないようだった。その身体を支えるように、何人もの兵士が付き添っていた。


 その兵士たちもまた、無事ではなかった。鎧は砕け、泥と血に塗《まみ》れている。肩を借りながら歩く者もいれば、足を失い仲間に背負われている者もいた。

 

 そして……。

 

 歓声の中、私はずっと彼を探していた。人の波を見つめる。次から次へと兵士が城門をくぐっていく。


 いない。


 ⋯⋯そんなはずはない。約束したのだから。

  

 もしかしたら、別の部隊に配属されていて、遅れて帰ってくるのかもしれない。それとも怪我をして、どこかの村で治療を受けているのかもしれない。

 

 私は待った。勇者様の凱旋が終わっても。兵士たちがそれぞれの家へ帰っていっても。夜になって、街から歓声が消えても、私は城門を見つめていた。


     ◇

 

 半年が過ぎた。


 私は、彼が帰ってこない理由をいくつも考えた。

 

 もしかしたら、記憶を失って、私のことを探せないのかもしれない。戦争が終わったことを知らないのかもしれない。どこか遠い土地で暮らしているのかもしれない。


 彼は、きっと生きている。生きてさえいれば。生きてさえいれば、また会える。


 ⋯⋯そうだ、旅に出よう。彼を探す旅に。

 

 そう思い始めた、ある日のこと。私のもとへ、数名の兵士が尋ねてきた。


「これを……」

  

 差し出されたのは、小さな包みだった。兵士たちは、それ以上何も言わなかった。震える指で包みを開く。

 

 中に入っていたのは、小さな布の袋。


 ……忘れるはずがなかった。私たち二人の名前を刺繍した、お守り。

 



 ――必ず、帰ってきて。

 



 あの日の自分の声が、耳の奥で聞こえた。

 

 彼の力強い腕。胸に耳を当てたときの、規則正しい心臓の音。抱きしめられたときの温もり。全部、覚えている。

 

 指先から力が抜けて、お守りが床に落ちた。拾わなければと思った。これは、彼と私を繋ぐものだから。


 けれど、手が動かなかった。膝から力が抜ける。その場に座り込んでも、手を伸ばすことができなかった。

 

「……うそ、よね」

 

 私は何度も首を振った。違う。これは違う。お守りが戻ってきただけ。彼も、どこかにいる。どこかで生きている。そう思おうとした。

 

 でも、もう無理だった。半年間、私を支えていたものが、崩れていく。彼は帰ってこない。どれだけ待っても、どれだけ理由を探しても。もう、帰ってこない。

 

「……いや」

 

 涙が頬を伝った。

 

「いや……」

 

 私は床に落ちたお守りを見つめた。


 どうして? どうして帰ってきてくれないの? 生きてさえいれば、また会える。そう思っていたのに。⋯⋯そう信じていたのに。

 

     ◇

 

 風が強かった。髪が乱れ、服が大きくはためいている。

 

 私は、崖の上に立っていた。遠くには、あの丘が見える。二人で駆けて、寝転んだ丘。私たちの、大切な想い出の場所。

 

 もう一度だけ、あの場所へ戻りたい。でも、彼はいない。どこへ行っても、何を見ても、彼がいないことを思い知らされるだけ。

 

 眼下には深い森が広がり、ずっと下のほうで、木々が小さく揺れている。怖くはなかった。もう、怖いものなんて、何も。

 

 最後に、一度だけ空を見上げる。青い空だった。

 

 世界は、何も知らない。あの人がいなくなったことも。私が、どれだけ待っていたかも。何も知らないまま、今日も世界は続いている。

 

 私は、目を閉じた。彼の顔を思い浮かべる。声を思い出す。温もりを思い出す。

 

 もう、耐えられなかった。

 

「……会いたい」

 

 声が、風にさらわれる。

 

 私は一歩、前へ出た。

 

 身体が宙へ投げ出される。

 

 風が、耳元を通り過ぎていく。

 

 これで、ようやく会える。

 

 今、あなたのところへ――。

  

     ◇

 

 最初に感じたのは、冷たさだった。頬に触れているのは、湿った土。私は地面に横たわっていた。


 首を動かすと、木々の隙間から、空が白み始めているのが見えた。鳥の声が、遠くで聞こえる。風が吹くたび頭上の枝葉《えだは》が擦れ合い、かすかな音を立てている。

 

 ここは、どこだろう。私はまだ、ぼんやりしていた。けれど、意識がはっきりしてくるにつれて、胸の奥に沈んでいた記憶が、少しずつ浮かび上がってくる。

 

 あの人の顔。最後に交わした言葉。そして、崖の上から見下ろした、遥か下の景色。


 さっきまで眠っていた絶望が、今度こそ逃げ場を失ったように、じわりと私の中へ広がっていく。

 

 そうだ、私は……。

  

「……死ねなかったんだ」

 

 身体を起こし、服についた土を払う。


 自分の身体を確かめると、あれほどの高さから落ちたというのに、身体には傷一つなかった。どこを探しても、本当にかすり傷一つも。


 奇跡、という言葉が浮かんだ。


 ⋯⋯もし神様がいるとすれば、なんて意地悪なんだろう。

 

     ◇

 

 私は家へ戻り、静かな部屋を見ていた。


 もし生き続けるなら。朝になれば起きて、食事をして、仕事をして、夜になれば眠る。そんな当たり前の日々を、これからも繰り返していくのだろうか。

 

「……いや」

 

 声にした瞬間、また涙がこぼれた。もう嫌だった。朝が来ることも。夜が来ることも。明日が来ることも。


 私は、キッチンからナイフを取り出した。これなら、きっと。未来なんていらない。こんな世界を生きるくらいなら。

 

「……会いたいよ」

 

 涙が止まらなかった。会いたい。彼に、会いたい。


「……待ってて。今、行くから……」

 

 私はナイフを握りしめ、喉に当てた。

 

     ◇

 

 私は、再び目を覚ました。

 

 床にナイフが落ちている。


「……え?」

 

 喉に手を当てる。指先で何度も喉をなぞる。


 何もない。傷の跡も、血も。


「……そんな、はず……」

 

 手首にナイフを当てた。刃を引くと、皮膚が裂けた。

 

「……っ」

 

 痛い。手首から血が溢れ、床にぽたぽたと滴り落ちる。

 

 ――けれど、その血は途中で形を失った。灰のようにさらさらと崩れ、床に落ちる前に消えていく。


 同時に、裂けた傷口が動いた。皮膚がゆっくりと寄り合い、開いていた傷が閉じていく。赤く覗いていた肉も、押し戻されるように元の形へ戻っていく。

 

 ほんの数秒前まで傷口だった場所には、何も残っていなかった。

 

「ああ……」


 ようやく理解した。私は、死から見放されたのだ。神様は、私の最後の願いさえ聞き入れてくれなかった。

 

「ああ……あああぁ……」

 

 私は、あなたを永遠に失った。

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