EP 5
エミリアの夜逃げ脱走計画! ポポロ村への亡命
白亜の大理石が敷き詰められたムーンキャピタルの目抜き通り。
天を衝くクリスタルの尖塔と黄金の街灯が煌めく壮麗な景観とは裏腹に、大気には蓋のない側溝から湧き出す腐敗下水と、それを誤魔化すために街角から噴射される超高濃度薔薇香水の狂乱ブレンドが充満し、目と鼻をチリチリと灼き続けていた。
そのど真ん中で、時間は完全に凍りついていた。
「この嬢ちゃんはな、俺たちがポポロ村へ連れて帰る。……文句があるなら、その冷え切った剣を抜いてかかってきな。現場の物理の理屈を、そのツラに叩き込んでやるよ」
赤城鷹人のドスの利いた静かな低音が、冷気の渦巻く大通りに突き刺さる。
左腕の傷だらけの無骨な金属製腕時計をカチリと締め直し、作業ジャケットのポケットから手を抜いて腰をわずかに落とした。
対峙する帝国北部軍総司令官『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイトは、抜刀しかけた魔剣の柄に指をかけたまま、一切の瞬きもせず、感情の死滅した冷徹な青い瞳で鷹人を見据えていた。
その全身から滲み出る、二百馬力を超える絶対零度の闘気が、大理石の敷石をビキビキと霜で覆っていく。
「…………」
無言。
だが、その冷涼な視線は、鷹人の肩越し――自警団長マンミアの構える巨大盾『アグニ』の陰で小さく震える金髪碧眼の転生令嬢、エミリア・シフォンヌの姿を再び捉えた。
ヴァルターの足先が、音もなくスッと一歩前へ滑る。
闘気の刃で敵を斬り伏せるためではない。
ただひたすらに、エミリアの顔面へと【距離ゼロセンチの顎クイ】を再開するために、狂気の自動追尾機能が再起動したのだ。
「ヒエェェェッ! また寄せてきたぁぁぁッ! 話を聞きなさいよこの顔面ミリ単位男ぉぉッ!!」
盾の裏でエミリアが絶叫した。
「鷹人さん! ニャングルさん! お願い、早くここから連れ出してぇぇぇッ! 公爵のストーカーも、このドブと薔薇の地獄も、もう1秒たりとも耐えられないのぉぉッ!!」
「クゥ〜ン! エミリアたんの悲鳴も可愛いけど、逃げるニャン! あの氷野郎、マジで目つきがヤバいニャン!」
エミリアの胸元から顔を出したもふもふの小狐コン太が、尻尾を逆立ててけたたましく鳴く。
「言われんでも逃げるわボケェッ!!」
十トンダンプの陰から、防毒マスクを着けた猫耳商人ニャングルが飛び出し、純金算盤『十露盤』を狂ったように振り回した!
「鷹人はん! ここで公爵の私兵軍団や都市警備隊に囲まれたら、交易どころか外交問題でウチの銀行口座が凍結されてまう! 撤退や! ポポロ村へ全速力でトンズラこくでぇぇッ!!」
「おうよ! 現場の撤収作業は迅速にな!」
鷹人は即座に身を翻すと、へたり込んでいたエミリアの華奢な腰を左腕一本で軽々と抱え上げた。
「きゃあっ!?」
「嬢ちゃん、舌噛むなよ!」
タローマン特注の安全靴で大理石の路面を力強く蹴り、鷹人は黄色い十トン大型ダンプ(いすゞ・ギガ)の助手席ドアをバタンと蹴り開け、エミリアをシートへ放り込んだ。
続いてニャングルが転がり込み、荷台のマンミアとキャルルがあおりのチェーンをガチャンと固める。
――ズドォォォォォォンッッッッ!!!!
鷹人が運転席へ飛び乗り、スタータースイッチを床まで捻り倒した瞬間、直列6気筒モンスターディーゼルエンジンが大地を揺るがす爆音を轟かせて目覚めた。
エキゾーストパイプから立ち上る、真っ黒な軽油の熱い排気煙!
「…………(追尾モード移行)」
ヴァルターの姿がブレた。
音速の摺り足を繰り出し、ダンプの助手席の窓へ向かって、氷の残像を引きながら一直線に急接近してくる!
その顔面距離、助手席のガラス越しにわずか【十センチ】!
「ヒギィィィッ!? 並走してきたぁぁぁッ!!」
エミリアが泡を吹いてシートの背もたれへ張り付く。
「しつこい兄ちゃんだぜ!」
鷹人は無精髭の口元をニヤリと吊り上げると、エアブレーキのレバーを力任せに引き倒し、アクセルペダルを一気に床まで踏み抜いた!
――プシューーーッッ! ドロロロロロロロロロッッッッ!!!!
二本出しの巨大なマフラーから、焼けた軽油と高圧排気の衝撃波がヴァルターの眼前へ向けてドカンと叩きつけられた!
いかに氷血公爵の冷気といえど、地球の内燃機関が吐き出す数百度の物理的熱風とススを浴びせられれば、視界と気流を乱されざるを得ない。
ヴァルターの足がわずかに止まり、その隙に十トンダンプの十六本の極太タイヤが白亜の路面を猛烈にグリップして急発進した!
――キキィィィィッ! ズドドドドドドッ!
「さらばじゃ、ドブと香水のクソ都ぉぉぉッ!! 二度と来るかぁボケェッ!!」
ニャングルが窓から中指を立てて絶叫する。
ダンプは白亜の城門のアーチを猛スピードでくぐり抜け、追随しようとした都市警備隊の騎兵たちを土煙の彼方へと置き去りにしながら、国境へと続く山岳街道を時速九十キロで爆走し始めた。
山道へ入り、追っ手の気配が完全に地平線の向こうへ消え去った頃――。
周囲の空気は、あの鼻を突く下水と薔薇香水の狂乱から、針葉樹と澄んだ土が香る爽やかな高原の空気へと劇的に変わっていた。
「はぁ……はぁ……はぁっ……!」
助手席でシートベルトを握りしめていたエミリアが、ようやく肺いっぱいに新鮮な外気を吸い込み、へなへなと座席へ崩れ落ちた。
その豊かな胸元から顔を出したコン太が、ホッとしたように息を吐く。
「助かったニャン……。あのままじゃ、エミリアたんの胸の匂いが全部薔薇の香水で上書きされるところだったニャン」
「あんたは本当に一言余計なのよ! ポポロ村に着いたら絶対にタローマンで園芸用ハサミ買うからね!」
「ひぃぃん! エミリアたんの鬼! 悪魔! 去勢反対ニャン!」
騒ぎ立てる一人と一匹の横で、赤城鷹人は片手でハンドルを握りながら、作業ジャケットの内ポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、少し潰れた紙巻きタバコの箱。
一本を唇にくわえ、地球の百円均一ショップで買った安っぽい黄色いプラスチック製の使い捨てライターを構える。
親指の腹で、ヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
揺れるダンプの車内に、硬質で澄んだ金属の着火音が鋭く響き渡る。
揺らぐ小さな橙色の炎。
先端に火を吸い付け、鷹人は肺の奥深くまで煙を吸い込んだ。
「…………ふぅーーーーっ」
開け放たれた窓から、高原の秋風に乗って一筋の紫煙が流れていく。
ツンとしたタバコの香りが、車内に残っていた緊迫感をスーッと解きほぐしていく。
続けて鷹人は、胸ポケットから大粒の青森県産ニンニクを一片取り出すと、薄皮を剥ぎ、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
直火に炙られたニンニクの表面がパチパチと音を立て、香ばしい狐色に焦げていく。
立ち上る、ガツンと鼻腔を殴りつけるような濃厚なスタミナのアロマ。
鷹人は火を吹き消すと、それを前歯でカリッと噛み砕いた。
――シャクッ。
「ん。胃袋に芯が入ったぜ」
胃の腑がカッと熱くなり、全身の血液が巡る。
鷹人は携帯灰皿に吸い殻をねじ込むと、バックミラー越しに後方のエミリアへ視線を向けた。
「おい、エミリアの嬢ちゃん。……大丈夫か?」
「は、はい……! 本当に……本当にありがとうございました……!」
エミリアはドレスの汚れを払おうともせず、座席の上で深々と頭を下げた。
「私、前世は東京のブラック商社で毎日終電まで働かされて……過労死寸前の電車の中で、変なブランド物の服を着た女神カグヤに無理やり転生させられたんです! 『溺愛されて幸せになりなさい』とか言われたのに、行ってみたら下水がなくて街中がクソと高級香水で息もできなくて……! そのうえ、公爵様は初対面から顔面3センチで無言で迫ってくるし……もう、精神が限界だったんですぅぅッ!」
「そら災難やったなぁ……」
助手席のニャングルが同情を込めてキセルを吹かした。
「あの街はアカン。見た目だけ着飾って、一番肝心なケツの拭き方を放棄しとるからな。……で、エミリアはん。ポポロ村に来て、何がしたいんや?」
エミリアは涙を拭い、ギュッと拳を握りしめて力強く顔を上げた。
「水洗トイレです!!」
「……へ?」
ニャングルの猫耳がポカンと垂れ下がった。
「綺麗な水洗トイレで、音姫を鳴らしながら落ち着いて用を足したいんです! それと、清潔なお風呂! 熱いサウナ! 安全な水! あと、人と会話するときに最低でも【1メートル以上の距離】を保てる、まともな人間の暮らしがしたいんですぅぅッ!!」
切実極まりない、元社畜OLの魂の叫び。
その言葉を聞いた瞬間、運転席の赤城鷹人は、無精髭の口元をニッと豪快に吊り上げた。
「ハッ、上等じゃねぇか。……水洗トイレにサウナに、美味い飯。それなら、うちのポポロ村にいくらでもあるぜ」
鷹人がアクセルを踏み込むと、ダンプは峠の頂上を越えた。
眼下に広がったのは、山々に囲まれた長閑で、だがドンガン製の魔導重火器と巨大なビニールハウスが整然と立ち並ぶ、大陸最強の超重武装限界集落――ポポロ村の雄大な全景だった。
「困ってるレディが逃げてきたなら、腹いっぱい食わせて、温かい風呂に入れてやるのが現場の流儀だ。……ようこそ、ポポロ村へ」
左腕の金属製腕時計に手を添え、鷹人はニヤリと笑った。
亡命令嬢エミリアの新たな人生の幕開けと、それを追ってくる執念深き氷血公爵を迎え撃つための準備が、静かに始まろうとしていた。
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