第20話:守護龍の覚醒と、本当の声
その日は、不気味な地響きと共に幕を開けた。
森の小鳥たちが一斉に飛び立ち、聖域を囲む木々が怯えるようにざわめき始める。
「……メルディさん、ロレッタさん! 避難準備を! コボルトさんたちを誘導して!」
セナは、拠点のテラスから森の奥を見据え、鋭い声を上げた。
鑑定ウィンドウが、視界の端で真っ赤なアラートを点滅させている。
『個体名:汚染された古龍種(ベヒモス変異体)……推定レベル:災害級。対象は守護魔力に反応し、こちらへ直進中』
隣国を襲っていた魔獣の群れから弾き出された、あるいはハルの放つ清浄な魔力に引き寄せられた、あまりに巨大な「悪意」の塊。
それが、セナたちが築き上げてきた平穏な楽園を、物理的に踏み潰そうと迫っていた。
「ママ、僕が行く! あの子たちと一緒に、足止めしてくるよ!」
レイが、愛用の木の杖を握りしめ、屋根の上で待機していたクラウド・シープたちを呼び寄せた。
セナはお母さんとして、彼の細い肩を掴んで引き止めたい衝動に駆られたが、その瞳に宿る「昨日交わした誓い」の輝きを見て、力を込めて頷いた。
「……お願いね、レイくん! でも、絶対に無理はしないで! 危なくなったらすぐに戻るのよ!」
「うん! 行ってきます、ママ!」
レイがシープたちを導き、白い雲の防波堤となって魔獣の前に立ちはだかる。
一方で、少年の姿をしたハルは、セナの隣で小さく震えていた。
その指先からは、制御しきれない強大な魔力がパチパチと火花となって漏れ出している。
(……怖い。……僕が力を出せば、この場所を壊してしまうかもしれない。……母様に、恐ろしい龍だと思われてしまうかもしれない……)
ハルの心の中には、隣国で「兵器」として扱われていた頃の古い傷と、セナという「愛」を失いたくないという怯えが、複雑に絡み合っていた。
咆哮を上げようとしても、喉の奥が拒絶するように震え、言葉にならない「声」が熱となって彼を焼き焦がす。
地響きが激しさを増し、ついに漆黒の魔獣が境界線を突破した。
レイが必死に気流を操り、シープたちで視界を遮るが、魔獣の一振りがその白い雲を容易く散らしていく。
「レイくん!!」
弾き飛ばされそうになったレイを救うため、セナは迷わず前に飛び出した。
事務職としての冷静な計算など、そこにはなかった。ただ、我が子を助けたいという一心で、迫りくる巨体とレイの間に割って入る。
「……ッ、ハルくん、逃げて!!」
セナは、足元で立ち尽くすハルを、包み込むように抱き寄せた。
背後に迫る死の気配。
だが、セナは震えるハルの耳元で、力強く、どこまでも優しい声で囁いた。
「大丈夫よ、ハルくん。……怖くないわ。……あなたがどんな姿になっても、何をしても、ハルくんは私の、最高に可愛い息子なんだから!」
その瞬間。
ハルの心の中で、長く、重く彼を縛っていた「呪い」のような封印が、パリンと音を立てて砕け散った。
お母さんは、僕を怖がらない。
お母さんは、僕を「龍」としてではなく「僕」として愛してくれている。
なら、僕は――この愛を、全力で守らなきゃいけない。
ハルの喉の奥に溜まっていた、数ヶ月分の「想い」が、一気に形を成した。
少年の唇が、震えを止めて、力強く開かれる。
「――さがって、母様。僕が、すべてを焼き払ってあげる」
それは、幼い子供の舌足らずな発声ではなかった。
気高く、透き通り、それでいて森全体を震わせるような、神聖なる「守護龍」としての真の声。
初めて発せられたハルの言葉は、どんな魔法の詠唱よりも美しく、重い響きを持って世界に届いた。
「……ハル、くん……?」
セナが呆然と目を見開く中、ハルの体から紅蓮の光が溢れ出した。
少年の姿を維持したまま、彼の背後には巨大な龍の幻影が立ち上がり、空を焦がすような咆哮を上げる。
ハルは、セナを背負うようにして一歩前へ踏み出すと、空中に指先で「線」を引いた。
それはセナが教えてくれた「境界線」の概念。
ここから先は、僕のママの、僕たちの家だ。土足で踏み入るな――。
指先から放たれた一閃の紅い炎。
それは破壊の火ではなく、悪意のみを焼き尽くす「守護の業火」。
災害級の魔獣は、その圧倒的な神威の前に、一瞬にして光の粒子へと還り、森の肥やしへと変わっていった。
静寂が戻る。
ハルの体から光が消え、彼はふらりと膝をついた。
本来の力を、それも「言葉」という媒介を通じて一気に解放した代償だ。
「ハルくん!!」
セナが真っ先に駆け寄り、倒れそうになる彼の体をしっかりと受け止めた。
ハルは、真っ白な顔をしながらも、満足そうに微笑み、セナの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……ただいま、……ママ」
掠れた、けれど確かに意志のこもった、二度目の言葉。
セナは堪えきれずに涙を溢れさせ、ハルを壊れ物を扱うように、けれど力一杯抱きしめた。
「おかえりなさい……おかえりなさい、ハルくん……! あぁ、本当に……本当にかっこよかったわよ!」
「……へへ、……よかった。……ママ、びっくりした?」
少しだけいたずらっぽく笑うハル。
そこへ、ボロボロになりながらも無事だったレイが、シープたちを連れて戻ってきた。
「ハル……! お前、喋った……! それに、あんなにすごいの、いつの間に……!」
レイは驚きと同時に、自分よりも遥かに強大な力を見せた「弟分」に対し、言葉にできない悔しさと、それでも守りきってくれた感謝が混ざったような、複雑な表情を浮かべていた。ハルを見つめる瞳には、隠しきれない「やきもち」と、それを上回る「畏怖」が同居している。
「……レイ、……お疲れ様。……ママは、僕が、守ったよ」
ハルが初めてレイに向けて放った言葉は、勝ち誇ったような、けれど信頼に満ちた「戦友」への挨拶だった。
レイは一瞬呆然としたが、すぐに「……ふん、次は僕がもっと驚かせてやるんだからな!」と、泣き笑いの顔でハルの肩を叩いた。
拠点から駆け寄ってきたメルディとロレッタも、その光景を前に、立ち止まって涙を拭っていた。
「……奇跡ですね。……守護龍が、自らの意志で『声』を取り戻すとは」
「はわわ〜、ハルくん、とっても素敵でしたぁ……。セナさんの愛が、魔法を越えたんですねぇ〜」
太陽が再び顔を出し、雨上がりのような清々しい光が楽園を照らし出す。
セナは、レイとハルの両方の手を繋ぎ、崩れかけた境界線を見つめた。
これまでの生活は、一度終わったのかもしれない。
ハルが声を出し、その力が知られた以上、隣国も、そして世界も放っておかないだろう。
けれど、セナの心に不安はなかった。
事務職が綴る管理日誌。今日の一行は、これまでにないほど大きな文字で刻まれた。
『第二十案件:守護龍の真なる覚悟。
特記事項:ハルくん、初めての言葉を解禁。……第一声は「さがって、母様」。第二声は「ただいま、ママ」。
……収支報告:甚大な被害、なし。獲得資産:息子の新しい声と、不滅の絆。
……さて。これからは、もっとたくさんお喋りしましょうね。お母さん、聞きたいことが山ほどあるんだから!』
ハルは、セナの胸の中で安らかな寝息を立て始めた。
言葉を得た龍と、騎士を目指す少年、そしてそれを見守るお母さん。
五人の大家族の物語は、この「声」と共に、より深く、より壮大な、真の楽園づくりへと進み始めるのだった。




