世界の敵
人間の暮らす土地から一つ山を越えると、そこから先は魔族の領土だった。
鬱蒼と木々の茂る深い森を抜け、さらに山脈へと分け入った奥深くに、広大な洞窟がある。
『魔竜窟』。
その最奥に、幾列もの魔族兵が整然と並んでいた。兵士たちは皆、微動だにせず、洞窟の奥に佇む巨大な影へ、じっと頭を垂れている。
「――〈究極魔法〉……?――」
声が響くと、周囲の魔族たちが身体を強張らせた。それは、腹の底を震わせるほど低く、それでいて耳の奥に突き刺さるような甲高さを帯びていた。
「は、はい……!」
報告書を読み上げる魔族の男が、ひそかに唾を飲み込む。額には冷や汗。
「……か、神が世界に遺したと伝えられる、その名の通り究極の、魔法ですっ……! それさえ手に入れば、人間どもなど一瞬で……」
「——ホウ、一瞬デ?——」
影が、ゆっくりと身を起こす。
ひどく痩せたドラゴンだった。四肢も首も、細く長い。全身を覆う鱗は身体の線に沿って連なり、その下にある骨格まで浮かび上がって見える。十メートルにも及ぶ巨体とは思えないほど細身だったが、その異様な姿には、近寄りがたい威圧感があった。
翼が持ち上がると、薄い翼膜に骨の形がくっきりと浮かぶ。何人かの魔族が、反射的に一歩後ずさった。
「――……一瞬デ、人間ドモヲ?——」
「その通りです⋯…!」
ドラゴンの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「――クカ……——」
大きく裂けた口から牙が覗く。
「――クカカカカカ……——」
笑った。男もまた、彼の機嫌を窺うように、引きつった笑みを浮かべた。
——ドンッ。
ドラゴンが爪を地面に突き立てると、男の身体が弾けた。肉片が散らばり、地面に赤い染みが残った。
「――ナァーンニモ、分カッテネエナァ——」
爪を引き抜き、今度はその尖端で岩を撫でる。
「——教エテヤロウ——」
ギィィィィ……と、鈍い音が響く。
「――人間ハナァ……例エバ、手足ヲ落トスダロ——」
ギィィ……。
「――ヤツラハ大抵、命乞イダ。腑ヲ引キズリ出シテ——」
ギィィィ……。
「――長ク鳴クヨウニ、ジックリ炙ル……ソウデナクッチャ——」
息を吸い込む。
「――面白ク、ネェダロウガァァッ!!——」
咆哮。
凄まじい音圧が洞窟を揺るがす。半数の魔族は耐えきれず意識を失う。大きな岩が落ち、その場に崩れ落ちた者を潰す。洞窟内に巻き起こった暴風はしばらくやまなかった。
「――ソウダロウ? ナァ! オマエラ!——」
「はい……! 魔王様!」
耐えた者たちが、大きさもタイミングもばらばらの声で答えると、魔王と呼ばれたドラゴンは愉悦に目を細めた。
『魔王』。
突如としてこの世界に君臨した、最強の生物。その爪は鉄さえ泥のように引き裂き、その鱗は剣も槍も通さない。
彼が現れたとき、魔族は歓喜した。長い間、虐げられていた自分たちの前に、ついに救世主が現れたのだ。これで人間に復讐できる。これからは魔族の時代が来る。誰もが、そう信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。王とは名ばかりで、それは己の欲望を満たすために殺戮を繰り返す、ただの化け物だった。人間だけではない。魔族であろうと、その爪の前に命の価値などなかった。
「——クカカ、滾ッテキタワ……一番近イ集落ハドコダ——」
「ま、魔王様! 今のペースで殺していては、人間はすぐに絶滅してしまうかと……」
一人の魔族が、そこまで言ってから、ハッとしたように下を向き、目を強く瞑った。
「——フム? ……ソレハ由々シキ事態ダ——」
魔王は、これまで考えたこともなかったという様子で黙り込むと、長い首をゆっくりと巡らせる。
そして、ふいに目を見開いた。
「——ソウダ、牧場ヲ作レ!——」
「牧場……ですか……?」
「——人間ヲ増ヤスノダ。俺ガ好キナ時ニ、潰セルヨウニナ——」
「は、はい! 魔王様!」
魔族たちは、反射的に答えた。
⋯⋯その次はどうなる? 彼らの頭に、ふとそんな考えがよぎる。もし、万が一人間がいなくなったとき、誰が家畜になるのか? だが、誰も口にはできなかった。
魔王。世界の敵。その精神はどこまでも邪悪で、どこまでも醜悪だった。
「――クカカ、クカカカカカカカカ⋯⋯——」




