第47話:エルフの矜持と、お母さんの是正勧告
拠点の保健室。そこはメルディが魔力波形一つ逃さず管理する、聖域で最も静謐な空間だ。
窓から差し込む秋の柔らかな光の中で、月白の髪を持つエルフの女性、アルウェンがゆっくりと意識を浮上させた。
「……気が付きましたか。深追いしすぎた魔力枯渇による一時的な昏睡です。……安静を推奨します」
眼鏡の奥の瞳を冷徹なまでに安定させたメルディが、アルウェンの手首から指を離した。
アルウェンは朦朧とした意識の中で、自分の傷口が、エルフの秘薬でも成し得ないほど精密かつ清潔に処置されていることに気づき、愕然とした。
「……信じられん。……人間の、それもこのような辺境の地で、これほど高度な治癒管理が行われているとは」
アルウェンが震える手で身を起こし、窓の外へ視線を向けた時、彼女の「エルフとしての常識」は音を立てて崩れ去った。
広場では、巨大なベヒモスのグーが正確な歩取りで土を均し、その背の上では少年の姿をした守護龍のハルが、尾を揺らしながら周囲の気温を一定に保つための微細な熱風を放っている。
そしてその中心で、一人の少年――レイが、光り輝く魔導杖を指揮棒のように振り、彼らの動きを完璧な規律の下で統率していた。
「……神話の獣を、……あのような幼子が使役しているというのか? ……狂っている。いや、……あまりに完璧な『運用』だ」
アルウェンが言葉を失っているところへ、軽やかな、けれど規則正しい靴音が近づいてきた。
扉が開くと、そこには一冊の厚いバインダーを抱えたセナが、事務官としての「仕事の顔」で立っていた。
「おはよう、アルウェンさん。……意識が戻って何よりだわ。……事務的に言わせてもらえば、目覚めてから三十分以内が、最も契約の頭が冴える時間なのよ」
セナは、アルウェンのベッドの横に置かれたサイドテーブルに、迷いなくバインダーを置いた。
アルウェンは、エルフ特有の気高さで背筋を伸ばし、セナを鋭く射抜くような瞳で見据えた。
「……事務官、セナ。……王都の残党を掃除したという腕は見せてもらった。……我が里も、あの冷気と人造魔獣に侵食されている。……我ら誇り高きエルフを救うために、その力を貸していただきたい」
「救う、ですか。……いい言葉ね。……でも、私の辞書には『無償の奉仕』という項目はないの」
セナはバインダーを捲り、アルウェンの前に一通の書類を差し出した。
そこには、昨日の保護から現在までの「医療費」「食費」「安全確保コスト」が、一分の隙もなく計上されていた。
「救援を求めるのは自由よ。……でも、私の管理する『聖域』に足を踏み入れ、同胞の移住まで口にするなら、まずはここの『ルール』を理解してもらわないと。……はい、これ。……私が策定した『聖域居住基本マニュアル』よ」
差し出されたのは、あまりにも膨大な、けれど整然と分類された「生活の掟」だった。
動線の確保、ゴミの分別、魔獣との共生における優先順位、そして他種族間のトラブル防止フロー。
「……何を、……侮辱するな! ……我らエルフは森と共に生きる種族だ。……このような紙切れに縛られずとも、森の調和は……」
「……その『調和』とやらで、人造魔獣に勝てたのかしら?」
セナの冷徹な一言が、アルウェンの言葉を遮った。
セナは一歩歩み寄り、アルウェンの碧色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「誇り(プライド)は尊重するわ。……でも、私の庭で『不備』を起こすなら、それは誇りじゃなくて、ただの『管理不足』なの。……私の指示に従えないなら、救援要請も移住の打診も、その場で却下させてもらうわよ」
アルウェンは、セナから放たれる、魔力とは別の「圧倒的な合理性の重圧」に息を呑んだ。
沈黙が保健室を支配しようとした、その時。
「――お邪魔しまーす! ……ママ、スープ持ってきたよ!」
レイが、ハルを連れて、湯気を立てる木製のボウルを大事そうに抱えて入ってきた。
殺伐とした交渉の場に、ふわりと、聖域特産の果実と王都のスパイスが混ざり合った、抗い難いほど温かな香りが広がった。
「アルウェンさん、おはよ! ……これ、ママが作った特製スープなんだ。……エルフの人はあんまりお肉食べないってメルディさんが言ってたから、お野菜と魔力果実をいっぱい煮込んだんだよ。……食べると元気になるから!」
「……レイ。……これ、……ハルが、ずっと、お火加減見てた。……美味しいよ」
ハルが少年の姿で、期待に満ちた表情でスープを差し出す。
アルウェンは、目の前に差し出された「至高の配慮」を前に、困惑した。
事務的に追い詰める冷徹な女性。そして、その背後で、恐ろしいはずの神話級魔獣と少年の、屈託のない、汚れなき真心。
アルウェンは躊躇いながらも、スープを一口口に運んだ。
「……っ、……これは……」
体に染み渡る、慈悲のような温かさ。
セナの【鑑定】によって、アルウェンの衰弱した内臓と魔力回路に最適な比率で調合された、世界で唯一の「アルウェンのための処方箋」としての食事だった。
エルフの里のどんな宮廷料理よりも、そのスープはアルウェンの孤独な矜持を優しく、けれど力強く解きほぐしていった。
「……負けだ。……事務官。……貴殿の『管理』には、我らエルフが忘れていた……個への執着と愛がある」
アルウェンは、空になったボウルをレイに返し、セナに向き直った。
「……マニュアルに従おう。……我が里を救うため、そして私の足が治るまでの間、……私を貴殿の『下』で使っていただきたい」
「……話が早くて助かるわ。……ちょうど、エルフの里との連絡調整役と、聖域の植生管理の『在庫管理員』を探していたのよ」
セナは満足げに微笑むと、管理日誌に新しい項目を書き込んだ。
『第四十七案件:エルフの行政官アルウェンの入国審査、および試験雇用の開始。
特記事項:レイくんとハルくんの『スープ外交』が奏功。
……誇り高い種族ほど、一度納得すれば優秀なアセット(人材)になるわね。
……在庫:お見舞いスープ、完食。
……さて。明日は彼女に、聖域の『効率的な清掃当番』の動線を叩き込んであげましょうか。
……不備なし。』
レイが「やったね、新しいお友達だね!」とハルと手を叩いて喜ぶ。
セナの眼鏡の奥で、新しい「多種族共生」という名の巨大なプロジェクトの歯車が、一ミリの狂いもなく回り始めたのだった。




