第42話:月夜の影と、星喰いの仔
王都のバルトから届いた「人造魔獣接近」の急報を受け、聖域の夜はかつてない緊張感に包まれていた。
セナは事務机の上に広げた境界線の地図に、青白い魔石を配置し、防衛網の最終確認を行っていた。
「……北西の第三ゲート、魔力反応が減衰しているわ。メルディさん、予備の魔石を補充して。……ロレッタさんは、非戦闘員の避難誘導の再確認を。……事務的に言わせてもらえば、初動の一秒が勝敗を分けるわよ」
「了解しました、セナ殿。……人造魔獣の魔力吸収特性を考慮し、中和剤の準備も整えています」
メルディが冷静に答え、薬箱を肩に担ぐ。
セナは、窓の外の深い闇を見つめた。
これまでの魔獣は、縄張りや食欲という生存本能で動いていた。だが、王都の残党が放ったという「キメラ・イーター」は、ただ破壊と捕食のために合成された欠陥品だ。その異質な気配が、風に乗って聖域の結界を叩いている。
「……ママ。……あっち。……誰か、泣いてる。……お腹が空いて、消えそうな影が、いじめられてる」
少年の姿をしたハルが、鼻をひくつかせ、森の南側に広がる深い藪を指差した。
ハルの紅い瞳は、暗闇を見通す龍の視力で、そこにある「不条理」を捉えていた。
「南側? ……バルトさんの報告では、敵は北から来ているはずだけど……」
「……ママ、……あの子、……すごく、寂しい匂いがする。……助けてあげたい」
ハルの言葉に、レイが新調した杖、レガリア・セナを握りしめて立ち上がった。
セナは、管理責任者としての慎重さと、お母さんとしての直感を天秤にかけ、即座に決断を下した。
「……分かったわ。……ハルくんの鼻を信じましょう。……メルディさん、北の防衛はコボルトたちに任せて、私たちは南へ向かうわよ!」
一行は、ハルの案内で夜の森を駆け抜けた。
辿り着いたのは、古びた大樹の根元が複雑に絡み合う、陽の光さえ届かない澱んだ場所だった。
そこには、三頭の「人造魔獣」が、一きわ濃い「影」を取り囲み、醜悪な唸り声を上げていた。
人造魔獣――それは、狼の体に蠍の尾、そして粘つく鱗を持った、歪な合成獣だった。
彼らが狙っていたのは、地面にうずくまる、一頭の小さな、けれど底の見えない暗闇のような質感を持つ仔狼だった。
「……あれは、……魔獣なの?」
セナが鑑定スキルを最大出力で展開する。視界に浮かび上がるデータは、かつてないほど不安定で、虚無的な数値を弾き出した。
『個体名:フェンリル(幼体)。……状態:魔力枯渇による崩壊寸前。……属性:影、虚無。……特記:周囲の魔力を無意識に喰らう「星喰い」の末裔。……警告:不用意な接触は存在そのものを消失させる恐れあり』
「……フェンリル。……神話で星を呑み込むと言われた、絶望の狼……。……なぜ、あんな神話の残滓が……」
メルディの声が、恐怖で上ずった。
仔狼は、実体があるのかさえ怪しいほど影のように薄っぺらで、必死に自分を襲う人造魔獣たちの魔力を吸い取って生き延びようとしていた。だが、多勢に無勢。吸い取る端から体力を削られ、その小さな体は今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
人造魔獣の一頭が、鋭い鎌のような前肢を振り上げ、無防備な仔狼の喉元を狙う。
「――そこまでよ! ……私の庭で、弱い者いじめは許可していないわ!」
セナの鋭い声と共に、レイが横から飛び出した。
レガリア・セナから放たれた黄金色の光弾が、人造魔獣の側面に炸裂する。
「……ハル、右をお願い! ……グー、足元を揺らして!」
「……うん、……分かった! ……燃えちゃえ!」
ハルの業火が闇を焼き、レイと契約したばかりのベヒモス、グーが力強く大地を踏みしめた。
地響きに足元を掬われ、炎に焼かれた人造魔獣たちは、不快な金切り声を上げて後退する。
だが、真の問題はその後だった。
救い出された仔狼が、助けに来たはずのレイたちの魔力さえも、本能的に「喰らおう」と吸い寄せ始めたのだ。
「……うっ、……魔力が、……吸い取られる……!」
レイが杖を支えに膝をつく。
仔狼は、ただ生きるために、周囲にあるすべての魔力を貪り食う。それは悪意ではなく、欠陥のある器を満たそうとする切実な本能だった。
「レイくん、離れて! ……その子に触れたら、あなたの魔力回路が破綻するわ!」
セナが叫ぶが、レイは首を振った。
彼は、影のように透き通る仔狼の瞳の中に、自分と同じ「寂しさ」を見たのだ。
「……大丈夫だよ。……君、お腹が空いてるだけだよね。……誰も助けてくれなくて、怖かったんだよね」
レイは、レガリア・セナを地面に置き、無防備にその「影」へと手を伸ばした。
「……僕の魔力、全部あげてもいいよ。……だから、消えないで。……僕が、君の居場所になるから」
レイの手が、仔狼の漆黒の毛並みに触れた。
その瞬間、凄まじい魔力の奔流がレイから仔狼へと流れ込み、周囲の空気がパキパキと凍りつくような音を立てた。
仔狼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、レイの温かな魔力を受け入れると、その薄っぺらだった「影」が、急速に質量を帯びて実体化していった。
漆黒の毛並みが月光に輝き、瞳には銀色の星のような光が宿る。
仔狼は、レイの手のひらを優しく舐めると、甘えるように彼の影の中にスッと入り込んだ。
レイの影が、一瞬だけ狼の形に揺らぎ、再び少年の姿に戻る。
テイマーとしての二つ目の契約――「影の共有」が成立した瞬間だった。
「……はぁ、……はぁ。……ママ、……やったよ。……この子、ルナって名前がいい。……僕の影の中に、入ってくれた」
レイがふらつきながらも、満面の笑みでセナを見上げた。
お母さんであるセナは、その勇姿に感動しつつも、事務職としての脳内で「とんでもないコスト増」を即座に計算した。
「……やれやれ。……床を抜くベヒモスの次は、魔力を食べ尽くすフェンリルね。……うちの魔力備蓄、一晩で破産しちゃうわよ」
セナは溜息をつきながらも、レイの泥だらけの顔を優しく拭った。
人造魔獣の残党は、ハルとグーの追撃によって森の奥へと敗走していった。
静寂が戻った夜の森。
セナは、管理日誌の新しいページに、戦慄と誇らしさが混ざり合った記録を刻んだ。
『第四十二案件:新規魔獣(影の研修生)の緊急保護。
特記事項:レイくん、二頭目の神話級魔獣「フェンリル」との契約に成功。
……名前は、ルナ。レイくんの影に潜伏し、防衛能力を飛躍的に高める。
……不備:魔力の消費量が、従来の計算の五倍に跳ね上がったこと。
……在庫:予備の魔石、全損。……明日から、王都に特急で「高純度魔力触媒」の追加発注書を書かなきゃ。
……でも、レイくん。……あなたの影が、あんなに温かそうに揺れているのを見るのは、お母さんも嫌いじゃないわ』
レイの影から、ルナがひょこっと顔を出し、ハルと鼻先を合わせた。
地響きのグー、龍のハル、そして影のルナ。
お母さんが綴る管理日誌は、もはや一国の王宮を凌駕する「最強の布陣」を飲み込み、未知の明日へと進み始めていた。




