第56話:エルフの里への親書と、お母さんの「外回り」準備
大規模な出荷を終えた翌朝、聖域の事務机には、王都からの受領証に代わって、一通の重厚な親書が置かれていた。
深緑の封蝋には、古のエルフの紋章。アルウェンが差し出したその書状を、セナは事務用の眼鏡を光らせて一字一句精査していた。
「……エルフの里、長老より。……先般の魔導紙への謝辞、および聖域の管理者との直接会談の要請。……事務的に言わせてもらえば、現地視察は情報の不備を無くす最短ルートね。……アルウェンさん、返信を。……私が直接、そちらの里へ伺うわ」
セナの「出張宣言」に、広場で作業をしていた住人たちが一斉に顔を上げた。
これまでのセナは、常に拠点の中心に座り、すべての動線を支配していた。彼女が聖域を空ける。それは、この小さな共同体にとって初めての「自律性」が試される重大な局面を意味していた。
「……セナ殿。……あなたが不在の間、ここの指揮系統はどうなるのですか? ……管理の空白は、致命的なエラーを招きますよ」
メルディが、冷徹な分析官の瞳でセナを見据えた。
セナは既に、一晩で書き上げた三冊の分厚いバインダーを机に並べていた。
「……抜かりはないわ、メルディさん。……これより、業務代行マニュアルに基づく『権限委譲』を行うわよ。……メルディさんは聖域全体の総括と医療を。……マーサさんは生産管理を。……ロレッタさんは、みんなのメンタルケアと食料在庫の維持をお願い。……不備があれば、すぐに魔導通信で私に繋ぐこと」
セナは、事務職としての精密さで、自分がいない間のあらゆるリスクを予測し、その対処法を言語化していた。
それは、彼女がどれほどこの聖域を愛し、一秒の混乱も許したくないと考えているかの証左でもあった。
「……そして、レイくん。……ハルくん。……グーくん。……ルナちゃん」
セナは、不安げな表情で自分を見つめる子供たちの前に膝をついた。
「……あなたたちには、聖域の『最終防衛ライン』を任せるわ。……お母さんが戻るまで、ここをしっかり守ってくれるかしら?」
「……うん! ママ、大丈夫だよ! ……僕、レガリア・セナと一緒に、みんなを絶対守るから! ……お仕事、頑張ってきて!」
レイが杖を胸に抱き、力強く頷いた。
王都での経験、そして新調された杖。少年はいつの間にか、お母さんの背中を見送る強さを手に入れていた。
「……ママ。……ハルが、……温かい風、……ずっと吹かせておく。……誰も、寒くないようにするよ」
「……グー、……どっしり。……揺らさない」
少年の姿のハルと、足元で地響きを立てるグー。
ルナもレイの影の中から銀色の瞳を覗かせ、主を護る決意をその静かな波形で示していた。
セナは、そんな頼もしい家族の姿に胸を熱くしつつも、お母さんとしての「事務外の心配」が止まらなくなった。
「……着替えは予備まで持ったかしら。……野菜は残さず食べてる? ……夜更かしは厳禁よ。……ハルくん、火の不始末には気をつけて。……それからメルディさん、レイくんが夜中に寂しがったら、……」
「……セナ殿。……公私の混同が激しすぎます。……それはマニュアルにありません」
メルディに呆れ顔で指摘され、セナは「あ、……そうね。失礼したわ」と赤面して立ち上がった。
管理官としては完璧な計画を立てられても、お母さんとしての心には「予備の在庫」など存在しなかった。
翌朝、アルウェンを案内役に、出張用の馬車のパッキングが完了した。
コボルトたちが、新築の家から総出で現れ、言葉を持たぬままに激しく尻尾を振り、彼らなりの「安全祈願」を捧げている。
「……さあ、アルウェンさん。……行きましょうか。……エルフの里が、どのような『資産』を抱えているのか。……事務的に、しっかり精査させてもらうわよ」
セナは馬車に乗り込み、窓から大きく手を振った。
遠ざかっていく拠点。そこには、並んで立つレイ、ハル、グー、ルナ、そしてメルディたちの姿があった。
セナは、揺れる馬車の中で管理日誌を開き、未知の領域へ踏み出す第一歩を刻んだ。
『第五十六案件:エルフの里への外交出張。
特記事項:代理権限の委譲完了。……家族と離れるのは、計算外に寂しいものね。
……けれど、これは聖域を『世界の物流ハブ』にするための不可欠なルート開拓よ。
……レイくんの瞳に、寂しさではなく誇らしさが宿っていたこと。……それが今回の一番の『収穫』かもしれないわね。
……お土産は、エルフの里で一番甘い蜜に決まりね。
……在庫:勇気、満タン。……行ってきます。』
馬車が森の深奥、まだ見ぬエルフの領域へと消えていく。
お母さんが綴る管理日誌は、今、聖域という小さな家を飛び出し、異世界という広大な「市場」を管理するための、新しい章へと進み始めた。




