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愛する人

「行かないで……」

 

 彼を困らせると分かっていながら、それでも口にせずにはいられなかった。こんなことを言う私は、子供じみているのだろうか。

 

 彼の腕の中で、丘に吹く風を感じる。他愛ない話をして、日が暮れるまで帰らなかった、あの頃と変わらない草原。夕焼けが、その景色をゆっくりと橙色《だいだいいろ》に染めていた。


 ――明日、彼は戦場へ行く。聖剣を手にした勇者様を、魔王のもとまで送り届けるために。 


 兵士たちの役目は、魔王軍へ突撃し、敵の注意を引きつけること。国に残された、ほぼすべての戦力が投入される最後の作戦だった。失敗すれば、もう後はない。


 だから、彼は行く。


「……ごめん」


「謝らないで」


 謝られたら、まるで本当に帰ってこられないみたいだから。


「僕は……僕たちの生きる未来を守るために行くんだ。だから、笑って送り出してほしい」

 

「私……未来なんてなくていい」


 彼の服を握りしめる。


「あなたがいてくれれば、それで……」


 彼は何も言わず、私の頭を撫でた。私の髪に触れる手が、ほんの少し震えていた。


 雲の切れ間から差し込んだ光が、遠くに見える街並みを薄く照らしている。それはきっと、とても綺麗で。いつかあなたと同じ景色を見たとき、私は目を輝かせていたんだと思う。

 

「勇者様は……僕たちは、きっと世界を救う」


 彼の声が、唇が震えている。

 

「これから先も、ずっと世界は続いていくんだ。だから……どんなことがあっても……」


 違う、私がほしいのは……。

  

「どんなことがあっても……君が苦しいとき……つらいとき……僕がきっと、助けにいくよ」


 また涙が溢れてくる。


 違う。私は、そんな言葉がほしいんじゃない。二人で逃げよう。どこか遠くへ逃げて、二人で一緒に暮らそう。そう言ってほしかった。


 ……でも、心の奥では分かっていた。あなたがここで逃げ出せる人じゃないことも。私は、懐に手を入れると、指先に触れた小さな布の袋を取り出した。


「これ……」


「……お守り?」


 何度も握ったせいで、少しだけ形が崩れている。


「お願い」


 彼の手にお守りを乗せ、そのまま両手で包み込んだ。


「必ず、帰ってきて……」


 彼はしばらく黙っていた。


 それから、お守りを大切そうに握りしめると、目に涙をためながら私に笑いかけた。


 彼が私の名前を呼ぶ。返事をしようとしたけれど、声が震えてできなかった。代わりに、彼の胸へ顔を埋めた。腕が背中に回り、強く抱きしめられる。

  

 温かい。心臓の音がする。規則正しく、胸の奥で鳴っている。


 この音を、覚えておこうと思った。


 音だけじゃない。彼の匂いも、抱きしめられたときの腕の強さも、笑ったときの目尻の皺も。全部、全部、忘れないように。


 そんなことを考えている自分が嫌だった。


「お願い……帰ってきて……」


 返事の代わりに、彼の腕に力がこもった。


 空が、少しずつ暗くなっていく。赤かった雲が紫に変わり、その向こうから夜の色が滲んでくる。時間だけが、私たちを置き去りにして進んでいく。


 ああ、世界なんて、どうなったっていい。ただ、あなたと一緒にいられるなら。


 やがて、彼の身体が少し離れる。私が顔を上げると、彼と目が合った。涙に濡れた、くしゃくしゃの笑顔。彼が望んだように、私も笑おうと思ったけれど、うまく笑えなかった。


 夕焼けが消えて、夜が来る。明日になれば、彼は行ってしまう。だからせめて、今だけは、この人がいることを確かめていたかった。


「愛してる。永遠に……」

 

 もう一度、胸に耳を当てる。心臓の音がする。彼は、ここにいる。私は目を閉じた。


 どうか、この温もりを失いませんように。


 神様、どうか。


 彼を、奪わないでください。

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