第六話 心のいらないもの
「ただいま帰りました。」
和み亭の扉が開き、元気な声が店内に響いた。
夕暮れが近づき、食堂には夕食を楽しむ客たちの笑い声が広がっている。
カウンターにいたアテーラが顔を上げた。
「ご苦労様、ビッキー。」
「はい!」
ビッキーは興奮を隠しきれない様子だった。
その後ろから、ミレイがゆっくりと店へ入ってくる。
歩くたびに少しだけ顔をしかめている。
「どうしたの。」
ミレイは少し照れくさそうに笑う。
「馬車を降りるとき、転んじゃった。」
膝小僧をそっと押さえる。
「見せて。」
しゃがみ込み、膝を確かめる。
少し擦りむいているだけだった。
「あらあら、気をつけないとね。」
(ということは……。やっぱり『ドタン』ではないのね。)
立ち上がると、笑顔で尋ねる。
「それで、どうだった?」
ビッキーは待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「すごかったです!」
「ロンダーさん、号泣しちゃって。」
「両手を握られて、ブルンブルンされちゃいました。」
その勢いを思い出したのか、自分でも笑ってしまう。
「奥様に、『ありがとうございました』と、くれぐれもお伝えくださいとのことでした。」
アテーラはミレイに優しく話しかける。
「ミレイ。何があったの?」
「奥さんと、お話をしただけです。」
「私がロリィさんに似ていたらしくて。」
「それがよかったみたいです。」
「悲しむのはやめて、心の中のロリィさんと一緒に笑って過ごすそうです。」
「そう、それはよかったわ。」
そして、ミレイの頭をそっと撫でる。
「ご苦労様でした。」
ミレイは少しくすぐったそうに笑った。
その笑顔を見て、ビッキーも嬉しそうに笑った。
その夜。
仕事を終えたキャンターとアテーラは、自室で向かい合っていた。
ランプの火が静かに揺れている。
キャンターが口を開いた。
「ロンダーさんの奥さん、よくなったって。」
「ええ。」
アテーラは静かにうなずく。
「ミレイが行ったら。」
「一年以上治らなかったんだろう。」
「それも、いろいろ手を尽くしても。」
「ミレイ曰く、娘さんに似ていたからですって。」
「それだけで急によくなるわけないだろう。」
「ロンダーさんの家へ行く前に、ユーリに会っているのよ。」
「ミレイの希望で。」
キャンターは少し驚いたように顔を上げる。
「ユーリに? ますます分からん。」
アテーラはしばらく黙ってから口を開いた。
「あの子には何かあるわね。」
「ああ。目を離さない方がいいな。」
二人はしばらく黙って、ランプの炎を見つめていた。
その頃、ミレイの部屋。
フルルが机の上で、綿毛をふわふわと揺らしていた。
ミレイはベッドに腰掛け、その姿を見つめながら、小さく息をつく。
「もしかしたら……と思ったけれど。」
嬉しそうに微笑む。
「うまくいって、よかった。」
フルルが首をかしげるように「ミュウ」と鳴く。
ミレイは優しく撫でた。
「フルル。私ね。」
「フルルを、すごくかわいいって撫でてくれた人の特技、使えるようになるみたい。」
そう言いながら、自分でも不思議そうに首をかしげる。
「一回だけだけど。」
「なんか不思議だね。」
フルルは嬉しそうに綿毛を揺らした。
「ミュウ」
「でも……」
「ユーリさんの特技。」
「物だけじゃなくて、心のいらないものも盗めて、よかったあ。」
「ユーリさん。分かっているのかな。」
昼間のことを思い出す。
あれほど自分の特技を嫌っていたユーリ。
もし、人の悲しみや苦しみまで取り除けるのなら、あの特技は誰かを傷つけるものではなく、人を救う力になる。
「きっと、これから喜ぶ人がたくさんいるね。」
そう言って微笑む。
その笑顔を見て、フルルも「ミュウ」と嬉しそうに鳴いた。
ふと、ミレイは胸へ手を当てる。
「あっ。」
「これ、どうしようか。」
胸の前で手を開く。
すると、手のひらの上に、くすんだ青白い炎が現れた。
ゆらり。
ゆらり。
音もなく揺れている。
ミレイは炎をじっと見つめた。
「ロリィさんの死を悲しむ心。」
「すぐに消えてくれるかなと思ったら、時間がかかるみたい。」
炎は先ほどより小さくなっていたが、まだ消えてはいなかった。
「誰かが見たら怖がりそうだし、どこに置いておこうか。」
困ったように考え込む。
そのときだった。
フルルの綿毛がすっと伸びてきた。
青白い炎を、そっと包み込んだ。
「え?」
ミレイが目を丸くする。
綿毛に包まれた炎は、ゆっくりと小さくなっていく。
そして――
跡形もなく消えた。
「ええっ!」
ミレイは思わず立ち上がる。
「フルル!」
フルルは得意そうに綿毛をふるふると揺らしている。
「ミュウ」
ミレイはフルルをそっと抱き上げる。
「わあ、すごい!」
「フルル、こんなこともできるんだ!」
「すごーい!」
ぎゅっと抱きしめる。
フルルも嬉しそうに、小さく鳴いた。
「ミュウ」
ミレイはフルルを抱きしめたまま、嬉しそうに笑っていた。
翌日の昼。
祭りの賑わいが去った和み亭には、いつもの穏やかな時間が戻っていた。
昼食を楽しむ常連客たちの話し声が静かに響く。
その一角で、一人の老婆が腕を組みながら難しい顔をしていた。
紫がかった長衣に黒い肩掛け。
食事には手を付けているものの、ため息ばかりついている。
その様子に気づいたアテーラが近づいた。
「ピタリのおばあさん、元気なさそうね。どうしたの?」
すると、近くで昼食を食べていたユーリが口をはさんだ。
「珍しく占いが当たって、腰を抜かしてんじゃないのか。」
ピタリが顔を上げる。
「うるさいよ。」
ほぼ同時にアテーラも口を開いた。
「うるさいよ。」
二人の声がぴったり重なる。
一瞬店内が静まり、次の瞬間、あちこちで笑い声が起こった。
ユーリは肩をすくめる。
「はいはい、悪うございました。」
そんなやり取りに苦笑しながら、ピタリは深いため息をついた。
「アテーラ、聞いておくれよ。」
「どうしたの。」
「あんたもご存じのように、占いなんてもんはね。」
「三、脅かして、七、おいしいこと言っとけば、大体のお客は喜んで帰っていくもんだ。」
「ところがさ。」
またため息をつく。
「失恋の悩み、それも男の。忘れられないんだって。」
「男はやだねえ。未練たらしくって。」
アテーラは思わず笑ってしまう。
「あなたには次の方が待っています。もっと理想に近い方と巡り会います。」
「そう言ってあげてもね。」
ピタリは肩を落とした。
「でも、『前の彼女が……』、『オヨヨ……』なんて始まっちまう。」
「そんな客が何人か続いたおかげで、『あそこへ行っても駄目だ』なんて評判が立ち始めてね、他のお客まで来なくなってきたよ。」
「こっちとら、おまんまの食い上げだよ。」
常連客たちも顔を見合わせる。
「それは大変ねえ。何かいい方法があるといいんだけど。」




