第58話:琥珀のしっぽと、小さなお手伝い隊
セナがエルフの里へと旅立って、二度目の朝が訪れた。
広場を照らす朝陽はいつもと変わらず温かかったが、拠点の主柱である「お母さん」がいない空気は、どこか密度が薄い。昨日の混乱をレイの指揮で乗り越えたとはいえ、住人たちの心にはまだ、目に見えない不備が小さな塵のように積もっていた。
「……おはよう、レイくん、ハルくん。……昨日は立派な代行業務でした。……ですが、管理に『休息』はありません。……今日も定時通りに動線を確保してください」
メルディが、セナの事務机に仮の陣を敷き、眼鏡を指で押し上げた。
レイは、レガリア・セナを杖にして背筋を伸ばし、力強く頷いた。
「わかってるよ、メルディさん! ……ハル、行こう。……ママが帰ってきた時に、不備が一個も見つからないように、ピカピカにしておくんだ!」
「……うん。……ハル、……お掃除、……頑張る。……ママ、……びっくりさせる」
少年の姿をしたハルが、空気を温めるように掌から小さな火花を散らした。
二人が広場へ出ると、そこには一人の少女が、所在なげに大きな箒を持って立ち尽くしていた。マーサの娘、リリだ。
「……あ、レイくん、ハルくん。……おはよ」
リリは、いつも自分たちを可愛がってくれるセナがいない寂しさを隠すように、少しだけ俯いていた。
「リリちゃん! ……どうしたの? ……マーサさんのお手伝い?」
「……うん。……でも、ママが『今日は危ないからお家の中にいて』って。……でも、リリ、……セナさんがいない間、……何もしないのは嫌なの。……リリも、……この場所、守りたいんだもん」
リリの小さな手が、箒の柄をぎゅっと握りしめる。
レイは、その瞳の中に自分と同じ「家族を想う誇り」を見つけた。
「……分かった! ……じゃあ、リリちゃんも僕たちの『お手伝い隊』に入ってよ。……ママの言ってた『完璧な環境維持』、みんなでやってみよう!」
「……リリも? ……いいの?」
「もちろんだよ! ……ハル、グー、ルナ! ……今日からリリちゃんも一緒だよ!」
レイの呼びかけに、グーが地響きを立てて駆け寄り、ルナが影の中から銀色の瞳を輝かせて顔を出した。
リリは、自分よりも遥かに大きなベヒモスのグーを見て一瞬驚いたが、グーが優しく鼻先を寄せて「きゅう」と甘えるように鳴くと、そのゴツゴツとした岩のような鼻をそっと撫でた。
「……すごぉい。……グーくん、……あったかいね」
「……よし! ……作戦開始だよ! ……まずは、拠点の窓拭きと、高いところの埃取り! ……リリちゃん、グーくんの背中に乗って!」
レイの的確な指示が飛ぶ。
リリは、ハルの手を借りてグーの広い背中の上に登った。視界が一気に高くなり、リリの顔にぱっと笑顔が戻る。
「……わぁ、……お空が近い! ……リリ、……お窓、磨くね!」
リリがグーの背中でバランスを取りながら、高い場所の窓を丁寧に拭いていく。
ハルは、リリが拭いた後の窓に結露が出ないよう、口元から柔らかい温風を吹きかけて瞬時に乾燥させた。
レイは、レガリア・セナを一振りし、風の魔力で舞い上がった埃を一点に集め、ルナの影の中へと放り込んで「廃棄」していく。
セナがいつも口にしていた「動線の最適化」。
子供たち三人と、魔獣三頭。その連携は、言葉にしなくてもお互いの意図を汲み取り合う、純粋な信頼の在庫によって成り立っていた。
「……あ! ……レイくん、……あそこ!」
窓を拭いていたリリが、拠点の生垣の奥、まだ冷気の名残で霜が降りている茂みを指差した。
そこには、一羽の小さな森のリスが、冷え切った体で震え、動けなくなっていた。
「……大変だ、……冷たいのが、まだ残ってたんだ……!」
レイたちは作業を中断し、リスの元へ駆け寄った。
セナがいれば【鑑定】で一瞬にして原因と処置が分かるだろう。だが今は、自分たちの知恵だけでこの不備を直さなければならない。
「……僕の魔力で、……温める?」
ハルが手を伸ばそうとするが、レイがそれを止めた。
「だめだよ、ハルくん。……ハルくんの火は、この小さな子には強すぎる。……リリちゃん、その子を抱っこしてあげて。……君の体温が、一番優しいはずだから」
「……うん、……わかった。……おいで、……もう怖くないよ」
リリは、壊れ物を扱うように、冷たくなったリスを両手でそっと包み込んだ。
レイは、レガリア・セナの先端をリスの頭上に掲げ、極限まで出力を絞った、春の陽だまりのような微弱な魔力を注ぎ込む。
「……お願い、……動いて。……ママが見つけたこの森の命、……僕たちが守るんだ!」
レイ、ハル、リリ。三人の願いが重なった、その時。
リスの小さな鼻がピクリと動き、潤んだ瞳がゆっくりと開かれた。
「……あ、……動いた! ……レイくん、……生きてる!」
リスは、リリの手のひらで、感謝を伝えるようにトントンと足踏みをし、やがて元気を取り戻すと、森の奥へと軽やかに駆けていった。
セナという「正解」を導き出す大人がいない中で、彼らは自分たちの力で「管理」という名の愛を形にしたのだ。
夕暮れ時。
拠点の広場は、朝よりもずっと明るく、清潔な輝きを取り戻していた。
窓は磨かれ、埃は一掃され、そして一つの小さな命が繋ぎ止められた。
「……お疲れ様です、年少組の皆さん。……報告を受けました。……不備、なし。……満点の成果です」
テラスから見ていたメルディが、珍しくバインダーを閉じて、三人の前に歩み寄った。
「メルディさん! ……僕たち、……ちゃんとできたかな?」
「……ええ。……リリちゃんも含め、あなたたちはもう、立派な『聖域の管理スタッフ』です。……セナ殿が見たら、……きっと、悔しがるほどにね」
メルディの言葉に、リリは嬉しそうにハルの肩に頭を預け、グーの足元で満足げに笑った。
夜、メルディはセナへの通信の最後に、今日一日の様子を書き加えた。
『第五十八案件:年少組による自主的な環境整備、および野生個体の救護。
特記事項:リリちゃんの加入により、レイくんたちの情緒的安定度が向上。……特筆すべきは、彼らが『鑑定』に頼らず、自らの体温と知恵で命を救ったこと。
……セナ殿。……あなたの子供たちは、もう、あなたの補助を必要としないほど、立派な管理の担い手になっています。
……在庫:子供たちの成長という名の、無限の資産。
……安心して、あなたの『外回り』を全うしてください。』
拠点の寝室では、疲れ果てたレイ、ハル、そしてリリの三人が、グーの毛並みの上で、仲良く折り重なるようにして眠っていた。
お母さんがいない夜空の下。
小さな騎士たちと一人の少女は、自分たちが守り抜いた聖域の静寂の中で、誇らしい夢を見ていた。




