EP 2
ヒモニートの狼王フェンリルと、不死鳥母子の家庭事情
翌朝、東の山並みから差し込む柔らかな陽光が、ポポロ・コーポの木造モルタルの外壁を白く照らし出していた。
鳥のさえずりと、遠くの畑から聞こえる長閑な牛馬の声。
管理人室の畳の上で、赤城鷹人は午前六時きっかりに目を覚ました。
自衛隊時代に骨の髄まで叩き込まれた体内時計は、どんな異世界の僻地に放り出されようと狂うことはない。
布団を畳んで部屋の隅に片付け、洗面所で顔を洗うと、いつもの作業ジャケットに袖を通す。
縁側の引き戸を開け、冷涼で澄み切った高原の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ふぅ。いい朝だな」
ポケットから紙巻きタバコを取り出し、唇にくわえる。
安っぽい黄色いプラスチック製の百円ライターを取り出し、親指の腹でヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
静かな朝の空気に、硬質な金属の着火音が鋭く響き渡る。
先端に灯った橙色の炎で火を吸い付け、深く煙を吸い込んだ。
「…………ふぅーーーーっ」
青空へと真っ直ぐ立ち上る、一筋の紫煙。
昨晩の竜王デュークとの豚骨ラーメン騒動の脂っこさも、朝の一服で綺麗にリセットされていく。
左腕の金属製腕時計をカチリと締め直し、鷹人は管理人としての朝の巡回に出発した。
だが――男子棟の一階廊下に足を踏み入れた瞬間、その平穏はあっけなく粉砕された。
◆
――ズジャジャジャジャッ! キュインキュインキュインッ!!
男子棟102号室のドアの向こうから、鼓膜をつんざくような電子音と、大音量の軍艦マーチ風ファンファーレが鳴り響いていた。
『フィーバー! 確変大当たり確定! 超絶ラッシュ突入だぜぇぇぇッ!!』
機械仕掛けのハイテンションな合成音声とともに、廊下の床がビリビリと振動している。
そのドアの前には、何十枚もの赤い羊皮紙――『家賃最終通告書』『即時退去勧告』『ルナPay滞納金一括請求』が隙間なく貼り付けられていた。
さらに、木製のドアの中央には、以前誰かに巨大な杭でぶち抜かれたような生々しい亀裂が走り、蝶番が歪んで斜めに傾いている。
「……おいおい。朝の六時からパチンコ屋の開店待ちみたいな爆音だな」
鷹人が呆れ顔で紫煙を吐き出していると、背後から地響きのような猛烈な足音が迫ってきた。
――ドスドスドスッ! ガギィィィンッ!
「出迎えご苦労であります、鷹人殿ぉぉぉッ!!」
廊下の角を曲がって突進してきたのは、自警団長マンミアだった。
背中には巨大盾『アグニ』を背負い、筋骨隆々たる四肢の蹄で床板を踏み鳴らしている。
鷹人と目が合った瞬間、褐色の頬をボッと音を立てて朱に染め、馬の耳を恥ずかしそうにパタパタと羽ばたかせた。
「あ、あの……た、鷹人殿! 昨晩は……私の部屋の真下で……あ、温かな夜を過ごされたのでありましょうか……!?」
「ああ、おかげさまでぐっすり眠れたぜ。……ところで団長さん、この部屋は何だ?」
鷹人が顎で102号室をしゃくると、マンミアの表情が一瞬で般若のような怒りへと一変した。
「102号室の駄犬! 狼王フェンリルであります! 家賃を三ヶ月滞納したまま、部屋に引きこもって魔導パチンコ台の爆音を撒き散らしている不届き者です! 鷹人殿、下がっていてください! 今度こそ、この『アグニ』のパイルバンカーでドアごとあの自堕落な毛玉を串刺しにして差し上げますッ!!」
ガチャン! とパイルバンカーの極太シリンダーが撃発位置にロックされる。
だが、鷹人は慌てず、マンミアの肩にポンと手を置いて制した。
「待て待て、団長さん。建具をぶっ壊したら、直すのは管理人(俺)の仕事になっちまう。現場の器物破損は一番コストがかかるんだよ」
「う……! し、しかし、呼んでも絶対に居留守を使うのであります!」
「鍵が開かないなら、段取り通りに開ければいいだけだ」
鷹人は作業着のポケットから一本の細いピアノ線とマイナスドライバーを取り出すと、歪んだ鍵穴へと差し込んだ。
自衛隊の工作部隊時代、陣地侵入訓練で叩き込まれたピッキング技術。
カチッ、コリッ、ガコン。
わずか三秒。
安っぽい真鍮の鍵が小気味よい音を立てて解除された。
さらに鷹人は、立て付けが悪くなって軋んでいたドアの下部に足の爪先を差し入れ、テコの原理でグイッと持ち上げながら静かに引き開けた。
◆
――ガラリ。
部屋の中に広がっていたのは、まさに「絵に描いたようなクズの巣窟」だった。
散乱するタローソンの見切り品弁当の空き容器、転がる空の酒瓶、そして部屋の中央に置かれた派手なネオンが点滅する魔導パチンコ卓。
その前の万年床の上で、一人の青年が寝転がり、携帯型の魔導端末をいじりながらだらしなくあくびを噛み殺していた。
青年の容姿は、息を呑むほどの絶世の美貌だった。
月光を溶かしたような艶やかな銀髪に、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳。頭部からは狼特有の尖った獣耳が生え、彫刻のように引き締まった見事な体躯。
だが、身につけているのはヨレヨレのスウェットパンツ一枚。
神話の時代に世界を凍土に変えかけた孤高の絶対強者――狼王フェンリルの、あまりにも情けない現代の成れの果てだった。
「あぁん? 誰だよ、勝手に鍵開けて入ってきて……」
フェンリルは気だるげに寝返りを打つと、マンミアの姿を認めてヘラリと甘ったれた笑みを浮かべた。
「なんだぁ、マンミアちゃんかぁ〜。家賃の催促? いや参ったよ、昨日帝都のパチンコ屋で確変引いたんだけどさ、隣の席のババアに運気を吸われて全ノマレしちゃってさぁ〜。手持ちが銀貨二枚しかないんだよねぇ。来週! 来週絶対に万発出してまとめて払うから、今月も見逃してよぉ〜、ね?」
甘え上手な野性味を全開にし、上目遣いでマンミアにウインクを投げるフェンリル。
帝都の裕福な未亡人や貴族令嬢なら、これだけで財布の紐を全開にしてしまう魔性のヒモ仕草だ。
だが、マンミアの額にはブチブチと青筋が浮かび上がっていた。
「き、貴様という奴はぁぁぁッ! 先月も先々月も同じ言い訳をしたではないか! 今年で二十五歳、独身の私が汗水垂らして村を守っているというのに、なぜ神話の獣が白昼堂々とヒモ生活を満喫しているのだぁぁッ!!」
「え〜、だって働くのダルいしぃ。世の中の女はみんな俺に養われたがってるんだから、需要と供給が一致してるじゃん?」
ケラケラと笑うフェンリル。
その自堕落極まるやり取りを、鷹人は腕を組みながら冷徹な眼差しで見つめていた。
「……なるほどな。ツラと図体は一級品だが、魂の強度がペラペラの産業廃棄物か」
「あぁん? なんだてめぇは」
フェンリルが眉をひそめ、鷹人を睨みつけた。
生体出力1馬力、煤けた作業着を着た人間の男。神話の狼王からすれば、小指の先で吹き飛ばせる羽虫に過ぎない。
フェンリルの瞳に、微かな冷気の闘気が宿る。
「作業着の兄ちゃんが、偉そうに俺の部屋に土足で踏み込んでんじゃねぇよ。凍りつきてぇのか?」
「脅すなよ、色男」
鷹人は眉ひとつ動かさず、作業着の内ポケットからタバコの箱を取り出した。
一本を唇にくわえ、安っぽい黄色い百円ライターを構える。
親指でヤスリを弾く。
――カチッ、シュボッ。
フェンリルの放つ冷気を切り裂くように、橙色の火が灯った。
先端に火を移し、鷹人は深く煙を吸い込む。
「…………ふぅーーーーっ」
青白い紫煙が、散らかった部屋の空気をゆっくりと塗り替えていく。
紫煙の向こうから、鷹人はドスの利いた静かな声音を響かせた。
「今日からこのポポロ・コーポの管理人になった赤城鷹人だ。……世の中にどんな生き方があろうと勝手だがな、他人の敷居を踏み荒らして家賃を踏み倒すクズを野放しにするほど、俺はお人好しじゃねぇんだよ」
「はっ! 管理人だぁ? たかが人間の分際で――」
フェンリルが立ち上がり、威嚇しようと一歩踏み出した瞬間だった。
――ガシィッ!
「……へ?」
鷹人の左手が、電光石火の速度でフェンリルの手首を掴んでいた。
無駄な力みが一切ない、脱力からの完璧な関節ロック。
自衛隊徒手格闘と実戦MMAで培われた重心支配――フェンリルが闘気を込めるよりもコンマ数秒早く、鷹人はフェンリルの肘の腱と手首を『五輪書』の理合に基づき、最小の力で極めきっていた。
ミシミシッ!
「痛っ……!? な、なんだこれ、力が入らねぇ……!?」
「腕力に頼るな色男。てめぇの重心は爪先に偏りすぎてんだよ。……現場のルールを教えてやる。壊れた部屋の建具は直す。だが、溜まった家賃の分は、キッチリ体で払ってもらうぜ」
鷹人はフェンリルの手をパッと離すと、頭の中のユニークスキル【リサイクルマスター】を軽く展開した。
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【所持スクラップPt:30,165 Pt】
・カタログ選択:【建設現場廃棄建材・防錆潤滑剤カテゴリー】
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(地球の解体現場から引き上げた高強度ステンレス蝶番二組、防錆潤滑スプレー缶、建築用隙間充填パテ……消費ポイント、わずか5Pt)
――ヒュンッ!
鷹人の手元に、新品同様の工具と資材が出現した。
鷹人は充電式電動ドライバーを手に取ると、マンミアがぶち破った102号室のドアの蝶番を一瞬で外し、ステンレス蝶番を水平器に合わせてガチガチと締め直した。
さらに軋んでいた鍵穴とラッチに防錆潤滑スプレーをプシューッと吹き付け、ドアの開閉を確かめる。
――スーッ、カチャリ。
指一本で吸い込まれるように閉まる、完璧な建て付け。
「す、すごい……! あんなに歪んでいたドアが、新品のように滑らかに……!」
マンミアが目を輝かせる横で、鷹人はフェンリルの胸元をトンと指差した。
「修理完了だ。……おい、狼の兄ちゃん。今日の午前中、アパート全域の共用廊下のモップがけと、ゴミ集積所の分別作業をやってもらうぞ。サボったら、隣のデュークの親方に頼んで、寸胴の骨砕きハンマーで尻を叩いてもらうからな」
「ひ、ヒエッ……! あのラーメン親父だけは勘弁してくれよ……!」
デュークの名を出された瞬間、フェンリルは耳をペタリと伏せて震え上がった。
◆
その時だった。
「キャァァァァァッ! 誰かぁぁぁッ! ヒエンを止めてぇぇぇッ!!」
中庭を挟んだ向かい――女子棟の一階から、悲痛な叫び声が響き渡った。
続けて、男子棟の二階階段をドカドカと駆け下りてくる乱暴な足音。
「うるせぇぇぇッ! 母ちゃん、俺は忙しいんだよ! 朝飯なんか食ってる暇ねぇっつってんだろ!!」
階段から飛び出してきたのは、身の丈百八十センチほどの引き締まった体躯を持つ赤髪の青年だった。
煤と火の粉で焦げた厚手の革エプロンを身につけ、背中には一振りの大槌を背負っている。男子棟201号室の住人にして、ポポロ村で工房を構える半神の鍛冶青年――ヒエン(二十歳)である。
そのヒエンの腕に、涙目でしがみついていたのは、女子棟101号室からエプロン姿で飛び出してきた美女だった。
燃え盛る篝火を思わせる艶やかな紅蓮の長髪に、慈愛に満ちた黄金の瞳。
だが、その絶世の美貌とは裏腹に、目の下にはどす黒いクマが刻まれ、顔色は幽鬼のように青ざめている。
太古の大戦を調停し、かつてルナミス帝国の建国帝・佐藤太郎の妻として帝国を支えた神話の絶対存在――不死鳥フレア(実年齢:数千歳)だった。
「お願いだから食べてヒエン! 朝から何も口にしないで鉄を叩いたら倒れちゃうわ! お母さん、タローマートの特売卵で一生懸命オムレツ焼いたのよ! ちょっと焦げちゃったけど、ケチャップいっぱいかければ食べられるからぁぁッ!」
フレアが震える手で差し出した皿の上には、炭鉱の石炭と見紛うばかりの、真っ黒に炭化した物体が転がっていた。
「焦げたなんてもんじゃねぇだろ! 完全に炭化して煙吹いてんじゃねぇか! 母ちゃんは火加減の加減を知らねぇんだよ! 俺は今日、ドワーフ鉱山へ納品するミスリル鋼の検品があるんだ! 遅刻したら契約解除になんだよ、離せぇッ!」
「嫌よ離さないわ! ああ太郎ぉぉ……! 天国の太郎ぉぉッ! あなたの息子が反抗期でご飯を食べてくれないのよぉぉッ! 私もう限界、ワンオペ育児で灰になって燃え尽きそうよぉぉぉッ!!」
ヒエンの腰に抱きつき、中庭の芝生の上で号泣する不死鳥の母。
振り払おうと必死にもがく息子。
朝から繰り広げられる地獄の家庭崩壊コントに、マンミアは額を押さえてため息をついた。
「ああ……フレア殿の過労パニックが、また始まってしまったであります。大陸中の魔獣の間引き公務に追われ、息子の朝食作りで徹夜し、限界を迎えるといつもあのように天国の先代皇帝へ泣きつくのであります……」
「……なるほどな」
鷹人はタバコを携帯灰皿へねじ込んで揉み消すと、億劫そうに首の骨をゴキリと鳴らした。
「空腹のまま現場に入れば、集中力が切れて大怪我をする。かといって、炭化した卵を食えば胃腸を壊す。……現場監督として、見過ごせねぇ状況だな」
鷹人は大股で中庭へ歩み寄ると、もみ合う母子の襟首を、左右の手で同時にガシッと掴み上げた。
「お、おい! なんだてめぇは!」
「きゃあっ!? だ、誰なの!?」
「二人とも、朝からピーチクパーチクと騒ぐな。現場の士気が下がるぜ」
鷹人のドスの利いた静かな声音に、ヒエンとフレアが思わず息を呑んで口を噤んだ。
「おい、鍛冶屋の若造。飯も食わずに現場に出て、熱中症でハンマー落として足を砕くのが一番みっともねぇぞ。……それから母ちゃん。愛情は立派だが、焦げた炭を食わせるのは育児じゃなくてただの兵糧攻めだ」
「う、ぐ……!」
「だ、だって……私、火の鳥だから……火力を弱めるのが苦手で……」
しょんぼりと肩を落とす不死鳥ママ。
鷹人はニヤリと無精髭の口元を吊り上げ、作業ジャケットの袖を捲り上げた。
「十五分だ。十五分で、現場の職人が一発で目を覚ます極上の朝飯を作ってやる。……二人とも、共同食堂の席に座って待ってな」
◆
一階の共同食堂の厨房に、鷹人は立った。
ドンガン製の黒皮鉄板コンロに火をつけ、鷹人は頭の中のスキルカタログを呼び出す。
――――――――――――――――――――
【所持スクラップPt:30,160 Pt】
・カタログ選択:【流通廃棄食材・規格外品カテゴリー】
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(地球の市場で規格外になった大玉の青森県産ニンニク、賞味期限直前の平飼い有精卵パック、炊きたての新潟産コシヒカリのデッドストック保温米、厚切り豚バラ肉……消費ポイント、たったの30Pt)
――ヒュンッ!
調理台の上に、純白の大玉ニンニクと、黄金色の黄身を持つ新鮮な卵、そしてツヤツヤと湯気を上げる白飯が出現した。
「さてと……まずは、現場の目覚ましだ」
鷹人は大粒のニンニクを三粒手に取ると、薄皮を素早く剥ぎ、あの黄色い百円ライターを取り出した。
親指の腹でヤスリを弾く。
――カチッ、シュボッ。
静かな厨房に、硬質な着火音が響く。
揺れる小さな橙色の炎。鷹人は剥きたてのニンニクの先端に、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
直火に炙られたニンニクの表面が、パチパチと音を立てて香ばしい狐色に焦げていく。
滲み出る濃厚な植物油のエキス。
直後、朝の冷気を一瞬で吹き飛ばすほどの、猛烈に香ばしい焦がしニンニクのアロマが食堂全体へ爆散した!
「うわぁ……! な、何この匂い……!? すっごく香ばしい……!」
食堂のテーブルで待っていたフレアが、目を丸くして鼻をヒクつかせた。
ヒエンもまた、空腹を刺激されて喉をゴクリと鳴らす。
鷹人は炙ったニンニクを包丁の腹でバチン! と叩き潰し、粗みじんに刻む。
熱した鉄板にラードを引き、スライスした豚バラ肉とニンニクを一気に投入した!
――ジュウウウウウウウウッッッッ!!!!
立ち上る暴力的なまでのスタミナの香気。
肉の表面がカリッと香ばしく焼き上がったところで、地球の特選醸造醤油とみりん、粗挽き黒コショウをジャッと回し入れ、一気に焦がしダレを絡める。
続けて、鉄板の空いたスペースに有精卵を割り落とし、白身のエッジがカリカリになる絶妙な半熟目玉焼きを焼き上げた。
丼に盛った熱々の白飯の上に、甘辛いタレを纏った豚バラ肉と炙りニンニクを敷き詰め、その頂点にプルプルの半熟目玉焼きをドカリと乗せる。
仕上げに青ネギを散らせば――現場特製『焦がしニンニク豚バラ目玉焼き丼』の完成だった。
「ほらよ。伸びねぇうちにガツガツ食いな」
鷹人は湯気を立てる丼を、ヒエンとフレア、そして廊下から物欲しそうに覗いていたフェンリルとマンミアの前へドン! ドン! と置いた。
「い、いただきます……!」
ヒエンが箸を取り、半熟の黄身をぷすりと割った。
トロリと流れ出す濃厚な黄金の黄身が、焦がしニンニク醤油を纏った豚バラ肉と絡み合い、ご飯へと染み込んでいく。
そのまま一気に口の中へ掻き込んだ。
「――っっっ!?!?!?」
ヒエンの全身が硬直した。
目を限界まで見開き、咀嚼するごとに顔が紅潮していく。
「う、うんめぇぇぇぇぇッッッッ!!!! なんだこれ!? 豚の脂の甘みと、直火で炙られたニンニクの香ばしさが……ガツンと脳天を殴ってくる! タレが染みた飯と、トロトロの黄身が絡んで……箸が止まらねぇぞ!!」
ヒエンは猛烈な勢いで丼をかき込み始めた。
一方、フレアも震える手でスプーンを口に運んだ。
「はふっ……んんぅぅっ! おいしい……! 体に……疲れ果てていた体に、温かい命の火が灯っていくみたい……! 太郎……太郎が昔作ってくれた、あの泥臭くて温かい男の手料理の味がするわぁぁぁッ!!」
フレアの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ち、真っ白だった頬に、見るみるうちに健康的な桜色が戻っていく。
フェンリルも丼を抱え、「兄ちゃん……! 俺、モップがけ頑張る! ゴミ出しも全部やるから、毎朝これ食わせてぇぇ!」と涙目で貪り食い、マンミアに至っては「んぐっ、んんぅ……♡ 鷹人殿の朝の活力……私の胃袋に……染み渡るであります……ッ!」と馬尾を激しく回転させていた。
あっという間に、全員の丼が米粒一つ残さず空になった。
◆
「ごちそうさまでした!」
丼を置いたヒエンは、すっかり血色を取り戻した精悍な顔つきで立ち上がった。
背中の大槌を握り直す。
「母ちゃん、行ってくる! ドワーフの鉱山へ、最高のミスリル鋼を届けてやるよ!」
「いってらっしゃいヒエン! 気をつけるのよ!」
笑顔で手を振るフレア。
先ほどまでの家庭崩壊の危機が嘘のように、温かな親子の絆が中庭に戻っていた。
その瞬間――ピロリン♪ と鷹人の頭の中に軽快な電子音が鳴り響いた。
『善行を検知しました』
『事象:住人の生活環境改善(建具修繕)および過労住民・若手職人への完全栄養支援』
『判定:アパートの平穏と家庭の調和を守る、誠実な管理人業務』
『スクラップPt +1,200Pt を獲得しました』
(よしよし、いい稼ぎだ)
鷹人は胸の中で小さく笑った。
所持ポイントは【31,330 Pt】。困っている住人を助け、美味い飯を食わせるだけでポイントが積み上がっていく。これほどやり甲斐のある現場はない。
ヒエンを見送り、フレアが深々と頭を下げてきた。
「鷹人さん、本当にありがとうございました。……夫を亡くしてから、ずっと一人で空回りばかりで……こんなに清々しい朝は、何十年ぶりかしら」
「気にすんな母ちゃん。困った時はお互い様だ。……さて、フェンリルの兄ちゃん」
鷹人が振り返ると、モップを構えたフェンリルがピシッと直立不動の姿勢を取った。
「へ、へい! 管理人さん! 男子棟の一階から三階まで、鏡みたいにピカピカに磨き上げてきやす!」
「よし、頼んだぞ。団長さん、監督頼むな」
「了解であります、鷹人殿! この駄犬がサボらぬよう、パイルバンカーの照準を固定して監視いたします!」
中庭に響く笑い声。
鷹人は濡れ縁に腰を下ろし、再び新しいタバコを取り出した。
親指でヤスリを弾く。
――カチッ、シュボッ。
朝の光の中に揺らぐ橙色の炎。
紫煙をゆっくりと吹き出しながら、鷹人はポポロ山の雄大な景色に目を細めた。
「言葉が通じなくても、拳と美味いメシ、あとはエンジン音があれば世界中どこでも生きていける」
カオスすぎる住人たちに囲まれた、現場の兄ちゃんの異世界生活。
その賑やかな現場の歯車は、今日も心地よい音を立てて回り始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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