第五話 ロリィと一緒に笑って
巡回馬車は石畳の道をゆっくりと進んでいく。
中央広場を離れるにつれ、人通りは少なくなり、景色は落ち着いた住宅街へと変わっていった。
道の両側には白い漆喰の家々が整然と並び、小さな庭には色とりどりの花が咲いている。
窓辺では主婦たちが洗濯物を干し、子供たちが楽しそうに遊ぶ姿も見えた。
ミレイは馬車の窓から、その穏やかな町並みを静かに眺めていた。
「着きました。」
ロンダーの声に顔を上げる。
馬車を降りると、一軒の家の前だった。
白い漆喰の壁。
赤茶色の瓦屋根。
手入れの行き届いた小さな庭には季節の花々が咲き、石畳もきれいに掃き清められている。
ロンダーは玄関の扉を静かに開ける。
「どうぞ。」
ミレイは小さく頭を下げ、中へ入った。
居間へ案内される。
大きな窓から午後の柔らかな陽射しが差し込み、白いレースのカーテンが風に揺れていた。
明るい部屋。
けれど――
窓際に座る一人の女性だけは、その光の中にいなかった。
頬は痩せ、顔色は青白い。
庭を見つめる瞳には、何の感情も映っていない。
部屋全体は明るいはずなのに、その人の周りだけ時が止まってしまったような静けさが漂っていた。
ロンダーは妻のそばまで歩み寄る。
「ローザ。」
優しく声を掛ける。
「今日は、お客様をお連れしたよ。」
反応はない。
庭を見つめたままだった。
「アテーラさんの親類のお子さんの、ミレイさんだよ。」
ミレイは一歩前へ進み、丁寧に頭を下げる。
「こんにちは。ミレイといいます。」
それでもローザは動かなかった。
ロンダーは胸の前で静かに拳を握る。
(今日も……駄目なのか。)
ミレイはゆっくりローザの前まで歩いていく。
しゃがみ込み、目線を合わせるように顔をのぞき込んだ。
「こんにちは、ローザさん。」
静かな声だった。
その一言に――
ローザの瞳が、ゆっくりと動いた。
焦点の合わない目が、ミレイへ向けられる。
ただ、じっと見つめる。
ロンダーもビッキーも声を出さず、その様子を見守っていた。
やがて――
ローザの目が大きく見開かれた。
震える瞳が、ミレイの顔を見つめ続ける。
唇がかすかに動いた。
何かを言おうとしている。
けれど、声にならない。
やがて、その瞳に涙があふれ始めた。
一粒。
また一粒。
止めようとしても止まらない。
涙は頬を伝い、膝の上へぽたり、ぽたりと落ちていく。
唇の震えは次第に大きくなり、それは身体全体へと広がっていった。
「う……。」
小さく漏れた声は、
次の瞬間、大きな慟哭へと変わる。
「うぉぉぉぉおおおおおおお――っ!」
部屋中に響き渡る叫び声。
ローザはよろよろと立ち上がる。
震える足で、一歩。
また一歩。
ミレイの前まで歩いていく。
そして――
壊れ物に触れるように、そっと両腕を伸ばした。
次の瞬間、しっかりとミレイを抱きしめる。
「う……ああぁぁ……。」
声にならない泣き声。
その肩は小刻みに震え続けていた。
ミレイは何も言わない。
ただ、そっとローザの背中へ手を添える。
その小さな手の温もりに触れた瞬間、ローザはさらに涙をあふれさせた。
部屋には泣き声だけが響いていた。
ロンダーは静かに目を閉じる。
ビッキーも思わず目頭を押さえた。
長い時間だった。
けれど誰一人、その時間を長いとは感じなかった。
やがてローザが少し落ち着き、二人は窓際のソファへ並んで腰を下ろした。
ローザはミレイの手を握る。
ミレイも握り返す。
どちらからともなく、その手を離そうとはしなかった。
しばらくして、ローザがゆっくり口を開く。
「ミレイさん……ありがとう。」
涙でかすれた声だった。
「ロリィがいるのかと思ったわ。」
そう言って、ぎこちなく微笑む。
ミレイも優しく微笑み返す。
「ロリィさんは幸せですね。」
「こんなに思ってくれているお母さんがいて。」
「ロリィさん、きっとローザさんの今みたいな笑顔が大好きでしょうね。」
ローザは目を閉じ、小さくうなずく。
「そうね……。」
「私とロリィ、いつも一緒に笑っていた。」
「あの子が亡くなってからは……」
「笑顔でいようと思っても駄目。」
「悲しさがこみ上げてきて……」
「ああ、また……」
涙があふれそうになり、目頭を押さえる。
ミレイは静かに見つめていた。
そして、優しく問いかける。
「でも、それってロリィさん、うれしいですか?」
ローザは顔を上げた。
「え……?」
「ロリィさんにとって、一番幸せだったのは、お母さんと一緒に笑っていたときじゃないですか。」
「だったら、お母さんが笑ってくれなかったら……」
「ロリィさん、悲しむんじゃないでしょうか。」
ミレイの瞳を見つめたまま、何度も小さく息をつく。
かすれた声が漏れる。
「私に笑っていてほしいと思う……」
ミレイは静かにうなずいた。
「ロリィさんは、今もローザさんの心の中にいて。」
「今も、一緒にいると思います。」
「笑っていると思います。」
ローザは胸の前で両手を重ねた。
まるで、大切なものを抱きしめるように。
瞳を閉じる。
すると、幼いロリィの笑顔が心に浮かんだ。
花畑を駆け回る姿。
一緒に食事をして笑い合った日々。
眠る前に抱きしめた小さな体。
どの思い出の中のロリィも、笑っていた。
涙が一筋、頬を伝う。
「ロリィは……。」
胸に手を当てたまま、小さく微笑む。
「ずっと一緒。」
「私の、大好きなロリィ。」
その笑顔を見つめながら、ミレイは静かに続けた。
「悲しい。」
「とっても悲しい。」
「でも、いつまでも悲しんでいたら。」
「ロリィさんは、もっと悲しい。」
「悲しむのは、やめませんか。」
ローザは唇を噛む。
「私も……。」
「やめたいの。」
「でも……。」
ミレイはローザの手をそっと包んだ。
「悲しむのを終わりにしたい。」
「これからは、ロリィさんと笑って生きていきたい。」
「そう願ってみたらどうですか。」
ローザはミレイを見つめた。
「一緒にお願いしてみましょう。」
ミレイが優しく言う。
ローザは何度も小さくうなずいた。
「わかったわ。」
「やってみる。」
少し間を置いて、恥ずかしそうに微笑む。
「お願い。」
「一緒にやって。」
「あなたとやると……。」
「ロリィと一緒にやっているように思える。」
ミレイはにっこりと笑った。
「はい。」
二人は向かい合って座る。
そして、お互いの手をしっかりと握り合った。
ローザはゆっくり目を閉じる。
胸いっぱいに息を吸い込み、小さな声で言った。
「もう悲しまないわ。」
「悲しみはいらない。」
少し震えながらも、その声は少しずつ力を帯びていく。
「ロリィと一緒に笑って生きていく。」
言い終えると、静かに目を開いた。
目の前には、優しく微笑むミレイがいる。
ローザも、つられるように微笑んだ。
「ミレイさん、ありがとう。」
「私、笑って生きる。」
「ロリィと一緒に。」
ミレイは何度もうなずいた。
ローザをそっと抱きしめる。
ローザも抱き返す。
「ミレイさん。」
「本当に……。」
「本当にありがとう。」
ロンダーはそっと目頭を押さえた。
一年間、一度も見ることのできなかった妻の笑顔。
何も言わず、嬉しそうに二人を見つめていた。




