EP 4
顔面距離3センチの恐怖! 氷血公爵ヴァルターの奇行
白亜の大理石が敷き詰められたムーンキャピタルの目抜き通り。
天を衝く尖塔とクリスタルの噴水が描く華麗な絵画のような景観とは裏腹に、大気には側溝から湧き出す腐敗下水と超高濃度薔薇香水の狂乱ブレンドが充満し、目と鼻をチリチリと灼いていた。
そのど真ん中で、時間は完全に凍りついていた。
――ピキリ……ッ。
大気中の水分が微細な氷の結晶となってキラキラと舞い散る。
赤城鷹人の左手がガチリと鷲掴みにしているのは、帝国北部軍総司令官『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイトの、白皙にして陶器のように滑らかな手首だった。
手首から立ち上る、絶対零度の冷気。
だが鷹人の左腕――手首に固く巻きついた傷だらけの金属製腕時計は、その凍結の魔力をビキビキと軋ませながらも、ミリ単位のブレすら許さずに受け止めていた。
鷹人は無精髭の口元にくわえた紙巻きタバコから、紫煙をフゥーッと吹き出した。
煙が公爵の整いすぎた鼻先を撫でる。
「おい、兄ちゃん。……耳が遠いのか? レディのパーソナルスペースを弁えろって言ってんだよ」
「…………」
ヴァルター公爵は、一切の表情を変えなかった。
激昂するでもなく、驚愕に目を見開くでもない。プラチナシルバーの長い前髪の隙間から覗く氷の青い瞳は、ただひたすらに、感情の死滅した無機質な光を湛えている。
ただ、その視線は鷹人の背後――へたり込んで震えている金髪碧眼の元社畜令嬢、エミリア・シフォンヌだけにピタリと固定されていた。
そして。
――スッ……。
「ひっ……!?」
ヴァルターは手首を掴まれたまま、上半身をまるで機械のクレーンのように滑らかに前傾させた。
鷹人の肩口の隙間をすり抜けるようにして、その美貌がエミリアの顔面へと再び吸い寄せられていく。
距離、四十センチ……三十センチ……二十センチ……。
「…………(スゥー……ハァー……)」
「ぎゃあああああああッッッ!? 息! 息を吸って吐いたぁぁぁッ!!」
エミリアが両手で頭を抱え、地面をのたうち回って絶叫した!
「なんなのぉぉぉッ!? 手首を止められてるのに、なんで首から上だけで間合いを詰めてくるのよぉぉッ! 顔が良いのが余計に怖いのよこの人間定規ぃぃぃッッッ!!」
「クゥ〜ン! エミリアたんに近づくなニャン! 神聖火炎で燃やすニャン!」
エミリアの胸元から顔を出したもふもふの小狐コン太が、威嚇の小さな火の粉をペッと吐き出す。だが、ヴァルターはその火の粉すら瞬時に氷結蒸発させ、一切瞬きをしない。
「アカン……! アカンアカンアカン!! 見とるだけでこっちの三半規管が狂い死ぬわ!!」
十トンダンプの陰から、防毒マスクを押さえた猫耳商人ニャングルが飛び出し、純金算盤『十露盤』を狂ったように激しく振り回した!
「おい公爵! テメエ、社交界の常識どこへ捨ててきたんや!! 初対面で顎クイ15分間ホールドの次は、他人の肩越しに顔面距離3センチのゼロ距離ロックオンかいな!! 愛の告白ちゃう、ただの不審者・公然わいせつ未遂ストーカー現行犯逮捕事案やろがいッ!! 帝国の憲兵呼べ! 誰かこいつを精神鑑定に連れて行かんかいッ!!」
ニャングルの魂のツッコミが木霊する中、自警団長マンミアが四肢を踏み鳴らし、巨大盾『アグニ』の前面装甲をヴァルターとエミリアの間にズドォォン! と叩き込んだ。
「そこまででありますッ! これ以上の接近は、ポポロ村自警団交戦規定第3条における『悪質な肉体的ハラスメント』と認定し、パイルバンカーの射出対象となりますぞッ!!」
ミスリル装甲板の壁によって、ようやく物理的に視界を遮断されたヴァルター。
その瞬間、公爵はピクリとも眉を動かさず、掴まれていた手首からスッと脱力した。
鷹人が手を離すと、ヴァルターは音もなく元の直立不動の姿勢へと戻り、軍服の袖口を乱れなく整えた。
そして――低く、冷涼な、まるで凍てつく氷河が擦れ合うような美声が、その唇から静かに紡ぎ出された。
「……エミリア」
「ひぃっ、名前を呼んだぁっ!」
盾の裏でエミリアがビクンと肩を跳ね上げる。
「戻れ。……公爵邸の、私の執務室の机の、右隣の椅子へ」
「嫌よぉぉぉッ!!」
エミリアは涙目で叫び返した。
「アンタの執務室、右隣の椅子とアンタの距離が【5センチ】しかないじゃない! 私が書類にハンコ押すたびに、耳元で『……よく押せたな』って吐息吹きかけてくるの、拷問以外の何物でもないわよ! あと、部屋中に撒き散らしてる薔薇の香水のせいで、頭痛薬が一日に十錠飛ぶのよ! 私はポポロ村へ行くの! 綺麗な下水と、普通の距離感がある世界へ帰るのよぉぉッ!!」
「…………」
ヴァルターの視線が、再び静かに鷹人へと向けられた。
氷の刃のような冷徹な眼光。
「……貴様が、ポポロ村の者か」
「赤城鷹人だ。現場の作業員で、ポポロ・コーポの管理人をやってる」
鷹人は作業ジャケットのポケットに手を突っ込み、仁王立ちで視線を受け止めた。
「彼女は、私の婚約者候補として月の女神カグヤ様より指定された存在だ。……連れ帰る。邪魔立てするならば、何者であろうと帝国反逆罪として氷葬に処す」
ヴァルターの手が、腰の魔剣の柄へとかけられた。
瞬間、周囲の大理石の路面が、バリバリバリッ! と激しい音を立てて純白の永久凍土へと凍結していく!
帝国北部軍総司令官、単体戦闘力二百馬力を超える怪物の闘気が、白亜の大通りを圧殺するように膨れ上がった。
その張り詰めた殺気配のただ中で――。
赤城鷹人は、ふっと息を吐き出すと、胸ポケットから大粒の青森県産ニンニクを一片取り出した。
指先で素早く薄皮を剥ぎ、黄色いプラスチック製の百円ライターを取り出す。
親指の腹で、ヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
凍りつくような冷気の大気を切り裂き、硬質で澄んだ金属の着火音が鋭く響き渡る。
揺らぐ小さな橙色の炎。
鷹人は生ニンニクの先端に、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
直火に炙られたニンニクの表面がパチパチと音を立て、香ばしい狐色に焦げていく。
滲み出る濃厚な植物油のエキス。
その瞬間――。
ボワッッッッ!!!!
大通りに立ち込めていた凍てつく殺気と香水の悪臭を一瞬で上書きする、猛烈に香ばしく甘い焦がしニンニクのアロマが空間全体へ爆散した!
鷹人は火を吹き消すと、それを前歯でカリッと噛み砕いた。
――シャクッ。
「……ん。胃袋に芯が入ったぜ」
カッと五臓六腑に火が灯り、鷹人の全身の毛穴から、研ぎ澄まされた戦士の気迫が立ち上る。
左腕の傷だらけの金属製腕時計のバックルを、親指でカチリと固め直した。
「おい、公爵の兄ちゃん。……婚約者候補だか何だか知らねぇがな」
鷹人のドスの利いた静かな低音が、氷の魔気を真正面から押し返した。
「嫌がる女のツラに息吹きかけて、無理やり引きずり戻すなんざ、現場の男として一番カッコがつかねぇ三流のやることだぜ」
「……貴様」
「この嬢ちゃんはな、俺たちがポポロ村へ連れて帰る。……文句があるなら、その冷え切った剣を抜いてかかってきな。現場の物理の理屈を、そのツラに叩き込んでやるよ」
言葉が通じないストーカー公爵に対し、赤城鷹人は一歩も引くことなく、無精髭の口元を不敵に吊り上げた。
白亜の都の悪臭と狂乱を切り裂く、亡命令嬢エミリアの脱出劇が、いよいよ一触即発の激突へと突入しようとしていた。
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