第24話:お母さんの残業と、小さな騎士たちの反乱
聖域の夜は、本来なら深い静寂と星の瞬きに包まれるはずだった。
だが、拠点の中心にあるセナのデスクには、今日も遅い時間までランプの灯が揺らめいている。
「……ええと、マーサさんの織物の来月の出荷予定がこれ。……新しく入った商人のドランさん……じゃなかった、ギルドの彼らの仕入れリストがこれね。……あ、予備の石鹸の在庫も、あと十個は上積みしておかないと」
セナは、前世の物流センターで「運行管理の鬼」と呼ばれていた頃のような鋭い手つきで、羽ペンを走らせていた。
機織り事業の本格化、行商人の定期訪問、そして避難民の受け入れ。
「家」から「村」へと進化し始めた聖域は、管理すべきデータが爆発的に増えていた。事務職としての責任感が、セナを机に縛り付けている。
「……ふぅ。……あと一時間だけ。この『流通シミュレーション』を終わらせれば、明日の朝礼がスムーズにいくわ」
セナは、少しだけ重くなった瞼をこすり、冷めきったハーブティーに口をつけた。
彼女の脳内は今、事務的な合理性で埋め尽くされている。定時退社を信条としていたはずの彼女が、皮肉にも「みんなの平穏を守るため」という大義名分のもと、前世と同じ「残業の沼」に足を踏み入れていた。
……その様子を、寝室の陰からじっと見つめている二つの瞳があることには、まだ気づいていなかった。
翌朝。
セナは、いつものように明るい声を張り上げたが、その目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
「おはよう、レイくん、ハルくん! さあ、朝ごはんを食べたら、今日の『棚卸し』を始めるわよ!」
「…………おはよ、ママ」
レイの返事は、心なしか重かった。ハルも、少年の姿でセナの顔をじっと見つめている。
セナは「あら、二人ともまだ眠いのね」と笑って流したが、その日のマーケット中も、二人はどこか余所余所しい。
セナが商人と難しい顔をして「利益率」の話をしている間、レイとハルはメルディとロレッタを連れて、拠点の裏で密談を交わしていた。
「ママ、最近ずっと紙ばっかり見てる。……僕と、全然遊んでくれない」
「……うん。ママ、目が、赤かった。……悪い魔女に、お仕事、押し付けられてるみたい」
ハルが不満げに頬を膨らませる。レイは、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
「メルディさん、ロレッタさん。……僕、決めた。……今夜、ママをあの机から救い出すんだ! これは『騎士』の任務だよ!」
メルディは、眼鏡をクイと押し上げ、レイの決意を冷静に、かつ温かい目で見つめた。
「……了解しました、レイくん。……セナ殿の労働時間は、管理者の基準を超えています。……論理的な休息を強制する必要がありますね」
「はわわ〜、了解ですぅ! 私、セナさんを癒やすための『特製アロマ風呂』を準備しておきますねぇ〜!」
ロレッタが楽しそうに跳ねる。こうして、聖域の小さき住人たちによる「お母さん救出大作戦」が立案された。
その日の夜。
セナは、レイとハルをベッドへ送り出し、「おやすみなさい」のキスをすると、いつものようにデスクへ向かった。
「さて。……今夜で、この『村の予算計画』を完成させなきゃ。……みんなの冬の服代を捻出するの、意外と大変なんだから」
セナが羽ペンをインクに浸し、最初の一行を書こうとした、その時だった。
バタン! と寝室の扉が開いた。
「……ママ! 残業、禁止!」
パジャマ姿のレイが、仁王立ちで叫んだ。
セナが驚いて振り返る暇もなく、今度はハルが背後から「キュイッ!」と鳴いて、ドラゴンの姿を少しだけ混ぜたような勢いでセナの左腕にガシッとしがみついてきた。
「えっ!? レイくん、ハルくん!? どうしたの、悪い夢でも見た?」
「違うよ! ママが、悪い夢を見てるんだ! その、机の魔物とお喋りするのは、もう禁止!」
レイはセナの右腕に抱きつくと、必死の力で彼女を椅子から引き剥がそうとする。ハルはセナの肩に顔を埋め、言葉を放った。
「……ママ、お休み。……今日は、僕たちと、寝る時間」
「でも、ハルくん、この書類を明日までに……」
「却下です、セナ殿」
いつの間にか背後に立っていたメルディが、セナの羽ペンを鮮やかな手つきで奪い取った。
「……その計算の続きは、私が引き受けます。……セナ殿、あなたは今、最も重要な『資産』を毀損しようとしています。……それは、あなた自身の笑顔と、ご家族との時間です」
「はわわ〜、セナさん、お風呂沸いてますよぉ〜! 今日は私と一緒に、ハチミツの香りで癒やされましょう〜!」
ロレッタがセナの背中を押し、レイとハルが両腕をがっしりとホールドする。
お母さんセナ、絶体絶命の包囲網。
「……あらあら。……みんな、そんなに心配してくれてたの?」
セナは、自分にしがみつく二人の小さな頭を見つめ、不意に視界が潤むのを感じた。
自分は「みんなのために」働いていたつもりだった。けれど、その「みんな」が一番望んでいたのは、整理された帳簿ではなく、自分と一緒に笑って眠る時間だったのだ。
「……ごめんなさい。……お母さん、事務員に戻りすぎてたみたいね。……一番大事な『納期』を、完全に忘れてたわ」
「納期? 何それ?」
レイが不思議そうに顔を上げると、セナは彼とハルをまとめて、愛おしそうに抱き寄せた。
「……寝る前の、抱っこの時間よ。……これは、どんなお仕事よりも遅れちゃいけない、世界一大事な約束なの」
セナはペンを置いた。
書類も、計算も、明日の朝礼も。
今は全部、明日へ回せばいい。それが「ホワイトな聖域」の、本当の運営方法なのだから。
その夜、セナはレイとハルを両脇に挟み、大きなベッドの中で彼らの温もりを噛み締めていた。
メルディとロレッタが焚いてくれたアロマの香りが、セナの強張っていた肩の力を優しく抜いていく。
「ママ、大好き」
「……ママ、……おやすみ」
二人の寝息を聞きながら、セナは心の中で、自分への「業務命令」を書き換えた。
(……私は、誰からも文句を言われないために事務員になったんじゃない。……この子たちが安心して甘えられる『お母さん』でいるために、ここへ来たんだわ)
翌朝。
いつもより一時間遅く起きたセナの顔には、昨日までの疲れが消え、いつもの明るい輝きが戻っていた。
彼女は、待機していたメルディから「計算、完了しております」と完璧な書類を渡され、深く感謝した。
管理日誌の最後の一行。
『第二十四案件:深夜残業の全面禁止。発令者:レイくん、ハルくん。
……今後、お母さんが机にかじりついているのを見かけたら、無条件での『強制抱擁』を業務規定とする。
……特記事項:定時退社の本当の意味を、子供たちに教わった。
……収支報告:睡眠不足、解消。家族の幸福度、青天井。』
聖域の村がどんなに大きくなろうとも。
セナの「一番大切な机」は、今夜も早めに片付けられる。
お母さんの本当の仕事は、家族を抱きしめることから始まるのだから。




