夜明け前
長い戦いだった。
互いに傷つき、血を流し、それでも僕らは一歩も退かなかった。すでに鎧は砕け、聖剣を握る手も震えている。身体には、もうほとんど力が残っていない。
⋯⋯だから、これで最後だ。僕は地面を蹴り、魔王へ向かって一直線に駆け出した。
「うおおぉォォッ!!」
魔王もまた、杖を掲げた。その先端に魔力が集まっていく。互いの視線が交わった。
残された力を、すべて聖剣に込める。刺し違えたっていい。
この一撃で、終わらせる!
――届け!
僕の聖剣は、まっすぐに進み、そして――
魔王の胸を、深々と貫いた。
「――⋯⋯お⋯⋯おお⋯⋯――」
ついに、魔法は放たれなかった。
魔力が尽きたのだ。
魔王の身体がぐらりと揺れ、杖が手から滑り落ちた。
ゆっくりと視線を落とし、胸元の聖剣を見つめる。震える手で、刀身を力なく叩く。
「――この剣が……この剣が、魔族を殺すのだ……――」
消え入りそうな、弱々しい声。
「――私が死ねば……魔族はどうなる……残された同胞は……未来は……――」
今度は、その目が僕へ向けられた。だけど、もう僕を見てはいなかった。
「――始祖様……愛する同胞たち……不甲斐ない私を、どうか……――」
――魔王は事切れた。
聖剣に貫かれた身体は、黒い淀みへと変わり始めた。やがて影が溶けていくように広がり、音もなく消えていった。
⋯⋯終わった。
僕は、立ち尽くしていた。魔王を倒したのに、喜ぶ気持ちは少しも湧いてこない。
手の中の聖剣が、やけに重かった。
「⋯⋯あ」
ハッとして、顔を上げる。
拘束が解けたのか、女神様が宙から落ちてくる。
「危ないっ!」
咄嗟に駆け寄り、その身体を受け止めた。
良かった、間に合った⋯⋯。僕は、腕の中の女神様を、そっと地面へ下ろした。
「やっと来てくれましたね、勇者」
女神様は、穏やかに微笑んだ。
初めて言葉を交わしたはずなのに、その笑顔に、ひどく懐かしいものを感じた。それが何なのか考える間もなく、僕は口を開いていた。
「すみません……助けに来るのが、遅くなってしまいました」
女神様が、僕の顔をじっと見つめる。しばらくして、その唇がほんの少し震えたかと思うと⋯⋯。
目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……本当に、もう。遅すぎるのよ、あなたは……」
「え……?」
どうしよう。泣かせてしまった。
僕が戸惑っていると、今度は僕の胸に飛び込んできた。
「わっ……!」
あまりに突然のことで、僕は慌てて抱き止めた。
「……あれが燃えてしまったとき、本当に悲しかったわ……。でも、不思議ね。何だか、あなたが約束を守りにきてくれる気がしたの」
女神様が何を言っているのか、僕にはまったく分からなかった。だけど、僕の胸に耳をつけて、じっと心臓の音を聞いている姿が、どうしようもなく愛おしくて……。
そのまま、彼女を強く抱きしめた。
◇
砦を出ると、もう夜になっていた。冷たい風が、戦いの跡を撫でるように吹き抜けていく。
僕は、満天の星空を見上げた。
とても綺麗だった。僕らがどれだけ戦ったのかも、どれだけの人が犠牲になったのかも、何も知らないように、星はキラキラと輝いていた。
「……全部、終わってしまいましたね」
口から、そんな言葉がこぼれた。
僕は、魔王を倒せば、きっと何かが報われるのだと思っていた。
だけど、何も帰ってこない。焼けた町も、壊れた家も、失われた命も。どれだけ願ったところで、元には戻らない。
僕は……。
「終わってなどいません」
隣から、女神様の声がした。彼女が、僕の顔を見ている。
「なぜあなたは、私を助けに来てくれたのですか?」
「それは……」
どうしてだろう。うまく言葉にはできなかった。でも、僕は女神様が攫われたと聞いた時、絶対に彼女を助けたいと思ったんだ。
「あなたが、世界の希望だから……」
すると女神様は、にっこりと笑った。
「そして、あなたは私の希望です」
そう言って、夜の彼方へまっすぐ目を向ける。
「家族を失った人がいるでしょう。帰る場所を失った人もいるでしょう。でも、その人たちがまだ生きているのなら⋯⋯」
風が吹く。彼女の髪が、夜の中で揺れている。
「まだ、終わっていません」
力強い声だった。
「……終わってない」
僕は、その言葉を繰り返した。すぐには信じられなかった。それでも、ほんの少しだけ、前を向ける気がした。
聖剣を見つめる。剣を振ることしかできなかった僕に、これから何ができるんだろうか。何もかも、全然分からないけど……。
「行きましょう、女神様」
「ええ」
僕たちの長い旅が始まった。
◇
僕たちは、歩き続けた。
焼け落ちた街を訪れ、生き残った人たちを探した。何もかも失って、それでも生きようとしている人たちを、ひとりずつ集めていった。
瓦礫の下に残された亡骸も、ひとつずつ見つけた。そのほとんどは、名前すら分からなかったけど、誰一人として置き去りにはしなかった。すべて、土へ還していった。
◇
あるとき、たくさんの魔族がやってきた。
突然のことに、あちこちから悲鳴が上がった。泣き出す人もいた。僕はすぐに聖剣を抜き、みんなの前に立った。
だけど、女神様が僕のさらに前へ出た。
「大丈夫です。この方々は、私たちを傷つけに来たのではありません」
彼らは、旧魔族領で暮らしていた者たちだった。敬愛していた先代魔王は人間の手によって処刑され、今度は戦争が始まると、故郷を離れて身を隠すしかなかったのだという。
それでも、僕たちのことを信じて言ってくれた。「人間と魔族が共に生きられる世界を作りたい」と。
憎しみを抱えながら、それでも共に歩く未来を望んでくれた彼らは、僕らの仲間になった。
◇
その一方で、魔王が残した『同胞たち』は、女神様を傷つけようとした。だから、僕は女神様を守った。もう二度と、彼女が苦しい思いをしないように。
女神様は彼らを拒まなかった。どれだけ憎まれても、恨まれても、何度でも向き合い、対話を続けた。
彼らの心を解きほぐすのは、決して簡単なことではなかった。それでも、長い長い時間をかけて、僕らの関係は少しずつ変わっていった。
◇
僕たちは、歩き続けた。
みんなが集まって、家が建ち始め、集落は少しずつ大きくなっていった。畑を耕し、井戸を掘り、壊れた道を直した。朝になれば働き、夜になれば火を囲んだ。
焼け跡に花が咲き、泣いていた子どもが笑い、誰かが誰かのためにパンを焼いた。そんな小さな光が、世界に生まれ始めた。
女神様の言う通り、まだ終わっていなかった。
僕たちが失ったものは、戻ってこない。だけど、これから生まれるものは、きっと僕らの手で守れる。
大丈夫。
どれだけ長い道のりでも、僕の隣にはいつも女神様がいる。彼女と一緒なら、僕はこれからも歩いていける。




