EP 3
元社畜令嬢エミリアの悲鳴と、中身親父な聖獣コン太
「誰かぁぁぁッ! 助けてぇぇぇッ!! 溺愛なんてどうでもいいから、バキュームカー呼んでぇぇぇぇッッッ!!!!」
白亜の敷石が敷き詰められたムーンキャピタルの大通りを、金髪を振り乱した一人の少女が、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら爆走してくる。
エミリア・シフォンヌ(二十二歳・元社畜OL)。
両手に脱ぎ捨てたハイヒールを握りしめ、泥水と腐敗汚泥が跳ねる路面を完全な裸足で駆け抜けていた。
その豊かな胸元にしがみついているのは、純白の毛並みを持つ手のひらサイズの九尾の幼獣――妖狐の聖獣『コン太』である。
「クゥ〜ン♡ エミリアたんの胸の弾力、最高だニャン……スースー(深呼吸)」
「ちょっとコン太ぁッ! この非常時に胸に顔を埋めて匂いを嗅ぐんじゃないわよ! あとで絶対にタマ抜いてやるから覚悟しなさいぃぃッ!!」
「ぎゃっ!? 去勢反対! 男の尊厳を守るニャンッ!」
絶叫しながら逃げ惑う一人と一匹の、わずか【二センチ】真後ろ。
――スッ……スッ……スッ……。
足音一つ立てず、大理石の上を滑るように恐るべき無音の高速移動で追尾してくる影があった。
プラチナシルバーの長髪、氷のように透き通った冷徹な青い瞳、そして漆黒の帝国軍総司令官の軍服。
『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイト(二十八歳)である。
その端正極まりない美貌には笑みも怒りも一切浮かんでおらず、完全なる無表情のまま、エミリアの後頭部へ【吐息がかかるゼロ距離】を狂気的な精度でキープしていた。
「…………(無言で間合いを詰める)」
「ヒエェェェッ! 近い近い近い! 息がうなじにかかってんのよ! 離れなさいよこの超絶顔面ストーカー公爵ぅぅッ!!」
その阿鼻叫喚のランデブーの進路に、突如として立ちはだかったのは――。
――プシューーーッッ!
エアブレーキの凄まじい排気音とともに、路肩から車道の中央へガバッと頭を割り込ませた、黄色い十トン大型ダンプ(いすゞ・ギガ)の巨大なフロントマスクだった。
急停止したダンプの運転席のドアがバタンと開く。
安全靴の踵をステップにかけ、身軽に飛び降りてきたのは、煤けた作業ジャケットの袖を捲り上げ、無精髭の顎を撫でる男――赤城鷹人だった。
「おいおい。朝っぱらから、ずいぶんと車間距離の詰まりすぎた追突事故寸前の現場だな」
「きゃあっ!?」
エミリアはダンプの巨体と鷹人の頑強な体躯にぶつかりそうになり、たたらを踏んでその場にへたり込んだ。
同時に、追尾していたヴァルター公爵のピタリと静止した足先が、エミリアの背中からわずか【一センチ】の距離で静止する。
「…………(無言で見下ろす)」
「ひぃぃっ! 止まっても近いのよぉぉっ!」
エミリアが頭を抱えて震える横で、ダンプの荷台からガスマスクを装着したキャルルとマンミアが飛び降り、防毒マスクを抑えたニャングルが助手席から転がり出てきた。
「エミリアはん! 無事か!?」
「ニ、ニャングルさん!? ポポロ村の商人さんよね!? 助けて! この街もこの公爵も、全部頭がおかしいのよぉぉッ!」
エミリアは泥と香水の混ざったヘドロに汚れた手足でニャングルに縋り付こうとしたが、その全身から漂う「下水と薔薇香水の狂乱ブレンド臭」に、ニャングルは防毒マスク越しに「ウワッ、臭っ!」と反射的に一歩後ずさった。
「……ひどい有様だな」
鷹人はやれやれと首を振ると、作業ジャケットの内ポケットからタバコの箱を取り出した。
一本を唇にくわえ、地球の百円均一ショップで買った安っぽい黄色いプラスチック製ライターを構える。
親指の腹で、ヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
静まり返った大通りに、硬質で澄んだ金属の着火音が鋭く響き渡る。
揺れる小さな橙色の炎。
先端に火を移し、鷹人は肺の奥深くまで煙を吸い込んだ。
「…………ふぅーーーーっ」
紫煙をゆっくりと吹き出す。
ツンとしたタバコの香りが、漂っていた悪臭をスッと切り裂いていく。
続けて鷹人は、胸ポケットから大粒の青森県産ニンニクを一片取り出すと、薄皮を剥ぎ、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
直火に炙られたニンニクの表面がパチパチと音を立て、香ばしい狐色に焦げていく。
立ち上る、ガツンと鼻腔を殴りつけるような濃厚なスタミナのアロマ。
鷹人は火を吹き消すと、それを前歯でカリッと噛み砕いた。
――シャクッ。
「ん。胃袋に芯が入ったぜ」
カッと五臓六腑が熱くなり、全身の血流が加速する。
鷹人は携帯灰皿に吸い殻をねじ込むと、へたり込んでいるエミリアの前へしゃがみ込んだ。
「おい、嬢ちゃん。……災難だったな」
「え……? あ、貴方は……?」
涙で滲む瞳を見上げるエミリア。
煤けた無骨な作業着、油の染みた手袋、そして無精髭の精悍な顔立ち。
この悪臭と虚飾にまみれたムーンキャピタルにおいて、あまりにも場違いなほど「泥臭い現実の匂い」を放つ男。
鷹人は頭の中のスキル【リサイクルマスター】を起動した。
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【所持スクラップPt:137,560 Pt】
・カタログ選択:【ドラッグストア倒産在庫・日用品衛生資材カテゴリー】
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(地球の大手ドラッグストアの倉庫整理でデッドストックになっていた、アルコール除菌ウェットティッシュ特大徳用パック、無香料の強力衣類用消臭スプレー、それに清潔な綿の白タオル一式!)
消費ポイント、わずか5Pt。
――ヒュンッ!
鷹人の手元に、青いプラスチックボトルのウェットティッシュと、銀色のスプレー缶が出現した。
鷹人は厚手のウェットティッシュを数枚引き抜くと、無造作にエミリアの手元へ差し出した。
「ほらよ。泥とヘドロを拭きな。……地球のアルコール除菌シートだ」
「えっ……!? アルコール……除菌……!?」
エミリアは震える手でそれを受け取り、手のひらを拭った。
立ち上る、懐かしいエタノールの清潔な香り。
皮膚にこびりついていたドブのヌメリと香水の油分が、スーッときれいに拭い去られていく。
さらに鷹人は、スプレー缶を構えると、エミリアのドレスの裾や周囲の空間へ向けて、シュッシュッ! と勢いよく噴射した。
――ファサァァァ……ッ。
植物抽出の消臭成分が、大気中に滞留していたアンモニアと硫化水素の分子を化学的に包み込み、瞬時に無臭化していく。
「う……うそ……! 臭いが……消えた……!? 鼻が痛くない……!」
エミリアの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
異世界に転生してからというもの、毎日毎日、足元の側溝から立ち上る人糞と生ゴミの悪臭に耐え、それを打ち消すために浴びせられる頭痛薬必須の高級香水に苛まれてきた。
清潔な水も、拭き取るシートも、まともな下水もない中世の絶望。
その地獄の中で差し出された、たった一枚のウェットティッシュと消臭剤。
「うわぁぁぁぁん! ありがとう……ありがとうございますぅぅっ! こんな綺麗なもの、転生してから初めて見ましたぁぁっ!!」
エミリアは子供のように泣きじゃくりながら、ウェットティッシュで顔中の涙と汚れを拭き清めた。
その胸元から、もふもふの小狐コン太が鼻をピクピクさせて顔を出す。
「クゥ〜ン……? なんだか不思議な匂いだニャン。エミリアたんの汗のフェロモンが消えちゃうのは残念だけど、あのドブ臭さが消えたのは助かるニャン!」
「あんたは黙ってなさい! タマ抜き用のハサミ、タローマンで買ってもらうからね!」
「ヒエッ!? 命だけはご勘弁ニャンッ!」
その時だった。
エミリアの背後に直立していた『氷血公爵』ヴァルターが、音もなく一歩、前へと踏み出してきた。
その青い瞳は、エミリアに差し出された地球の除菌グッズなど一瞥もせず、ただひたすらにエミリアの後頭部――そして、彼女を庇うように立ち塞がった赤城鷹人の無骨な作業ジャケットだけを捉えていた。
――スッ……。
ヴァルターの手が、無表情のままスーッと伸びる。
エミリアの顎を掴み、再び【顔面距離三センチの顎クイ】を執行しようとする、狂乱の自動追尾ハンド。
だが――。
バシィッッッッ!!!!
乾いた鋭い音が、白亜の大通りに響き渡った。
ヴァルターの白皙の手首を、横から電光石火の速度で鷲掴みにし、空中でピタリと制止させた手があった。
油と煤にまみれ、古いワイヤー傷が刻まれた、赤城鷹人の頑強な左手だった。
左手首に巻かれた傷だらけの金属製腕時計が、カチリと硬質な音を立てる。
「…………ぬ?」
ヴァルターの氷のような青い瞳が、初めて微かに細められた。
帝国北部方面軍総司令官、単体戦闘力二百馬力超を誇る氷血公爵の腕力を、生体出力わずか一馬力のはずの人間の男が、ミリ単位のブレもなく真正面から受け止めていたのだ。
柔道の間合いと、全身の骨格連動による完全なる脱力ブロック。
鷹人は紫煙をくゆらせたまま、無精髭の口元をニヤリと吊り上げ、冷徹な視線で公爵の鼻先を睨み返した。
「おい、兄ちゃん」
ドスの利いた静かな低音が、公爵の至近距離に突き刺さる。
「ツラが良いのは結構だがよ……。レディのパーソナルスペースってもんを、少しは弁えな」
フゥーーッ、と吹きかけられた紙巻きタバコの紫煙が、公爵のプラチナシルバーの髪を冷たく揺らした。
現場の兄ちゃん・赤城鷹人と、ソーシャルディスタンス崩壊公爵ヴァルターの視線が、ゼロ距離で激しく火花を散らした。
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