第十五話 行ってきます
数日後――。
和み亭では、開店前の静かな時間が流れていた。
厨房からは朝食の仕込みの音が聞こえ、店内には焼きたてのパンとスープの香りがゆっくりと広がっている。
窓から差し込む朝の光が机を照らし、その上には何枚もの紙が几帳面に並べられていた。
ローザとアテーラは、その紙を一枚ずつ確かめながら向かい合って座っている。
互助組織を形にするため、この二週間、二人は街中を歩き回ってきた。
店を訪ね、人を訪ね、話を聞き、一つ一つ名前を書き留めてきたのである。
そこへビッキーがやって来た。
「アテーラさん、これが元孤児の人たちの名簿。その中で、孤児を雇えそうな人たちの名簿がこっちです。」
「ビッキー、ありがとう。助かったわ。」
ローザは一枚の紙を取り出した。
「会計事務所の方を通したのは、何件かですけれども、雇ってもいいというところがあったそうです。ただほとんどの方は、孤児はね、という反応だったそうです。」
「そうでしょうね。普通はそんなものよ。」
ローザは気持ちを切り替えるように、もう一枚の紙を差し出した。
「便利屋さんたちからの情報で、お子さんを亡くした方の中で、孤児を引き取ってもいいという方がいらっしゃるそうです。」
アテーラの表情が少し明るくなる。
「ここのところ、戦争とかでお子さんを亡くした方もかなりいるから、期待できるかもね。」
ローザは名簿をめくりながら尋ねる。
「アテーラさんはどなたか、そちらの関係者の方をお知りですか。」
アテーラは少し考えた。
「主人の知り合いでいると思うわ。主人に聞いてみる。」
その返事に、ローザの表情がぱっと明るくなる。
「よかった。よろしくお願いします。」
互助組織はまだ始まっていない。
それでも、協力してくれる人は確実に増え始めていた。
ふと、アテーラが思い出したように顔を上げる。
「そういえば、キャンペーンの出発、もうすぐなんですって。」
「はい、そのことで、アテーラさんには申し訳ないのですが。」
ローザは少し言葉を濁した。
アテーラは微笑んだ。
「いいわよ、分かっている。任せておいて。世話人さんへの依頼はやっておく。」
「すいません。」
ローザは深く頭を下げた。
その姿に、アテーラは優しく笑う。
「その代わり、ミレイをお願い。分かっていると思いますけど、あの子、ちょっと不思議な子ですから。」
「はい、本当に。」
ローザは微笑んだ。
出発の日。
まだ朝靄の名残が街を包む頃、フルルカンパニー本部の前には、早くから人が集まり始めていた。
空には雲一つない青空が広がっている。
旅立ちを祝福するような穏やかな風が、建物の前に掲げられた旗をやさしく揺らしている。
本部の前では、それぞれが黙々と最後の準備を進めていた。
突貫組は馬の背に積み荷を固定し、革紐の緩みを確かめていた。
キサナギは馬の首筋を軽く叩き、ヴィクトリアは荷物の重心を確かめ、カイルは荷台の周囲を歩き回っている。
大型馬車には販売用の商品が積み込まれ、御者が車輪や車軸を念入りに点検していた。
その一方で、旅立ちを心待ちにしている者もいる。
エミリアは落ち着かない様子で周囲を見回していた。
胸の前で両手を握りしめている。
「いよいよね!」
その声に、ソフィアも笑顔でうなずく。
「どんな人たちに会えるのかな。」
二人の声を聞きながら、リリアナは広げた地図へ視線を落としたまま静かに確認を続けている。
「街道の確認はしてあります。」
ローザは荷台の前で足を止め、一つ一つ荷物を見直していた。
荷台には販売用の商品や着替え、日用品、道中で使う道具が積まれていた。
「商品も、お茶も、お菓子も大丈夫ね。」
確認を終えて微笑む。
そのときだった。
ミレイの胸元から、小さな鳴き声が聞こえた。
「ミュウ」
皆の視線が自然とミレイへ向く。
ミレイは胸元をのぞき込み、思わず笑った。
フルルは心配そうにこちらを見上げている。
ローザもその視線に気づき、優しく声を掛けた。
「あなたのおやつもちゃんと入ってるわ。」
「ミュウ!」
フルルは嬉しそうに体を弾ませた。
その愛らしい様子に、周囲から笑みがこぼれた。
やがて、本部の入口へ自然と人が集まり始める。
サーシャ、フィリップ、ユーリ、ロンダー、アテーラ、キャンター。
さらに、和み亭の常連客やフルルカンパニーの社員たちも集まっていた。
見送りに来た仲間たちが、馬車を囲むように旅立つ者たちを迎えていた。
やがてサーシャが静かに一歩前へ出た。
幼い身体とは思えないほど、凛とした姿だった。
「皆さん。」
その一言で場が静まり、皆の視線がサーシャへ集まった。
サーシャは、旅立つ仲間たちをゆっくりと見渡した。
その表情には、期待と緊張が入り交じっていた。
サーシャは静かに微笑み、穏やかな口調で話し始めた。
「今回のキャンペーンは、フルルカンパニー最初の大きな仕事です。」
その言葉を受け、旅立つ者たちも自然と背筋を伸ばした。
「会場の設営と現地での手配は、アストリア商会が担当します。皆さんは安心してキャンペーンに専念してください。」
少し言葉を置き、穏やかに微笑む。
「より多くの人に、フルルの優しさを届けてきてください。そうすれば、ふわふわフルルが売れますから。」
最後の一言に、皆の顔に笑みが浮かんだ。
「はい!」
元気な返事が重なった。
ミレイをはじめ、エミリアたちも、突貫組も、力強くうなずく。
フィリップは、その様子を満足そうに見つめていた。
「焦らず、一つ一つだよ。」
ユーリは腕を組んだまま、にやりと笑った。
「しっかり働いてこいよ。」
ミレイは思わず笑顔でうなずいた。
ロンダーはローザを見つめ、それから一行へ視線を移す。
アテーラはミレイの前まで歩み寄る。
母親のような優しい眼差しで襟元をそっと整えた。
「頑張るのはいいけど、無理だけはしないこと。」
「はい。」
ミレイは素直に返事をする。
アテーラは微笑みながら続けた。
「ちゃんと、ご飯も食べるのよ。」
その言葉に、周りから小さな笑いが起こる。
「分かってます。」
ミレイも照れくさそうに笑った。
アテーラも笑っていた。
少し離れたところでは、キャンターが黙ってその様子を見守っていた。
やがてサーシャが声を上げる。
「皆さん、行ってらっしゃい!」
フィリップも続ける。
「成功を祈っています!」
その声に背中を押されるように、ミレイは一歩前へ出た。
見送る一人一人の顔をゆっくりと見つめる。
胸元ではフルルがひょこっと顔を出した。
「ミュウ!」
その愛らしい鳴き声に、見送る者たちの表情が一斉にほころぶ。
ミレイも微笑み返した。
「それじゃあ、行ってきます。」
その一言を合図に、キサナギが軽く手を挙げる。
突貫組が前後へ分かれ、自然な隊形を作る。
御者が手綱を引く。
馬車はきしむ音を立てながら、ゆっくりと動き始めた。
石畳を進む車輪の音が、静かな朝の町へ響いていく。
見送る仲間たちは、馬車の姿が小さくなっても手を振り続けていた。
旅立つ者も、見送る者も。
互いの姿が見えなくなる、その瞬間まで。
第三章 フルルカンパニー 終わり
第四章 海運都市ニューポート へ続く
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
三章はゆったりとした進行具合でしたが、
四章からは展開が速くなります。
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