永遠の女神よ、安らかに眠れ。
朝の通りには、焼きたてのパンの香りが漂っている。店の前で、二人の男が買い食いをしていた。
「おっちゃん! 月芋パン二個ね!」
「お前、そればっか食ってるよな。そんな美味いのか?」
「へへ、これはお前ら人間には分からんぜ。旧魔族領で栽培されていたという月芋! それをふんだんに使ったパン! まさに故郷の味なんだよ!」
「生まれも育ちもココだろーが……」
◇
少し離れた工房では、青い肌の鍛冶職人が、大きな槌を振るっていた。カン、カン、と金属を打つ音が町に響く。隣では、人間の青年が真剣にその手元を見つめていた。
「師匠、今の打ち方、ちょっと違いましたよね?」
「おっ! 気づいたか」
「はい。最後の一打だけ、少し力を抜いてました」
「バッカヤロ……力を抜いたんじゃねぇ! 鉄が欲しがってる場所に打っただけだ!」
「鉄が……欲しがってる?」
「そうだ。教えてやっから、よく見とけ」
「はい!」
◇
通りの一角では、数人の女性たちが噂話に花を咲かせていた。
「ねえ、知ってる? あそこの娘、他種族婚するんですって」
「知ってるー! お相手、ハンサムよねー!」
「娘ちゃん、彼のどんなところが好きだって? やっぱり優しいところとか?」
「えーと……ウロコ?」
「ウ、ウロコ……?」
「あはは! まあ、幸せならいいじゃない!」
◇
広場では、十人ほどの子どもたちが追いかけっこをしていた。
「そろそろオニかわろーぜ」
「えー、もう一回!」
「なんでだよ! ずっとオニじゃん!」
「だって、追っかけるほうがおもしろいんだもん! オレ、ツノあるからオニっぽいし!」
「それ関係ないじゃん!」
そんな子どもたちのそばを、一人の女性が歩いていた。
「あっ、トワさまだー!」
彼女の姿を見つけた子どもたちが、一斉に駆け寄る。中でも、一人の少女が誰よりも早くトワのもとへたどり着いた。
少女はトワの前で立ち止まり、両手をぱっと広げた。
「トワさま、だっこしてー!」
「まあ」
トワは、思わず微笑んだ。
「いいですよ。おいで」
彼女がしゃがみ込むと、少女は嬉しそうに飛びついた。トワはその身体を腕の中へ迎え入れた。
「わあっ!」
弾んだ声が、広場に響いた。
「あっ、ずるいぞ一人だけ!」
「トワさま、わたしもー!」
「ぼくも!」
「おまえはオニだったからダメ!」
「それ関係ないじゃん!」
子どもたちは口々に騒ぎながら、トワの服の裾を引っ張ったり、手を伸ばしたりしている。彼女は、その小さな手を一つずつ受け止めていった。
◇
トワは、いつもの高台に来ていた。
ここからは、街が一望できる。赤い屋根の家々。その間を縫うように伸びる道。あちこちの煙突から空へ昇る白い煙。
街のさらに奥には、青々とした丘が広がっていた。子どもたちの小さな姿が、緑の中を駆け回っている。
高台には、一つの墓がある。墓石の周りには雑草ひとつなく、綺麗に手入れされている。供えられたばかりの花も、まだ瑞々しい。
トワが墓石にそっと手を触れると、風が吹いた。
草花が揺れる。
『――永遠の女神、だねっ!』
背後から、声をかけられた。トワが振り返ると、そこには女神が立っていた。
白いドレスに金色の髪。背中には立派な翼。頭上には、神々しい光の輪。ひと目見ただけで、女神だとわかった。
『どーもっ! 女神です!』
「あら……」
トワは女神を見ると、その前にひざまずき、額を地面につけた。
「ご機嫌麗しゅう、女神様。貴方の名を騙ってしまいましたこと、どうかお赦しを……」
『いやいや! そんなコト、全然いーから! 頭上げて! 上げて!』
女神は、ぶんぶんと手を振った。
『それより、私は感動してるんだよ!』
ようやく頭を上げたトワが、今度は首を傾げた。
「感動?」
『キミは人間の身でありながら、人々から女神と崇められた! そして、世界を創った!』
目を輝かせながら身を乗り出した。
『すっごいよ! キミは間違いなく、この世界の最高傑作なんだよ! だから、お誘いに来たんだ!』
満面の笑みで、両手を胸の前でぐっと握りしめる。
『私と一緒に女神やろう! 本当の女神になって、一緒に面白いこととかしよう!』
トワは少しだけ目を丸くしたが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「いいえ、女神様。私はただの人間。私には、荷が重すぎますわ」
『えー? 絶対楽しいと思うんだけどなあ』
「ふふっ。お気持ちは嬉しいのですが……私は、もう十分すぎるほど、いろんなものをいただきましたから」
『うーん……でも、せっかくだから、キミに何かしてあげたいんだあ』
女神は腕を組み、しばらく考え込む。
そして、ぽん、と手を叩いた。
『そうだ! じゃあ、私が何でも願いを叶えてあげる! ホントは九百九十九個、集めてほしいんだけどね! 今回だけ特別だよ!』
指を振りながら自慢げに笑う。
「光栄ですわ。それでは、女神様……」
「――私に、安らかな死を」
女神の表情が固まる。
『…………』
二人とも何も言わなかった。
しばらくの沈黙のあと、女神が首を傾げた。
『……え?』
笑顔が消えていた。
『シ……シって、あの、死?』
「はい」
『…………』
そして……。
『……ええええぇぇぇ〜!?』
女神の叫び声が響き渡った。
『なんで? なんで死んじゃうの? 死んだら全部ムダになっちゃうんだよ?』
「いいえ、女神様」
トワは、首を横に振った。
「人間は……いえ、この世界に生まれたものは、いつか死を迎えます。その中に、無駄なことなど何もございませんわ」
そう言って、女神の手をそっと取る。
「私が望むのは、ただひとつ……どうか」
『えー……。えー……』
女神の目には涙が浮かんでいた。俯いたままトワの手を握り、しばらく何も言わなかったが、やがて顔を上げた。
『うー……わかった。それがキミの望みなんだね……うん。叶える。女神に二言はないよ』
「ありがとうございます、女神様……」
――女神が手をかざすと、トワの身体が淡い光を帯び始めた。それは朝の光のように柔らかく、指先から少しずつ全身へ広がっていく。
自分の手を見る。指先を包む光は、腕へ、肩へとゆっくり伸びている。胸元まで届いた頃には、身体の輪郭まで淡く浮かび上がっていた。
顔を上げて、最後に街を見渡す。そうして微笑むと、彼女はそのままゆっくりと目を閉じた。
光が、ひときわ強くなった。
トワの姿が、その中へ溶けていく。輪郭がほどけ、身体が無数の光の粒へと変わっていった。
光の粒は風に乗り、ふわりと舞い上がる。ひとつ、またひとつと空へ昇っていく。
最後の一粒が、風に揺れて……。
――そして、消えた。
『……おやすみ、永遠の女神』
高台から見える街。人々は、それを『永遠の都』と呼んだ。
一人残された女神は、いつまでも、その穏やかな景色を眺めていた。




