第46話:森の境界線と、一枚の越境申請
王都の残党が放った人造魔獣の脅威が去り、聖域には本来の、どこまでも澄み渡った秋の静寂が戻っていた。
セナは、拠点のテラスに置いた事務机で、王都へ送りつけた請求書の写しと、現在の在庫目録を照らし合わせていた。
「……不備なし。王宮からの入金確認も予定通り。……事務的に言わせてもらえば、これこそが理想的なポートフォリオね」
セナは、手元の羽ペンを置いて、大きく伸びをした。
広場では、レイとハルが、新入りのグーとルナを連れて、のんびりと日向ぼっこを楽しんでいる。
ベヒモスのグーは、レイにブラッシングされて気持ちよさそうに目を細め、フェンリルのルナは、レイの影の中から時折顔を出しては、ハルが魔法で浮かび上がらせた小さな火の玉を追いかけて遊んでいる。
「……ママ! 見て、グーの背中、ピカピカになったよ!」
「……うん。……ハルも、お手伝いした。……あったかい風で、乾かしたんだ」
レイとハルの明るい声が、森の木々に溶けていく。
王都での激闘や、北の境界線での凍てつくような緊張感。それらを乗り越えた今、この穏やかな「日常」という名の資産が、セナにとってはどんな金貨よりも輝いて見えた。
「セナさん、ちょっといいかしら?」
そこへ、職人のマーサが、織り上げたばかりの一反の布を抱えてやってきた。
それは、王都への出荷用とは別に、彼女が心血を注いで作り上げた最高級の魔糸織りだった。
「あら、マーサさん。……素晴らしい出来栄えね。……これなら王都の貴族街でも、最高値で取引されるわよ」
「ふふ、ありがとう。……でもね、セナさん。……最近、リリと話していたの。……いつか、この場所で、戦うためだけじゃない、誰かの幸せを祝うための晴れ着を仕立ててみたいわねって」
マーサは、隣で布の端を握っている娘のリリの頭を優しく撫でた。
「……晴れ着、ですか」
「ええ。……これまでは生きることに精一杯だったけれど。……この平和が続くなら、いつか誰かがここで家族を作って、新しい命が生まれていく。……そんな未来を、この布で彩れたら素敵じゃない?」
マーサの言葉に、セナは虚を突かれたような思いがした。
事務職として、聖域を「守る」こと、そして「維持する」ことに心血を注いできた。けれど、その先にある「繁栄」や「文化」については、まだ手付かずの項目だったのだ。
「……そうね。……この場所が、ただの避難所ではなく、誰かが幸せになるための拠点に変わる。……それは事務的にも、非常に付加価値の高い目標だわ」
セナが微笑んだ、その時だった。
影の中に潜んでいたルナが、不意に鼻を鳴らし、北の境界線の方角へ向かって低く、鋭い警告の声を上げた。
「……ルナちゃん? ……どうしたの?」
「……ママ。……あっち、……変な匂い。……冷たいのじゃない。……森の匂いだけど、……知らない人がいる」
ハルが立ち上がり、守護龍としての鋭い視線を森の深奥へと向けた。
レイもまた、咄嗟にレガリア・セナを握りしめ、セナの前に立って周囲を警戒する。
「……不備の検出ね。……メルディさん、ロレッタさん、拠点の防衛レベルを一段階(レベル一)に上げて! ……私は、レイくんたちと一緒に境界線の確認に行ってくるわ」
セナは事務用の鞄を掴み、三頭の魔獣とレイを伴って北の境界線へと向かった。
かつて冷気の楔が突き刺さっていた場所は、今ではハルの火とグーの地均しによって更地に戻されている。
そこには、一人の人影が、崩れかけた大樹の影に寄り添うようにして立っていた。
長く、尖った耳。
風に揺れる月白の髪。
そして、傷ついた様子で、けれど気高く立ち尽くすその姿は、紛れもなく「エルフ」の種族を思わせるものだった。
「……止まりなさい。……聖域の管理者として、あなたの身元を確認させてもらうわ」
セナが凛とした声を響かせると、その人影――アルウェンは、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の碧色の瞳には、深い警戒と、それ以上の疲弊が色濃く残っていた。
「……あなたが、……王都で噂の……事務官、か」
アルウェンの手には、古びた羊皮紙が握られていた。
鑑定スキルを展開したセナの視界に、その書類の内容が読み取れる。
『種族:森エルフ。……状態:魔力衰弱、右足に負傷。……所持品:古の越境許可証(有効期限切れ)』
「……エルフの行政官が、どうしてこんな最果ての森まで? ……期限の切れた書類を持って、無断で境界を越えるのは、事務的に言わせてもらえば不法侵入よ」
セナの厳しい言葉に、アルウェンは自嘲気味に微笑んだ。
「……分かっている。……だが、私たちの里も、あの冷気と人造魔獣によって多大な損害を受けた。……王都の残党を掃除したというあなたの腕を見込んで、……正式な『救援要請』と、……一部の同胞の『移住の打診』に来たのだ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アルウェンは力尽きたようにその場に膝をついた。
「……ママ! ……大変だ、……メルディさんを呼ばなきゃ!」
「……レイくん、落ち着いて。……まずは安全を確保するのが先決よ」
セナは、倒れ込んだエルフの女性を冷徹な、けれどどこか温かな瞳で見つめた。
平和になった聖域。そこに舞い込んだ、初めての「外からの正式な客」。
それは、聖域が単なる隠れ里から、多種族が共生する新しい社会へと脱皮するための、最初の「入国審査」の始まりでもあった。
「……よし。……不備はないわね。……メルディさん、患者一名、移送の準備を! ……ロレッタさんは、彼女のために一番清潔な客室を用意して。……そして、一番美味しいスープもね」
セナは、管理日誌を広げ、秋の風に吹かれながら新しいページにペンを走らせた。
『第四十六案件:境界線における未登録者の接触。
特記事項:エルフの行政官アルウェンとの遭遇。……救援要請、および移住の打診を受領。
……聖域に、初めての外からの風が吹き込もうとしている。
……お母さんとしての優しさと、管理官としての冷徹さ。
……その両方を持って、この新しい『在庫』を精査させてもらいましょうか。
……さて。明日の朝食には、エルフが好む新鮮な果実を多めに用意しなきゃね。』
セナの視線の先。
運ばれていくアルウェンの後ろで、森の木々が新しく訪れる激動の時代を予感させるように、カサリと大きな音を立てて揺れた。
お母さんの綴る管理日誌は、今、多種族が織りなす壮大な共生の物語へと、最初の一歩を踏み出したのだった。




