第一話 御子降臨
西方の大陸から東方の大陸へ向かって、季節風がゆるやかに流れていた。
海を渡り、山脈を越え、五つの大陸を絶えることなく巡り続ける風。
その流れが、ほんの一瞬だけ乱れた。
雲のはるか上で、淡い光が生まれる。
初めは小さな一点だった光は、風に乗ることなく、まっすぐ地上へ向かって降りていった。
その気配を感じ取った二つの影が、空の彼方で同時に振り返る。
「これは……! 再び、このときが訪れましたか」
喜びとも驚きともつかない声が、大気の中へ溶けていく。
もう一人は、降りていく光を見つめたまま、しばらく言葉を発しなかった。
「ということは、御子ユライア様は失敗されたということですね?」
ユライアが何を願い、何を成し遂げ、そして何を成し遂げられなかったのか。
それを知る者にとって、安易に答えられるものではなかった。
光はなおも降り続ける。
やがてそれは、大陸の東方に隠された創生の里へ向かっていった。
そのころ、森林の奥深くで、一本の巨木が低く軋んだ。
空を覆う枝葉の下、陽の光さえほとんど届かない地面が、かすかに盛り上がる。
土の中を走る根が、次々と目を覚ましていく。
「現れるぞ。やつらに遅れをとってはならんぞ。」
低い声とともに、大地が揺れた。
黒く、太く、長い根が地面を突き破る。
その先に立っていたのは、三メートルほどの背丈を持つ、がっしりとした人型の者だった。
森林の民の長老、サティロス。
長く伸びた髪も、腕も、肩も、樹皮のように固く覆われている。
彼が片腕を上げると、周囲の根が一斉に持ち上がった。
「同じ過ちを犯さぬよう、われら森林の民がお守りするぞ。」
森の外へ歩き始めたサティロスを、巨木の根が地を這いながら追っていった。
羊歯類が生い茂る水辺では、川の流れが急に速くなった。
水面の下で、丸い影が幾つも行き交う。
やがて大きな水音とともに、ずんぐりした人影が立ち上がった。
頭には白いものを乗せ、太い胴体から短い手足が伸びている。
水辺の民の主、ナイアス。
「己らの地に連れ帰ろうとする輩が現れることは間違いなかろうのう。」
ナイアスが動くたびに、頭の白いものから水がまき散らされる。
「急がねばのう。御子様を、あの者たちの好きにはさせられんのう。」
岸辺へ上がったナイアスの背後で、川の水が大きく持ち上がる。
水は崩れることなく巨大な塊となり、ナイアスたちを包むように動き始めた。
黄色、赤、緑、青。
さまざまな花が咲き乱れる草原では、風もないのに花々が一斉に揺れ始めた。
草の葉に残った水滴が、陽光を受けてきらきらと輝く。
その中央で、何枚もの薄布を重ねた衣をまとう、小柄な人影が空を見上げていた。
草原の民の長、オレイアス。
「ご降臨なされます。皆でお迎えに参りましょう。」
その声に応じて、花びらの中から色とりどりの者たちが姿を現した。
「皆さん、くれぐれも粗相がないように。」
オレイアスは草原に吹いた一陣の風に乗り、聖なる地へと向かった。
色とりどりの者たちも花びらを舞い散らせながら後を追う。
三つの民が、それぞれの地から同じ場所を目指していた。
創生の里の中央。
色とりどりの花畑に囲まれた、聖なる地。
そこへ、遥か上空から光の粉が降り始める。
細かな光は、地表へ近づくにつれて一つに集まり、やがて一本の光の柱となった。
眩い光の中に、人の姿が浮かび上がる。
まだ年端もいかない少女だった。
薄い緑色の花模様が入った、膝下まで届くゆったりとした上衣。
ロングチュニックを着ていた。
少女は光に抱かれるようにゆっくりと地上へ降り、柔らかな草の上へ静かに横たわった。
閉じられたまぶた。
穏やかな寝息。
小鳥が一羽、近くの枝に止まる。
蝶が少女の上をゆっくりと横切る。
風に揺れる花が、少女の頬へ触れそうになり、また離れていった。
その静けさを、北から響く地鳴りが破った。
「われらが地に、いただこうぞ!」
森林の方角から、サティロスの声が響く。
直後、地面が大きく盛り上がった。
何十本もの太い根が、土煙を上げながら聖なる地へ伸びてくる。
眠る少女を包み込み、そのまま森へ連れ帰ろうとしていた。
「待たれよ! 御子様を乱暴に扱ってはなりませんのう!」
南から、ナイアスの声が上がった。
川の水が集まり、大きな水の塊となって迫ってくる。
水で少女を包み、根から守りながら水辺へ運ぶつもりのようだ。
「お二人とも、おやめなさい。御子様がお驚かれます。」
東からは、オレイアスの声が聞こえた。
言葉とは裏腹に、草原一帯から巻き上がった花びらが空を覆い、硬く圧縮された大気の壁を作り上げている。
根も水も近づけず、自分たちだけで少女を迎え入れるつもりなのは明らかだった。
「最初に見つけたのはわれらだぞ!」
「光を感じ取ったのは、わしらも同じですのう!」
「争っている場合ではありません。まず、御子様を安全な場所へ、草原の地へお連れしなければ。」
三つの力が、少女を中心に押し合い始める。
根が地面を割る。
水が花びらを巻き込む。
大気の壁が両方を押し返す。
少女の髪が風に揺れた。
それでも目を覚ます様子はない。
聖なる地から少し離れた場所で、その光景を眺めていた小柄な男がいた。
体中を苔に覆われた、土の民の首魁ミュコスである。
ミュコスは三方向から迫る力を見つめ、深いため息をついた。
「全く……何もわかっておらんではないか。」
巨大な根が、少女をさらおうと伸びる。
水塊がそれを阻もうと押し寄せる。
花びらの壁が、二つまとめて弾き返そうとする。
三つの力が、少女の頭上でぶつかり合う。
その寸前、ミュコスが苔に覆われた腕を軽く振った。
灰色がかった細かな粉が、風もないのにふわりと舞う。
根に触れ、水に溶け、花びらの間を抜けていった。
次の瞬間、巨大な根が力を失って地面へ落ちた。
水塊は形を保てなくなり、雨のように降り注ぐ。
花びらの壁は崩れ、色とりどりの花が空から舞い落ちた。
三つの力は一瞬にして消え去った。
あとには、三方向から押し寄せていた者たちが、そろって地面に倒れていた。
北には、森林の民。
南には、水辺の民。
東には、草原の民。
誰もが手足をぴくぴくと動かしながら、起き上がろうとしている。
「何をしたぞ……」
サティロスが地面に頬をつけたまま、ミュコスを睨む。
「体が動きませんのう。」
ナイアスは仰向けに倒れたまま、頭の白いものだけを動かそうとしていた。
「これは……少々、やりすぎではないですか。」
オレイアスは仲間の下敷きになりながら、苦しそうに顔を出した。
「お前たちが言うな。」
ミュコスが眠る少女へ目を向ける。
少女は何事もなかったように、静かな寝息を立てていた。
ミュコスは少女を起こさぬよう、少し離れた場所へ三人を運ぶよう仲間たちへ命じた。
陽光が降り注ぐ山頂。
崩れた石柱と、ひび割れた白い石畳が残る神殿跡の一画に、四人が集まっていた。
苔に覆われた小柄な男、土の民の首魁ミュコス。
森林の民の長老サティロス。
水辺の民の主ナイアス。
草原の民の長オレイアス。
三人とも、まだ体の痺れが残っている。
サティロスは腕を組もうとして、片方の腕が上がらずに諦めた。
ナイアスは頭の白いものを直そうとして、手が届かない。
オレイアスだけは何事もなかったように座っていたが、時折、足の先が勝手に跳ねていた。
「全く困った馬鹿者たちだ。」
ミュコスがため息をつきながら言った。
「われらはただ様子を見に行っただけだぞ。」
何を心外な、とでも言うようにサティロスが言う。
「わしらもそうですがのう。」
ナイアスが大きくうなずいた。
頭の白いものから水滴がぽとりと石畳へ落ちる。
「お迎えせねばならぬと思い……」
オレイアスはすまなそうに言った。
「巨大な根で連れ去ろうとするなどのう。」
「連れ去るとは人聞きが悪い。丁重にお迎えしようとしただけだぞ。」
「お前こそ、水で丸ごと包もうとしていたではないか。」
「水は柔らかいですからのう。根よりは安全ですのう。」
「その点、私はお二人の力から御子様を守ろうとしただけです。」
「そのために、われらごと吹き飛ばすつもりだったのかのう。」
「ほほほ、多少、強い風になりましたが。」
三人は口々に、争うつもりはなかったと言い始める。
「黙りなさい!!」
頭上から、大気を切り裂くような鋭い声が響いた。
四人とも一瞬で体を硬直させ、そろって頭上を仰ぎ見る。
「失礼しました。あなた方のあまりに愚かな姿を見て、つい声を荒げてしまいました。」
幾重もの羽衣のような布をまとった人物が、空からゆっくりと降りてくる。
颯々の民の使徒、エウロスだった。
柔らかな微笑みを浮かべていたが、三人は誰もその顔を見ようとしなかった。
「御子ユライア様の時のことを、もうお忘れですか。また同じ過ちを犯すというのですか。」
「う……すまんぞ。」
「そうでしたのう。」
「申し訳ありません。」
先ほどまで言い争っていた三人が、一斉に小さくなる。
ユライアを助けたい。
世界を平和にしたい。
その思いだけは、誰もが同じだった。
だが、何がユライアのためになるのかを自分たちだけで決め、力で人間の世界へ干渉した。
その結果、領主たちは倒され、世界の秩序は崩壊した。
善意から始めたことが、ユライアの計画を大きく狂わせた。
その後悔は、二百年近い時が過ぎても消えてはいない。
「御子様をお迎えしたいという気持ちまで、否定するつもりはありません。」
エウロスは三人を見回した。
「御子様はご自分で考え、ご自分で行動されるのです。あなた方は、その邪魔をしようというのですか。」
「われらの森から旅立っていただきたかったぞ。」
「水辺の地こそ、旅立ちにふさわしかろうのう。」
「草原の地であれば、ゆっくりと準備をされてから、旅立てます。」
「あなた方は、また御子様の望みより、自分たちの考えを優先しようとしているのですか。」
三人は再び黙り込んだ。
エウロスはミュコスへ向き直る。
「あなたがとっさの判断で、皆さんを麻痺させてくれたおかげで何事もなくすみました。お礼を申し上げます。」
「いえいえ、おれら土の民はどの民の地とも共生しておりますからな。どの地が荒れても我が民の不幸となります故。」
ミュコスは体を覆う苔を軽く払った。
「それで、この後はどうされるおつもりですか。」
困惑した表情のミュコスが問う。
エウロスは、すぐには答えなかった。
視界共有の力によって、今も聖なる地の様子を見ている。
少女はまだ眠っている。
その胸は静かに上下し、表情は穏やかなままだった。
三百年前に降臨したユライアは、初めから強大な力を備えていた。
体も精神も強く、人々を惹きつけ、率いる力にも恵まれていた。
だが、今度の御子はまだ幼い少女にしか見えない。
果たして、この星に平穏をもたらしてくれるのか。
エウロスは四人の顔をゆっくりと見回した後、問いかけた。
「皆さんは、どうされたらよいと思いますか。」
三人は顔を見合わせる。
サティロスが口を開きかけ、黙った。
ナイアスが何か言おうとしたが、頭を掻くだけで終わる。
やがてオレイアスが、遠慮がちに答えた。
「やはり、自らの手でつかんでいただくしかないのでしょうか。」
今度は、誰も反対しなかった。
御子が何を望み、どこへ向かうのか。
誰と出会い、何を選ぶのか。
その道は、御子自身が決めなければならない。
エウロスは静かにうなずいた。
そのとき、共有していた視界の中で、少女の指先がかすかに動いた。
エウロスの姿が神殿跡から消えた。
一年後を予想していた方、すいません。
第二章は六話で終わります。
第三章は、一章の世界に戻ります。
物語はかなり進展し、主要キャラが多数登場してきます。




