第五章 悪臭の美都ムーンキャピタルと亡命令嬢エミリア
ニャングルの胃痛と、美の都「ムーンキャピタル」の噂
悪徳マルチ商法「ADP」の解体と、元被害者たちの手による東部幹線道路の開通工事から数日。
秋の冷涼な風が吹き抜けるポポロ村の広場は、朝から活気ある職人たちの声と、重機が大地を鳴らす頼もしい音で満たされていた。
村営アパート『ポポロ・コーポ』の駐車場前で、赤城鷹人は10トンダンプ(いすゞ・ギガ)のキャブを上げ、スパナを手にコンプレッサーのエアホースの接続部を締め直していた。
カチャリ、カン、と乾いた金属音が響く。
手入れの行き届いた直列6気筒ディーゼルエンジンは、埃ひとつなく鈍い鉄の光沢を放っている。
左腕の傷だらけの金属製腕時計に目をやると、時刻は午前九時十分。
「……よし。エア漏れもねぇな。いつでも長距離走れる状態だ」
鷹人はウエスで指先のグリスを拭い、作業ジャケットの内ポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、少し潰れた紙巻きタバコの箱。
一本を唇にくわえ、地球の百円均一ショップで買った安っぽい黄色いプラスチック製の使い捨てライターを構える。
親指の腹で、ヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
静かな朝の空気に、硬質で澄んだ金属の着火音が鋭く響き渡る。
揺れる小さな橙色の炎。
先端に火を移し、鷹人は肺の奥深くまで煙を吸い込んだ。
「…………ふぅーーーーっ」
秋晴れの空へと真っ直ぐ立ち上る、一筋の紫煙。
ツンとしたタバコの香りが、朝露に濡れた高原の空気を心地よく解きほぐしていく。
続けて鷹人は、胸ポケットから大粒の青森県産ニンニクを一片取り出すと、薄皮を剥ぎ、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
直火に炙られたニンニクの表面がパチパチと音を立て、香ばしい狐色に焦げていく。
立ち上る、ガツンと鼻腔を殴りつけるような濃厚なスタミナのアロマ。
鷹人はそれを前歯でカリッと噛み砕いた。
――シャクッ。
「ん。胃袋に芯が入ったぜ」
カッと五臓六腑が熱くなり、全身の血流が加速する。
短くなったタバコを携帯灰皿へねじ込んで蓋を閉めた、その時だった。
――ズリ……ズリ……ズリ……。
中庭の敷石を足の甲で引きずるような、今にも事切れそうな弱々しい足音が聞こえてきた。
「……あ?」
鷹人が振り返ると、そこにいたのは、いつもなら仕立ての良いミスリル和装スーツをビシッと着流しているはずの男――猫耳商人ニャングルだった。
だが、その姿は普段の威勢の良さなど見る影もなかった。
顔面はまるで腐ったキャベツのように青緑色に濁り、トレードマークの三角の猫耳は力なくペタンと倒れ、首から下げた純金算盤『十露盤』を杖のように地面へ突き立て、右手を腹へ当てて脂汗を流している。
「お、おい、ニャングル。……どうしたんだそのツラ。どこぞの山賊に内臓でも撃ち抜かれたか?」
「う、撃ち抜かれた方が……まだマシや……。胃が……ウチのデリケートな胃袋が、雑巾絞りみたいにキリキリ捩じ切れそうなんやぁ……!」
ニャングルは車止めの丸太へドサリと崩れ落ち、懐から取り出した天界指定医薬品の胃腸薬「ガスター・オメガ」の瓶から錠剤を三粒、水なしでガリガリと噛み砕いた。
「胃薬か。……お前、先週のマルチ商法の差押えで一億円の余剰金作って、ウハウハで高笑いしてたんじゃなかったのかよ」
「あんなんは過去の栄光や! 問題は……昨日から今朝にかけて行ってきた、あの忌々しい街との定期交易や……! 月の女神カグヤの直轄領、美の都『ムーンキャピタル』やぁぁッ!!」
ニャングルはキセルの吸い口をガリリと前歯で噛み鳴らし、血走った眼を剥いて吐き捨てた。
「あそこの担当、毎月ウチが自ら商談に行っとるんやがな……。行くたびに寿命が十年ずつ縮んどる気がするわ! 白亜の宮殿! クリスタルの噴水! 『全女性が息をするだけで溺愛される愛と美の都』やと!? 笑わせるなボケェッ! 中身はただの【地獄のドブ板スラム】じゃあぁぁッ!!」
「地獄のドブ板スラム? 都なんだろ?」
「表層(見た目)だけな! あそこを統治しとる月の女神カグヤの姉ちゃん、神界配信の『映え』と恋愛イベントのセット作りに予算の100%をブチ込んどるんや! その結果どうなっとると思う!? 街の地下に、一番作らなアカン【下水インフラ】が1ミリも存在せぇへんのや!!」
ニャングルの絶叫に、鷹人はピクリと眉根を寄せた。
「下水がない……? 数十万人が暮らす都市でか?」
「せや! 家庭や貴族の屋敷から出た汚水や汚物が、そのまま道路脇の側溝へダダ漏れの垂れ流しや! 真夏や秋口になったら、側溝の中で汚泥が発酵してボコボコ泡吹いとるんやぞ! ほんで、その猛烈なドブの腐敗臭をどうやって処理しとると思う!? 街角の街灯や噴水から、クソ高ぇ『高級香水』を霧吹きで四六時中ブチ撒けて誤魔化しとるんやぁぁッ!!」
「……おいおい」
鷹人は思わず額に手を当てた。
「下水と高級香水を1対1でブレンド……? そんなもん、消臭どころか化学兵器の毒ガスハザードじゃねぇか」
「まさにそれや! 吸い込んだ瞬間、鼻の粘膜がチリチリ焼けて、頭蓋骨の裏側がシェイクされるような【致死性のスメルハザード】や! 商談で街に入るたび、ウチは防毒マスク二重に着けてんのに、帰ってきたらスーツから下水と薔薇の混ざった地獄の臭いが取れんで三日は吐き気で飯が食えんのじゃぁぁッ!!」
ニャングルは頭を抱えて激しく呻いた。
「しかも狂っとるんは衛生環境だけやない……! 街の貴族どもの頭のネジまで全部弾け飛んどるんや! 特に帝国北部方面軍総司令官の『氷血公爵』ヴァルター! あの銀髪のイケメン、カグヤの仕組んだ『強制溺愛プログラム』のせいでソーシャルディスタンスの概念が完全に粉砕されとる! 先週なんか、商談の途中で広場を見たら、転生者の令嬢エミリアはんの顔面2センチの距離に無言で詰め寄って、15分間『顎クイ』の体勢でピタリと静止しとったんやぞ!!」
「……顎クイで、顔面2センチ?」
「せや! 愛の囁きちゃう、ただの公道における不審者ストーカー事案やろがい! エミリアはんが恐怖で半泣きになりながら『離れて! あとこの街臭い! バキュームカー呼んでぇ!』って叫んどるのに、公爵は無表情のままジリジリ間合い詰めて息吹きかけとるんや! ワシの頭の算盤の珠が全部粉々に弾け飛んだわ! あんな狂気の街、もう二度と足を踏み入れたくもないんやぁぁッ!!」
ニャングルが涙目で地面を叩いた、その時だった。
――タッカッ、タッカッ、タッカッ。
小気味よい足音とともに、アパートの角から月兎族の新村長・キャルルが姿を現した。
足元にはタローマン特注の耐魔高反発安全靴。オーバーサイズのパーカーの胸元で人参柄刺繍ハンカチを揺らしながら、手には一枚の真っ赤な非常連絡書を握りしめている。
「ニャングル! 鷹人さん! 大変だよっ!」
「キャルル、今度は何や……。ウチはもう、ムーンキャピタルの名前を聞くだけで胃壁に穴が開きそうなんやが……」
「そのムーンキャピタルから、緊急の亡命要請が入ったの! 公爵様の異常な付きまといと街の悪臭に耐えかねた転生令嬢のエミリアさんが、夜逃げ脱走を決行して、いま街道をこのポポロ村へ向かって爆走中なんだって!」
「なんやてぇぇぇッ!?」
ニャングルの猫耳が跳ね上がった。
「しかもね、追っ手として氷血公爵ヴァルター様率いる北部軍の精鋭騎士団が、全力で追いかけてきてるらしいの! このままじゃ、村の入り口で大乱闘になっちゃうよぉ!」
「……なるほどな」
鷹人は短く息を吐き出すと、ダンプのサイドステップへドカリと足をかけた。
作業ジャケットの袖を捲り上げ、左腕の無骨な金属製腕時計のバックルをカチリと締め直す。
「欠陥だらけのインフラに、顔面2センチで迫るストーカー公爵か。……ずいぶんと現場の安全管理が狂った街があるもんだな」
「鷹人はん……まさか、行く気ぃか?」
「困ってるレディが逃げてきて、それを追う厄介な現場があるなら、筋を通してやるのが現場監督の仕事だろ。……それに」
鷹人はニヤリと無精髭の口元を吊り上げ、頭の中のユニークスキル【リサイクルマスター】の資材リストを脳裏に思い浮かべた。
現在、手元にあるスクラップPtは、先の道路開通で獲得した【137,600 Pt】という天文学的な残高だ。
「下水が詰まって悪臭が立ち込めてんなら、地球の土木屋が使う【本物の衛生設備】をぶち込んで、丸ごと大改修してやりゃあいいだけだ」
「ほんまか鷹人はん!? あのドブと香水の悪夢を、物理で消し去れるんか!?」
「段取り八分、仕事二分だ。……おい、ニャングル、村長。ダンプの荷台に乗れ。逃げてくる嬢ちゃんを迎えに行くぞ」
鷹人がスタータースイッチをカチリと捻ると、10トンダンプの巨体が、大地を揺るがす直噴ディーゼルの重低音を轟かせて目を覚ました。
美の都「ムーンキャピタル」の腐敗したインフラを叩き直す、赤城鷹人の次なる突貫現場仕事が、力強く幕を開けた。
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