第四話 ローザに会ってほしい
朝。
祭りが終わり、町にはいつもの朝が戻ってきた。
和み亭では朝早くから朝食の支度が始まっている。
焼きたてのパンの香りが一階いっぱいに広がり、宿泊客たちが次々と食堂へ降りてくる。
一階奥の事務室では、アテーラが帳簿を広げていた。
向かいには、一人の男性が座っている。
眼鏡を掛け、きちんとした身なりの、穏やかな表情の男だった。
グランティス会計事務所の会計士、ロンダーである。
紙をめくる音だけが静かに続いていた。
コンコン。
扉が軽く叩かれる。
「どうぞ。」
扉が開き、ミレイが顔をのぞかせた。
「お昼の用意ができたって。」
ロンダーはその声に顔を上げた。
そして――
ミレイを見た瞬間、その表情が固まった。
腰を浮かしかけ、目を見開いたままミレイを見つめる。
その様子にアテーラが気づく。
「親戚の子でミレイといいますが、何か。」
ロンダーは我に返ったように小さく頭を下げた。
「いえ……。」
「ロリィに似ていたもので。」
アテーラは納得したようにうなずいた。
「ああ。」
「ところで、奥様の具合はいかがですか。」
ロンダーは静かに目を伏せる。
「相変わらずです。もう一年たつのですが……。」
アテーラは話題を変えるように微笑む。
「ミレイ、この方はうちのお店の会計士のロンダーさん。いつもお世話になっているの。」
「ミレイです。よろしくお願いします。」
ロンダーはしばらくミレイの顔を見つめていた。
何かを確かめるように。
そして静かに口を開く。
「アテーラさん。ミレイさんを、お借りできないでしょうか。」
ロンダーはミレイから目を離さないまま続けた。
「ミレイさんに、ローザに会っていただきたいのです。」
「ミレイを?」
アテーラは思わず聞き返した。
「この一年、ローザも何とか次の一歩を踏み出そうとしてきました。」
ロンダーの声は穏やかだったが、その奥には深い疲れがにじんでいた。
「ですが、悲しみが消えることはありませんでした。」
「ロリィの面影のあるミレイさんの元気な姿を見たら、何か変わるかもしれません。もちろん、逆に悲しみを深めてしまうかもしれません。」
「とにかく何かしないと、このままでは駄目なんです。」
アテーラは黙ってロンダーを見つめた。
いつも冷静な彼が、こんな頼み方をするのは初めてだった。
やがてアテーラはミレイへ視線を向けた。
「ミレイ、どうする。」
「私としては助けてあげたいと思うけれど。」
「ミレイが決めなさい。」
ミレイは戸惑ったようにアテーラとロンダーを見た。
「ちょっと考えさせてください。」
「ええ。」
ロンダーは静かにうなずいた。
「もちろんです。」
ミレイは二階の自分の部屋へ戻った。
扉を閉めると、小さく息をつく。
誰もいない部屋で、そっと肩へ手をやる。
「フルル。」
若草色の綿毛がふわりと現れた。
「どうしたらいいと思う。私は行ってあげてもいいと思うんだけど。」
フルルはミレイの顔を見上げる。
「ミュー」
短く鳴いて、綿毛を揺らした。
ミレイは笑顔になった。
「そうだよね。困っている人だもんね。」
一階へ降りると、受付にいたアテーラが顔を上げた。
「決まった?」
「フルルもいいって。行く。」
そう言ったあと、少しだけ首をかしげる。
「その前に、ユーリさんに会いたいってフルルが言ってる。」
「ユーリ?」
アテーラは眉を上げた。
「なんであんな人に。」
しばらく考えてから、食堂の奥を指さす。
「あそこの仕切りの裏のテーブルで待っていて。そろそろお昼を食べに来る頃だから。」
「うん。」
ミレイは素直にうなずいた。
十分もしないうちに、入口から見慣れた男が入ってくる。
猫背のまま周囲を見回し、ミレイを見つけると、不思議そうな顔で近づいてきた。
「何だよ、おれに用って。」
「この子があなたに会いたいって。」
アテーラがそう言うと、ユーリは眉をひそめた。
「アテーラさん。」
「二人で話させて。」
「そう。」
「あそこで見てるからね。」
ユーリは椅子へどかりと腰を下ろす。
「そっちが呼んだんだろ。なんにもしねえよ。」
アテーラは少し離れた席へ移った。
「で、何の用だ。」
ミレイは肩を見た。
「おじさんに、この子が会いたいって。」
フルルがふわりと姿を現す。
綿毛を揺らしながら、じっとユーリを見つめた。
その瞬間、ユーリの顔がくしゃっと崩れた。
「かわいい~~!」
目を輝かせ、フルルへ身を乗り出す。
「お、おい。なでてもいいか。」
「なでさせてくれー。」
ミレイは思わず吹き出した。
「いいですよ。」
ユーリは壊れ物に触れるように、そっとフルルの頭へ手を伸ばす。
ふわり。
綿毛が指先を包む。
その瞬間――
ミレイの身体が、ぼわっと柔らかな光に包まれた。
(あっ……。)
(まただ。)
(何か飛んできた。)
胸の奥へ何かが入り込んでくる。
けれど、それが何なのかは分からない。
ユーリは気づいていない。
夢中でフルルを見つめていた。
「ユーリさん。この子はフルル。」
「お願いがあるの。」
「何でも聞いちゃう、おじさん。」
ユーリは満面の笑みだった。
「この子のことは誰にも言わないで。」
「おうおう、約束するよ。でも、なんでだい。」
「アテーラさんに、人に言わないようにって言われたの。」
その言葉を聞くと、ユーリの表情が急に真面目になる。
「アテーラに?」
「絶対に言わない!」
「アテーラに睨まれたら、この町にいられなくなる。」
離れた席で聞いていたアテーラが苦笑する。
「もう話は終わった。」
「ユーリ、あっち行って昼でも食べてきなさい。」
ユーリは名残惜しそうにフルルを見つめながら立ち上がった。
「ユーリさん、ありがとう。」
ミレイが笑顔で手を振る。
ユーリも照れくさそうに手を上げ、そのまま食堂の奥へ歩いていった。
窓際の席で、一人の少女が静かにスープを口へ運んでいた。
淡緑のチュニック。
生成り色のマント。
飴色の髪が窓から差し込む光を受けて、やわらかく輝いている。
その穏やかな視線は、自然とミレイへ向いていた。
「ミレイ様は、どうやらお困りの方のお力になって差し上げようとしているらしいです。」
誰にも聞こえないほど小さな声。
その口元には、わずかな笑みが浮かぶ。
「やはり、お優しいお方です。」
創生の里で初めて会ったときは、ただ守って差し上げたくなるような幼い少女に思えた。
けれど、こうして見ていると、少し違って見える。
困っている人がいれば、自分から手を差し伸べようとする。
「それにしても……。」
フローラは少しだけ首をかしげた。
「なぜ、あのような盗賊と親しげに話していたのでしょうか。」
ユーリは町では『もらっちゃう』の特技を持つ男として知られ、人々から距離を置かれている。
それなのにミレイは、少しも警戒していなかった。
フローラは不思議そうに二人を見つめた。
静かにスープを口へ運びながら、ミレイを見守り続ける。
「アテーラさん。」
ミレイが受付の方へ歩いてくる。
「ユーリさんが、アテーラさんに睨まれたら、この町にいられないって言っていたけれど。」
「アテーラさん、そんなに怖いの。」
アテーラは思わず吹き出した。
「まったく余計なことを。」
苦笑しながら肩をすくめる。
「いや、本当に怖いのは旦那。」
帳簿を見ていたキャンターが苦笑する。
「私を巻き込まないでくれ。」
店の中に小さな笑いが広がった。
ミレイもつられて笑う。
アテーラは笑顔のまま話を戻した。
「そんなことはともかく、これからロンダーさんのお家へ行くのね。」
「いい機会だから、ミレイに話しておくことがあります。」
「うん。」
「それ。」
アテーラは人差し指を立てる。
「その『うん』ではなく、『はい』と言えますか。」
ミレイは慌てて姿勢を正した。
「うん……じゃなくて。」
「はい。」
「言える。」
「あと、その『言える』ではなく、『言えます』。」
「言えます。」
ミレイは真面目な顔で言い直した。
少し間を置いて、
「でも何で……じゃなくて。」
「なんでですか。」
「そうそう。」
「丁寧な言い方をするとね、ミレイのことを『いい子だな』って思ってくれるの。」
「ミレイを好きになってくれるの。」
ミレイの目がぱっと輝く。
「わあ、素敵。」
その素直な反応に、アテーラの表情も自然と和らぐ。
「でも、お友達や年下の子には、今までどおりでいいわよ。」
「はい。」
「よくできました。」
アテーラが頭を優しく撫でる。
ミレイは少し照れくさそうに笑った。
しばらくして、ロンダーが立ち上がる。
「それでは、ミレイさんをお借りします。」
「帰りのためにビッキーを付けますね。」
アテーラは店の奥へ声を掛けた。
「ビッキー。」
「はーい。」
元気な返事とともに若い女性が顔を出す。
「遅くなる前に帰してください。」
「はい、お任せください。」
ミレイはアテーラへ向かって小さく頭を下げた。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
その笑顔に見送られながら、ミレイはロンダーたちと和み亭をあとにした。
店の前には巡回馬車が止まっている。
馬車へ乗り込むと、ゆっくりと住宅街へ向かって走り始めた。
祭りの賑わいは少しずつ遠ざかり、代わりに静かな町並みが広がっていく。
ミレイは窓の外を眺めながら、小さく息をついた。
(ローザさん……。)
(笑ってくれるといいな。)




