第59話:白銀の里と、古の長老の眼差し
アルウェンの先導で聖域の境界線を越えてから二日。馬車の窓から見える景色は、秋の彩りから一変し、眩いばかりの白銀に輝く魔力樹の群生へと変わっていた。
ついに辿り着いたエルフの秘里「シルニオン」は、巨大な世界樹の枝葉を天然の屋根とした、幻想的な空中都市だった。
「……ここが、私たちの里です。セナさん、ようこそ。人間を公式に招き入れるのは、実に三百年ぶりのことです」
アルウェンが誇らしげに門を開くと、そこには宙を舞う魔石が柔らかな光を放ち、樹上には精巧な彫刻を施した住居が並ぶ、おとぎ話のような光景が広がっていた。
だが、馬車から降りたセナが真っ先に目を向けたのは、その美しさの陰に潜む「生活の綻び」だった。
「……あら。あそこの螺旋階段、一段の高さがバラバラね。手すりも細すぎて、リリちゃんくらいの小さい子や、お年寄りが荷物を持って上がるのは大変そうだわ」
セナは、事務用の手帳をそっと開き、そこにある「不備」を書き留めた。それは相手を責めるための是正勧告ではない。ただ、前世の倉庫管理や事務の現場で培われた「誰かが怪我をしないための配慮」が、お母さんとしての本能と結びついた、純粋な心配だった。
「……えっ? 階段、ですか? ……私たちは魔法で身を軽くして移動しますので、あまり不便を感じたことはありませんでしたが……」
「魔法は便利だけど、体力が落ちている時や、急いでいる時には負担になるわ。……せっかくの綺麗な里なんだもの。誰にとっても、ただ歩いているだけで安心できる場所であってほしいじゃない?」
セナの穏やかな指摘に、アルウェンは虚を突かれたような顔をした。エルフたちが数百年にわたって「神秘」として守り続けてきた様式美を、セナは「そこに住む人の暮らし」という物差しで測り直していた。
里の最奥、世界樹の苗がそびえる「静寂の広場」で待っていたのは、銀色の長い髭を蓄えた長老エルドランだった。
彼は巨木の玉座に座り、数百年の歴史を湛えた厳しい眼差しでセナを射抜いた。その周囲には、触れれば凍りつくような強大な魔力の圧力が満ちている。王都の騎士団ですら震え上がるような威圧感だったが、セナは動じなかった。
「……龍を使役し、聖域を築いたという人間よ。……お前はこの森に何をもたらすつもりだ? 我が里は、力や言葉だけで動くほど浅くはないぞ」
地鳴りのような問いかけに対し、セナは落ち着いた動作で鞄から一冊のノートを取り出した。それは重厚な契約書ではなく、これまでの聖域での日々を綴った「管理記録」だった。
「もたらす、なんて大層なことは言えません。……ただ、私はお母さんとして、あの子たちが笑って暮らせる場所を広げたいだけなんです。……長老さん。これは、私が聖域でみんなと工夫してきたことの記録です。……良かったら、見ていただけますか?」
差し出されたノートを、エルドランは不審げに手に取った。
そこには、ハルが焼いたパンの温度管理から、レイが育てた野菜の収穫量、そしてコボルトたちが安全にパトロールするための動線までが、温かな筆致で、けれど一分の隙もなく記されていた。
エルドランは、そのノートを一頁ずつ、丁寧に捲っていった。
やがて、その厳しい目尻が、微かに和らぐ。
「……驚いたな。……数字の羅列かと思えば、そこには命への慈しみがある。……事務官と聞いて、もっと冷徹な者を想像していたが、貴殿の目は『本質』を射抜いているようだ」
「ふふ、よく言われます。……でも、管理っていうのは、誰かを大切にするための手段でしかないんですから。……お部屋の片付けと同じですよ」
セナは長老に導かれ、里の神木である「白銀の苗」の根元へと案内された。
里が冷気の影響で弱っていると聞いたセナが、真っ先に確認したかった場所だ。
「……長老さん。ここ、少しだけお掃除をさせてもらえませんか? ……神聖な場所なのは分かります。でも、換気を忘れたお部屋のように、この子が息苦しそうにしているわ」
セナは神木の根元の土を、鑑定スキルを介さずとも、事務員としての「違和感」で捉えていた。
エルフたちが「神聖な魔力の凝縮」として大切に安置していた根元の結晶体。それは実は、里全体から排出された生活魔力や魔法の使い残しが、滞留し、腐敗し始めた「澱み」だった。
「……掃除、か。……我らはここを崇めるあまり、触れることさえ禁忌としてきた。……それが里の活力を奪う毒になっていたとは……」
「気づいた時が、一番の片付けどきですよ。……長老さん。この澱みを流すための、新しい水路(動線)を作りましょう。……この里が、もう一度健やかに深呼吸できるように」
エルドランは、一介の人間の事務員が、里の滅びの真実を「お掃除」という身近な言葉で解き明かしたことに、心からの敬意を表した。
「……あな恐ろしや。……事務官セナ。……貴殿の知恵は、我らが数千年をかけても辿り着けなかった『生活の真理』に満ちている。……どうか、この里に新しい風を吹かせてくれぬか」
夜。里から提供された、世界樹の香りが漂う最高の客室で、セナはランプの灯火の下、管理日誌を広げた。
『第五十九案件:エルフの里シルニオンの視察、および長老さんとの面談。
特記事項:神木の根元に深刻な魔力の澱みを確認。……神秘を大切にするのは良いけれど、お掃除を忘れるのは管理上の大不備ね。
……レイくん、ハルくん、元気にしてるかしら。
……お母さんは今、エルフの里のみんなと一緒に、大きな大きな『大掃除大会』の計画書を練っているところよ。
……明日には、神木さんが気持ちよく伸びをできるような、新しい風を通してみせるわ。
……在庫:里のみんなのやる気。……不備:古い思い込み。……徹底的に綺麗にしてあげましょう。』
セナのペン先は、家族を想う時のように、優しく、そして滑らかに動いていた。
一方。その頃、セナのいない聖域の境界線には、昨日までとは違う、不気味な「未知の影」が静かに忍び寄ろうとしていた。




