第二章 カオス住人との日常と偽装武器商法粉砕
深夜の豚骨騒音と、頑固ラーメン屋の竜王デューク
山賊団『赤砂の牙』との激闘を終え、ポポロ・コーポ中庭での歓迎ニンニク鍋の熱気も冷めやらぬまま、限界集落ポポロ村は深い夜の静寂へと沈んでいた。
新しくあてがわれた管理人室の小上がりで、赤城鷹人は畳の上に敷いた布団に身を横たえていた。
使い込まれた作業着を脱ぎ、ラフなTシャツとカーゴパンツ姿。枕元には、傷だらけの金属製腕時計と、いつもの紙巻きタバコ、そして黄色い百円ライターが整然と置かれている。
左腕の腕時計が刻む針の音だけが、チクタクと静かに部屋を満たしていた。
時刻は午前二時十五分。
異世界に召喚され、ハズレスキルと罵られて大聖堂を追い出され、荒野で山賊を解体し、一晩で水道管と防壁を敷設した過酷極まりない一日だった。
どれほど頑強な肉体を持つ鷹人でも、現場の疲れを癒やす深い眠りへと落ちていくのは当然の道理――のはずだった。
――ズズズズズ……ゴポゴポゴポッ……!
微かな地鳴りのような重低音が、部屋の畳を震わせた。
続けて、木造モルタルの壁の隙間から、ツンとした刺激が鼻腔の奥を鋭く突いた。
「……ん?」
鷹人は暗闇の中でパチリと目を開けた。
自衛隊の工作部隊時代、敵の接近や重機の異常振動を一瞬で察知するために叩き込まれた野生の嗅覚が、即座に覚醒する。
鼻を突いたのは、火薬でも血の匂いでもなかった。
強烈極まりない、超濃厚な「獣の骨と脂の煮沸臭」――そう、豚骨スープの匂いだ。
それも、地球の並大抵のラーメン屋が炊き出すようなレベルではない。何百頭もの凶暴な魔獣のゲンコツと背ガラを、巨大な高圧窯に力任せにぶち込んで三日三晩煮崩したかのような、嗅いだだけで血管がミシミシと音を立てそうなほどのド級の獣脂臭だった。
――ゴポォッ! ボコボコボコッ!
――ドォォォンッ! ガガガガッ!
音と匂いの発生源は、廊下を挟んですぐ隣――男子棟の一階・101号室だった。
換気扇から吹き出す猛烈な白煙が、廊下の窓を真っ白に染め上げている。
その直後だった。
ドガガガガガガガッ!!
頭上の二階――201号室の床が、激しく踏み鳴らされた。
「うるせぇぇぇぇぇッ!! 親父ぃ! 夜中の二時に寸胴かき混ぜるんじゃねぇよ!! 獣脂の煙が床板の隙間から上がってきて部屋中ギトギトなんだよぉぉッ! 明日朝からドワーフの鉱山へ納品する剣を打たなきゃならねぇんだぞ!!」
鍛冶青年ヒエンの悲痛な怒号が響き渡り、続いて二階の壁をハンマーで叩くようなガンガンという音が木霊した。
だが、101号室からは「フンッ」という鼻を鳴らす重低音が返ってきただけで、骨を砕く作業音は一向に止む気配がない。
「……やれやれ。初日から現場の夜間トラブルかよ」
鷹人は頭を掻きながら布団から起き上がると、作業ジャケットを羽織り、安全靴の踵を踏みながら管理人室の引き戸を開けた。
キャルル村長から預かった管理人としての職務――「住人たちの設備と生活の維持」。
近隣トラブルの仲裁もまた、現場監督の立派な仕事の内だった。
◆
白煙が立ち込める薄暗い廊下を進み、鷹人は101号室の重厚な鉄扉の前に立った。
扉の隙間からは、熱帯のサウナを思わせる熱気と、猛烈な豚骨の蒸気が漏れ出している。
コンコン、と拳でノックする。
「おい、101号室の親方。夜分にすまねぇな」
返事はない。ただ、寸胴をかき混ぜる巨大な木櫂の水切り音だけが響いている。
鷹人はドアノブに手をかけ、横にガラリと引き開けた。
――カァァァッ!
吹き出してきた白煙と熱波の奥、六畳ほどの土間スペースの中央に、その「偉容」は鎮座していた。
人間が丸ごと五人は入れるような、超巨大な鋳鉄製の寸胴鍋が二基。
その下では、ポポロ山の高純度石炭と魔導バーナーが青白い業火を吹き上げ、寸胴の中の乳白色の液体を狂ったように煮えたぎらせている。
そして――寸胴の前に立っていたのは、身の丈二メートル半を超える筋骨隆々たる巨漢だった。
浅黒い肌の全身には無数の歴戦の刀傷と、赤黒く硬質な竜鱗。頭部からは天を衝く二本のねじれた角が伸び、筋骨の塊のような太い両腕には、血管が這うように浮き出ている。
着ているのは、すすけた黒い厨房前掛け一枚。
口には極太の葉巻をくわえ、琥珀色の双眸は、ただひたすらに寸胴の中の白濁したスープだけを睨みつけていた。
神話の竜王――屋台『竜の髭』の店主、デュークである。
かつて太古の神蟲魔大戦において世界を灰燼に帰しかけ、現代では「魂の一杯」を求めて夜な夜な豚骨を炊き続ける、孤高の暴君。
普通の人間の兵士であれば、この部屋に足を踏み入れた瞬間に放たれる圧倒的な「竜気」だけで失神するか、膝をついて命乞いをするレベルの圧迫感だった。
だが――。
「……すげぇ火力だな。家庭用のコンロの配管規格を完全に無視してやがる」
鷹人は眉ひとつ動かさず、むしろ感心したように配管とバーナーの継ぎ目を観察していた。
デュークがギロリと、獲物を引き裂く猛獣の瞳で鷹人を射抜いた。
くわえた葉巻から、紫煙がボッと音を立てて噴き出す。
「……小僧。貴様が、今日から管理人室に入ったという異界の人間か」
腹の底を直接揺さぶるような、低く重い地鳴りの声。
「我の聖域に無断で立ち入るとは、命知らずにも程がある。……二階の鍛冶小僧の泣き言を代弁しに来たのなら、失せろ。このスープの炊き出しを止めることは、何者にも許されん。邪魔立てするならば、骨ごと寸胴の出汁にしてくれるぞ」
殺気混じりの恫喝。
だが、鷹人はやれやれと肩をすくめると、作業ジャケットの内ポケットへ無造作に手を差し入れた。
取り出したのは、少し潰れた紙巻きタバコの箱。
一本を唇にくわえ、安っぽい黄色いプラスチック製の百円ライターを構える。
親指の腹で、ヤスリを無造作に弾いた。
――カチッ、シュボッ。
煮えたぎる寸胴の轟音の中、硬質な金属の着火音が鋭く空間を切り裂いた。
揺れる小さな橙色の炎。
先端に火を吸い付け、鷹人は肺の奥深くまで煙を吸い込む。
「…………ふぅーーーーっ」
吐き出された一筋の紫煙が、濃密な獣脂の湯気を割り、デュークの葉巻の煙と空中で静かに交錯した。
ツンとしたタバコの香りが漂う中、鷹人は紫煙の向こうから、平然とした目で巨大な寸胴を見据えた。
「脅すなよ、オヤジ。俺は文句を言いに来たんじゃねぇ。現場の安全管理と、段取りの確認に来ただけだ」
「なに……?」
「このアパートの排気ダクトは、ドンガン製の集中換気システムを使ってる。だが、オヤジの部屋の換気扇のダンパー(風量調整板)が油カスで固着して、風が全部真上の201号室の床下へ逆流してんだよ。……あれじゃヒエンの兄ちゃんが燻製になっちまうのも無理はねぇ」
鷹人は工具箱から一本のマイナスドライバーを取り出すと、換気扇の枠のネジをカチカチと緩め、固まっていた金属板の引っ掛かりを器用に手探りで外した。
直後、ゴォォォッ! と心地よい排気音が響き、室内に滞留していた猛烈な白煙が、勢いよく屋根の上の排気煙突へと吸い込まれていく。
「よし、これで上へ煙が抜けることはねぇ。……で、オヤジ」
鷹人はタバコの灰を携帯灰皿へトントンと落とすと、寸胴の縁を覗き込んだ。
「そのスープ、ずいぶんと難航してるみたいだな」
デュークの琥珀色の瞳が、微かに揺れた。
何千年も生きてきた神話の竜王の眉間に、深い職人の苦悩が刻まれている。
「……貴様に何が分かる」
「分かるさ。機械の油圧ラインも、スープの炊き出しも、根っこの物理法則は同じだ。火力を上げすぎて乳化が限界を超えてる。骨の髄のコラーゲンは溶け出してるが、動物性の重すぎる脂が膜を張って、全体の対流を止めてんだよ。……コクはあるが、一口飲んだら舌が麻痺して、後味がドロドロに残るだろ、それ」
「――ッ!?」
デュークは息を呑んだ。
図星だった。
ここ数週間、屋台で客に出すたびに「旨いが、最後までは飲み干せない」と残される理由――その原因を、この二十五歳の作業着の若造が一目で見抜いたのだ。
「……小僧。一杯、飲んでみろ」
デュークは無言で黒いすり鉢状の丼を取り出すと、柄杓で寸胴の底からスープをすくい、湯切りした自家製の極細ストレート麺の上へ注いだ。
具材は薄切りのチャーシューと青ネギのみ。
鷹人の前へ、ドン! と置かれたその一杯は、まるで溶岩のように濃厚な琥珀色の脂泡を浮かべていた。
鷹人は箸を取り、まずレンゲでスープを一口啜る。
ズズッ……。
「……なるほどな」
圧倒的な質量。何十頭もの魔獣の骨から抽出されたエキスは、まさに神話級の旨味の塊だ。
だが、鷹人の指摘通り、獣脂の暴力的な重さが舌の上にベッタリとへばりつき、喉を通るたびに重厚すぎる油膜が胃袋へズシリと圧をかけてくる。
「不味くはねぇ。素材の力は超一級品だ。……だがオヤジ、このラーメンに足りねぇのは『潤滑油』だ」
「潤滑油だと……? 何を足せばいいというのだ。これ以上のスパイスは、骨の香りを殺すだけだぞ」
鷹人はニヤリと無精髭の口元を吊り上げ、作業ジャケットの胸ポケットへ手を伸ばした。
「オヤジ、このラーメンに――『炙りニンニク』を入れていいか?」
◆
「……ニンニクだと?」
デュークは怪訝そうに額にシワを寄せた。
「生のニンニクなど、以前試したことがある。だが、生の刺激臭とエグみが強すぎて、我がスープの繊細な獣骨の甘みを完全に破壊したわ」
「生で入れるから失敗するんだよ。現場の素材ってのはな、適切な下処理と熱を加えてやって初めて、真価を発揮するんだ」
鷹人は意識を研ぎ澄まし、頭の中のユニークスキル【リサイクルマスター】を軽く起動した。
――――――――――――――――――――
【所持スクラップPt:30,175 Pt】
・カタログ選択:【流通廃棄品・規格外産地直送食材】
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(地球の青森県産・最高級福地ホワイト六片の規格外大玉ニンニク、消費ポイント:10Pt)
――ヒュンッ。
鷹人の手のひらに、拳骨ほどもある純白の丸々とした大玉ニンニクが出現した。
手際よく指先で薄皮を剥ぎ、雪のように白く瑞々しい粒を二つ取り出す。
そして――鷹人は再び、あの安っぽい黄色い百円ライターを取り出した。
親指の腹でヤスリを弾く。
――カチッ、シュボッ。
硬質な着火音とともに、揺らぐ小さな橙色の炎。
鷹人は剥きたてのニンニクの先端に、ライターの炎を直接あてがった。
――チリチリチリ……ジュワッ。
静かな厨房に、微かな油の爆ぜる音が響く。
直火に炙られたニンニクの表面が、パチパチと音を立てて香ばしい狐色の焼き目を纏っていく。
滲み出る、濃厚な植物性エキスの滴。
その瞬間――。
ボワッッッッ!!!!
厨房の重苦しい豚骨臭を一瞬で吹き飛ばすほどの、猛烈に甘く、香ばしい焦がしニンニクのアロマが空間全体に爆散した!
生の刺激臭は火によって完全に消え去り、極限まで濃縮されたナッツのような香ばしさと、暴力的なまでの食欲を刺激する滋養の香気。
「な……ッ!?」
デュークの琥珀色の瞳孔が、カッと見開かれた。くわえていた葉巻が、ポロリと床へ落ちそうになる。
「火で……直火でニンニクの油を炙り出し、焦がしただと……!? この芳醇な香りは一体何だ……!?」
「見てな」
鷹人はサバイバルナイフの腹を使い、まな板の上で熱々の炙りニンニクを一気に押し潰した!
――パシュッ!
ホクホクに柔らかくなった果肉から、さらに濃厚な焦げ香が立ち上る。
鷹人はそれを豪快にナイフですくい取ると、目の前の極濁豚骨ラーメンのど真ん中へ、ドン! と投下した!
――ジュワァァァァッ……!
煮えたぎる豚骨スープの熱で、炙りニンニクの植物性脂がスッと溶け広がっていく。
動物性の重い脂と、植物性の香ばしい焦がしアロマがスープの表面で激突し、奇跡の乳化反応を起こした。
黄金色に輝く細かな油膜が、スープ全体を宝石のようにコーティングしていく。
「ほらよ、オヤジ。伸びねぇうちに啜ってみな」
鷹人は小鉢にスープと麺を少し取り分け、デュークの太い手のひらへと差し出した。
デュークは震える手で小鉢を受け取ると、獣のような眼差しでスープを凝視した。
立ち上る香気だけで、唾液が滝のように溢れ出してくる。
意を決し、小鉢に口をつけて一気にスープを流し込んだ。
ズズズズズッッッッ!!!!
「――!!!!????」
ドッガァァァァァンッッッッ!!!!
神話の竜王の脳天を、目に見えるほどの衝撃波が突き抜けた!
デュークの筋骨隆々たる巨躯が硬直激震し、背中の赤黒い竜鱗が一斉に逆立つ!
(う……美味い……ッ!! 何だこの味はぁぁぁッ!? 重厚すぎて舌にへばりついていた魔獣の脂が、直火で炙られたニンニクの暴力的な香ばしさによって、完璧なキレとコクへと昇華されている……! 獣の臭みが消え、後味に残るのは五臓六腑を熱く焦がすような極限の甘みと旨味の余韻……!!)
デュークは無言のまま、小鉢の中の麺を一瞬で啜り尽くした。
そして――寸胴鍋の前に立ち尽くしたまま、ガタガタと両腕を震わせ始めた。
「……我が求めていたのは、これだ。幾千の年月、この大陸を彷徨い、何万杯と炊き続けてなお届かなかった最後のピース……! それを……この小さな火と、一片の根菜が……一瞬で埋めてみせただと……ッ!?」
デュークはゆっくりと顔を上げた。
その双眸に宿っていたのは、もはや侵略者を威嚇する暴君の光ではなかった。
同じ「モノづくり」の高みを目指す、真の職人に対する畏敬の念だった。
「……小僧。貴様、名を何という」
鷹人は残った丼のラーメンをズズッと豪快に平らげると、丼をトンと台の上に置いた。
「赤城鷹人だ。元自衛隊の工作部隊員で、しがない現場作業員……そして、今日からこのアパートの管理人だ」
「鷹人、か……」
デュークはフッと口角を吊り上げ、落ちていた葉巻を拾い上げると、豪快に口にくわえ直した。
「気に入ったぞ、鷹人。貴様のその腕と、現場の目……本物だ。我が名はデューク。屋台『竜の髭』の店主にして、この101号室の主だ」
デュークは巨大な親指を立てて笑った。
「これより、我が屋台の看板メニューは『特製・炙りニンニク豚骨』とする! ……管理人、貴様が腹を空かせた時は、いつでもここへ来い。我が魂のスープを、特盛でタダで食わせてやるわ!」
◆
騒動の解決は、拍子抜けするほど早かった。
鷹人が換気ダクトの排気ルートを屋上直通へとバイパス工事し、さらにデュークが「詫び」として二階のヒエンへ熱々の炙りニンニクラーメンを一杯差し入れたことで、あれほど怒り狂っていたヒエンも「……うまっ!? クソッ、親父のスープなのに美味すぎて文句が言えねぇ……!」と涙目で完食し、あっさりと矛を収めたのだった。
管理人室に戻った鷹人は、濡れ縁に腰を下ろし、夜風に吹かれながら短くなったタバコに火をつけた。
親指でヤスリを弾く。
――カチッ、シュボッ。
静かな夜空に、橙色の炎が揺れる。
紫煙をゆっくりと夜気へ吐き出す鷹人。
「言葉が通じなくても、拳と美味いメシ、あとはエンジン音があれば世界中どこでも生きていける」
神話の竜王すら、美味い飯と現場の筋を通せば、ただの気骨あるラーメン屋のオヤジに変わる。
腹の底から湧き上がる確かな手応えを感じながら、鷹人は左腕の金属製腕時計を見つめた。
「さて……次はどんな厄介な住人が出てくるか、楽しみだな」
ポポロ・コーポの夜は更け、現場の兄ちゃんの新しい日常が、力強く刻まれ始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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