第21話:初めての対話と、龍のひそかな告白
激闘から一夜明けた聖域の朝は、驚くほど静かだった。
窓の外では、嵐が去った後の澄んだ空気が満ち、小鳥たちが何事もなかったかのようにさえずっている。
セナはいつものように、朝の定時始業――朝食の準備を始めていた。
トントントン、と小気味よい包丁の音が、清潔なキッチンに響く。
ふと、背後に気配を感じて振り返ったセナは、手に持っていたお玉を落としそうになった。
「……おはよう、ママ。……お腹、空いちゃった」
そこには、少年の姿をしたハルが立っていた。
昨日までのような、可愛らしい鳴き声ではない。鈴を転がしたような、透き通った少年の声。
セナは数秒ほど固まった後、弾かれたように駆け寄ってハルを抱きしめた。
「ハルくん! ……あぁ、本当におはよう。……夢じゃなかったのね。あなたの声が聞けるなんて」
「……うん。……昨日、いっぱい喋ったから。……出し方、わかったよ」
ハルは少し照れくさそうに、けれどもしっかりとした力でセナの背中に手を回し、ぎゅっと抱き返してきた。その体温は、昨日までの「小さなトカゲ」だった頃よりも、ずっと力強く感じられた。
「ずるいぞハル! 朝からママを独り占めするな!」
そこへ、寝癖を爆発させたレイが飛び込んできた。
彼はハルが言葉を話し始めたことにまだ慣れないようで、驚きと対抗心が入り混じった顔で二人の間に割り込む。
「レイ。……おはよう。……ママは、僕が一番に挨拶するって決めてたんだ」
「なんだよ、喋れるようになったからって生意気だぞ! 僕の方が、ずっと前からママと喋ってたんだからな!」
レイの猛烈なやきもち。ハルはそれを受け流すように、ふふん、と鼻で笑ってみせる。
言葉を得たことで、二人の兄弟喧嘩(あるいは騎士同士の競い合い)は、より一層賑やかさを増していた。
朝食のテーブルでは、合流したメルディとロレッタも、ハルの「言語能力」に興味津々だった。
「ハルくん、……驚きました。あなたの発音、そして語彙の選択。……失礼ながら、いつの間にこれほどの言語を習得されたのですか?」
メルディが眼鏡をクイと押し上げ、まるで未知の古文書を解析するかのような熱を帯びた瞳でハルを見つめる。
ハルは、セナが焼いた厚切りトーストを頬張りながら、淡々と答えた。
「……ずっと、聞いてたから。……セナさんがメルディさんとお薬の話をしてるのも、ロレッタさんがレイに絵本を読んであげてるのも。……全部、覚えてたよ」
「はわわ〜! じゃあ、私たちが『ハルくん、もふもふしてて可愛いですぅ〜』って頬ずりしてたのも、全部わかってたんですかぁ!?」
ロレッタが顔を真っ赤にして叫ぶ。ハルは、少しだけいたずらっぽく目を細めて頷いた。
「……うん。……ロレッタさんのストール、ハチミツの匂いがして好きだよ」
「……ううぅ、恥ずかしいですぅ〜! でも、可愛いから許しちゃいます〜!」
ロレッタが悶絶し、メルディは「……なるほど。ドラゴンの脳は、沈黙している間も膨大な情報を『在庫』として蓄積していたのですね」と、セナの影響を受けた事務的な言い回しで納得していた。
賑やかな朝食を終えた後、セナはハルを誘ってテラスへ出た。
レイがメルディとの勉強(文字の練習)に励んでいる間の、束の間の二人きりの時間。
「……ハルくん。……少し、お話ししてもいいかしら?」
セナが隣に座ると、ハルは静かに月を待つ夜の海のような、深い瞳で彼女を見つめた。
「……ママ。……聞きたいこと、あるんでしょ?」
「ええ。……どうして、今まで喋らなかったの? ……あなたほどの知性があれば、もっと早く私を助けてくれたはずなのに」
セナの問いに、ハルは遠くの山並みを見つめ、寂しげに微笑んだ。
「……言葉にすると。……自分が『龍』だって、認めちゃう気がしたんだ。……僕が龍に戻ったら、きっと、あの国のお城に連れ戻される。……セナさんと、レイと、ここで笑ってる時間が、壊れちゃうのが怖かった」
ハルの小さな手が、テラスの柵をぎゅっと握る。
「……でも。……昨日は、もういいって思ったんだ。……龍になっても、化け物だと思われてもいい。……セナさんが泣くよりは、僕が龍になって、全部消しちゃった方がいいって」
ハルの告白は、あまりに純粋で、あまりに重い「愛」だった。
セナは胸が締め付けられるような思いで、ハルを再び抱きしめた。
「……ハルくん。……あなたが龍でも、言葉を喋らなくても、……私の大好きな息子であることに変わりはないわ。……事務的に言わせてもらえば、あなたの『市場価値』は、龍の力じゃなくて、その優しい心にあるのよ」
「……じむてき? ……ふふ。……ママは、やっぱり変な人だね」
ハルは、セナの胸に顔を埋めて、くすくすと笑った。
その笑い声は、かつて隣国で「兵器」として震えていた頃の彼を、完全に上書きしていた。
「……ママ。……これからは、僕、我慢しないよ。……パンケーキ、もっと焼いて。……レイより、僕にいっぱい、おやつ頂戴」
「あらあら、欲張りさんね。……でも、了解したわ。……オーダーを受領。期限は、一生涯ね」
セナが笑ってハルの額にキスをすると、ハルは満足げに目を細めた。
言葉を得たことで、二人の距離は、より確かなものへと変わった。
その日の午後、マーケットはいつにも増して賑わっていた。
ハルが「いらっしゃいませ。……コボルトさん、今日の薪は乾燥が足りないよ」と、流暢な(そして少し厳しい)口調で接客を始めたからだ。
コボルトたちは「龍神様が喋った!」と腰を抜かし、地に頭を擦り付けて平伏したが、セナが「ただの看板息子よ、気にしないで」と、いつも通りに帳簿を付けながら笑い飛ばした。
夕暮れ時。
管理日誌を更新するセナの横で、ハルがペンを動かす彼女の手をじっと見つめていた。
「……ママ。……次のページ、僕の『予定』も書いていい?」
「ええ、もちろんよ。……ハルくんの予定は?」
「……明日の朝。……レイより一秒早く、ママにおはようって言うこと」
セナは、日誌の隅に小さなハートマークを添えて、その予定を書き込んだ。
管理日誌:『第二十一案件:家族の対話。
特記事項:ハルくんの初リクエストを受領。……声が聞こえるというのは、こんなにも心強いものなのね。
……レイくんの対抗意識、上昇中。……ハルくんの甘えん坊度、限界突破。
……在庫:家族の幸せな声、数え切れないほど多数。』
聖域の夜に、また一つ新しい明かりが灯る。
ハルの「本当の声」は、楽園の空気をより澄み渡らせ、五人の絆を、不滅の契約へと変えていくのだった。




