第二話 目覚めた御子
聖なる地に柔らかな風が流れ、花々が静かに揺れた。
閉じられていた少女のまぶたが、ゆっくりと開く。
「う~ん。よく寝た。」
少女は大きく背伸びをしながら、ゆっくりと上半身を起こした。
柔らかな草が風に揺れ、花の香りがふわりと鼻先をくすぐる。
「あっ?」
目の前に、人が浮いていた。
思わず瞬きをした。
幾重にも重なった羽衣のような衣が風を受け、ゆるやかに揺れている。
その人物は静かに微笑んでいた。
少女は首を傾げた。
「あなたは……だ~れ?」
その問いに、相手は穏やかに一礼する。
「私はエウロス。この世界の調停者としての役割を持つ、颯々《そうそう》の民の一人です。」
少女は何も聞いていなかったかのように、ゆっくりと周りを見回した。
どこまでも続く花畑。
優しく流れる小川。
木々の間を飛び交う色鮮やかな鳥。
心地よく吹き抜ける風。
「ここはどこ?」
「ここは、創生の里です。」
「颯々の民? 創生の里? う~ん、わからない。」
そのまま自分の顔を触り、腕を見て、手のひらを眺める。
困ったように眉を寄せた。
「私、なんでここにいるの? それに……私は誰?」
「なんにもわからない。」
その声には、不安よりも戸惑いがにじんでいた。
エウロスは少女を安心させるように微笑んだ。
「そうですね。目覚めたばかりですから。」
「少しずつ思い出していくでしょう。心配することはありません。」
少女は少しだけ表情を和らげた。
「とりあえずなんとお呼びすればよろしいでしょうか。」
少女はきょとんとした。
「何か思いつく名前のようなものはありませんか?」
「なまえ? なまえ……なまえ……」
少女は何かを思い出すように、目の前に広がる花畑を見る。
風が吹いた。
花びらがひらひらと少女の肩へ舞い降りる。
少女の顔がぱっと輝いた。
「ミレイ!」
「なんか、ふっと浮かんだ。」
「うん。ミレイ。ミレイがいい。」
「私、ミレイにする。」
エウロスも穏やかにうなずいた。
「それでは、これからはミレイさんとお呼びします。」
「うん!」
元気よく返事をしながら、エウロスの後ろの空を指さす。
「ねえ、エウロスさん。あれ、なんですか?」
頭上に、巨大な天体が浮かんでいた。
その天体は地表のすべてが、流れる雲のようなもので覆われていた。
「あれは双子星といいます。私たちがいる星の双子の兄弟……姉妹かもしれませんが。」
「兄弟ならここと同じようなの?」
「ご覧の通り、雲に覆われているため、どうなっているのかはわかりません。」
「あんなに大きな星、見たことない。」
「見たことない、ということを思い出したようですね。」
「あ、本当だ。」
「その調子です。」
ミレイはもう一度、双子星を見上げた。
「なんだか、不思議。」
「双子星、なんかいいな。」
双子星は静かに空へ浮かび続けていた。
「それではミレイさん、あなたはこの後どうしたいですか。」
「え…………」
突然そう尋ねられ、ミレイは言葉を失った。
エウロスは答えを待つように、静かに微笑んでいる。
「わかりません。」
「それでは、ここ創生の里で、ずっと生活していきますか。」
「ここで?」
ミレイは改めて辺りを見回した。
色とりどりの花々が風に揺れている。
澄み切った小川は陽光を受けてきらきらと輝き、木々の間では小鳥たちが楽しそうにさえずっていた。
「そうです。ここは一年中、春のような気候です。」
「それに、あなたを襲うような恐ろしい生き物は一匹もいません。」
エウロスは周囲を確かめるように見て、続けた。
「近くには、きれいな水の流れる小川があります。」
「果物や木の実、穀物も実ります。」
「蝶や虫たち、ウサギやリスたちも、みなあなたの友達です。」
「素敵……」
思わず声が漏れた。
「ですが、外の世界は違います。人間もいます。凶暴な生き物もいます。」
「生きていくだけでも、大変な苦労をするでしょう。」
「どうされますか。」
ミレイは黙り込んだ。
そして何かを探すように、花畑の中をゆっくりと歩き出す。
花を見つめ、風を感じる。
立ち止まり、小川のせせらぎへ耳を澄ませる。
鳥の声が聞こえる。
花が揺れる。
こんなに穏やかな場所なら、きっと毎日笑って暮らせる。
危ないことなど何一つない。
お腹を空かせることもない。
怖い思いをすることもない。
この場所は、それほどまでに優しかった。
その様子を、遠く離れた神殿跡で三人が落ち着かない様子で見守っていた。
エウロスの《視界共有》によって、ミレイの姿がそのまま映し出されている。
サティロスが思わず身を乗り出す。
「だめだぞ。ここを天国だなんて思わせたら。」
ナイアスも困ったように頭を抱えた。
「ここにずーっとおられたら、おしまいですのう。そうなったら……どうするんですかのう。」
オレイアスも不安そうに映像を見つめる。
「できることなら、あそこへ行って、一言申し上げたいところです。」
「駄目です。」
エウロスはミレイの様子を見守りながら、三人に向かって声を飛ばした。
「だからこそ、皆さんにはそこにいていただいているのです。」
三人は同時に口を閉じた。
ミレイはゆっくり顔を上げ、青く澄んだ空を見つめる。
双子星が静かに浮かんでいる。
小さく息を吸い、すくっと背筋を伸ばした。
「うん。決めた。」
「わたし、行く。わたし、外に行く。」
エウロスは微笑んだまま尋ねる。
「誰も助けてはくれませんよ。」
「がんばる。」
素直で、力強い声が花畑の中に響いた。
「ここにいたら、とっても平和で、幸せだと思う。」
ミレイはゆっくりと辺りを見回す。
風も、花も、水も、そしてすべての生き物たちも、何もかもが優しい。
「でも……それだと、何も思い出せないような気がする。」
「私が誰なのか、知りたい。」
「それを知るために、外へ行く。」
風が踊り、花びらが舞った。
エウロスが静かにうなずく。
「分かりました。それでは――」
「ちょっと待ったー!」
山頂の神殿跡に、サティロスの大声が響き渡る。
「もう行かせるのか! 目覚めたばかりだぞ。」
ナイアスも大きく頷く。
「少しくらい、ゆっくりさせてあげてもよいではないですかのう。」
オレイアスも身を乗り出した。
「一日くらい、この美しい里をご覧いただいてからでも遅くはありません。」
「花たちが、御子様と遊びたいと申しております。」
三人は口々に言い始める。
「そうだぞ、そうだぞ。」
「急ぐ旅でもありますまいのう。」
「せっかくの機会ですから。」
エウロスは三人の勢いに、小さく息をついた。
「……そうですか。皆さんが、そこまでおっしゃるのでしたら。」
三人の表情がぱっと明るくなる。
「今日は、この創生の里で過ごしていただきましょうか。」
「それでは、その間のお世話をする者を、どなたか出してください。」
「私のほうから、花の一族の者を行かせましょう。」
オレイアスが嬉しそうに身を乗り出す。
「それでは、オレイアス、お任せします。」
「承知いたしました。」
創生の里では、ミレイが空に向かって話しかけるエウロスを、不思議そうに見ていた。
「どうかしましたか?」
「……いえ。」
エウロスは何事もなかったように微笑んだ。
「目覚めたばかりです。今日くらいは、この世界に慣れてから出立しなさい。」
「ただし、外へ出ることは、決定事項ですよ。」
「うん。」
ミレイは素直にうなずいた。
一陣の風が草原を吹き抜け、色とりどりの花びらが空高く舞い上がる。
花びらは舞いながら集まり、重なり、淡い光をまとって一人の少女の姿を形作っていく。
やがて最後の一枚が少女の肩へ舞い降りると、花びらの渦は静かにほどけた。
そこに立っていたのは、ミレイと同じくらいの背丈の少女だった。
飴色の髪が陽の光を受けて、やわらかく輝いている。
花びらを思わせる淡い色合いの衣をまとう姿は、草原に舞い降りた妖精のようだった。
「きれい……」
ミレイは思わず見とれてしまう。
突然現れたことさえ忘れてしまった。
少女は小さく首を傾け、そして、ふわりと微笑んだ。
「初めまして、ミレイ様。」
その声は、風に揺れる花のように優しかった。
「わたしは、草原の民のうち、花の一族のフローラと申します。」
「この地でお過ごしの間、ご一緒させていただきます。」
「どうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って、丁寧に一礼する。
ミレイも慌てて頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
顔を上げると、もう一度フローラを見る。
(わあ……、かわいい。)
(綺麗で可愛いなんて、最強。)
思わず頬が緩んだ。
そんなミレイの表情を見て、フローラも小さく笑う。
「花や草たちが、ミレイ様と遊びたいと言っておりますが、どうされますか。」
「えーっ。花と遊べるの?遊びたいー!」
その言葉と同時に、ミレイの周りの草や花が緩やかに揺れ始めた。
一本、また一本、縦に、横に、斜めに、踊りだした。
花びらが舞い、葉と葉が触れ合い、小さな音色を奏でる。
演奏と踊りの輪はミレイを中心に、草原いっぱいに広がっていった。
「皆さんがお待ちですよ。」
「うん!」
両手を広げ、揺れる花に合わせて踊り出す。
すると、花たちもそれに応えるように揺れる。
「きゃあ!」
思わず笑い声がこぼれる。
花が歌い、草が踊り、風が拍子を取る。
その中をミレイがゆっくりと舞う。
花や、草や、風の輪の中へ溶け込むように。
「あははは。」
「楽しい!」
夢中になって踊り続ける。
「あっ。」
勢い余って足がもつれた。
「あ……、膝、擦りむいちゃった。」
細い赤い傷が、膝小僧にできている。
フローラはすぐにミレイのそばへしゃがみ込んだ。
「見せてください。」
安心させるように微笑んだまま、そっと右手を傷へかざす。
掌がほのかな浅黄色に染まり、その光が膝を包み込むように広がる。
傷は跡形もなく消えていた。
ミレイは何度も膝を見比べる。
さっきまで擦りむいていた場所を指で触る。
「え?」
もう一度触る。
「え、え、え。」
「何で? すごい!」
「これは、私たち一族の持つ治癒のスキルです。」
ミレイは目を輝かせたまま、フローラを見つめていた。
「治癒……。そんなこと、できるんだ。」
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