第十四話 すべての人に届けたい
一週間後――。
アストリア商会本部、フルルカンパニー会議室。
大きな窓から差し込む朝の光が、長い会議机を明るく照らしていた。
この部屋にも、すっかり人の出入りが増えていた。
書類を運ぶ社員や、準備に追われる商会の者たちが慌ただしく行き交っている。
今日は、その中心となる者たちが再び顔を揃えていた。
ミレイ、サーシャ、フィリップ、ユーリ、ロンダー夫妻。
そして、新たに加わった突貫組の三人――キサナギ、ヴィクトリア、カイル。
旅立ちを目前に控えた、最後の全体会議だった。
席に着くなり、部屋を見回していたユーリが首をかしげた。
「何だよ、今日はERSの子たちは来てないのかよ。」
その一言に、ミレイが思わず吹き出す。
「ユーリさんたら。」
呆れたようでいて、どこか楽しそうな笑顔だった。
「いや、せっかく華やかになると思ったのによ。」
ユーリは残念そうに肩をすくめた。
サーシャは苦笑しながら説明した。
「ERSは、歌とダンスのレッスン、それと関係各所への挨拶回りで忙しいのです。」
ユーリは「なるほど」と言わんばかりにうなずく。
その様子を確認すると、サーシャは机の横にある小さなボタンへ手を伸ばした。
軽く押し込む。
カタン――。
静かな音とともに、天井近くに収納されていた大きな地図がゆっくりと降りてきた。
皆の視線がそちらへ集まる。
広げられた地図には、アンドリアン王国全土と五つの主要都市、さらに細かな地名まで丁寧に描かれていた。
カイルは感心したように口笛を吹きかけたが、慌てて飲み込んだ。
ヴィクトリアは思わず身を乗り出す。
キサナギは腕を組みながら地図全体を見渡していた。
サーシャは地図の左上へ歩み寄る。
一本の指が、海沿いの大きな都市を指した。
「皆さんには五つの州の首都を訪ねていただきます。」
皆の視線が、サーシャの指先へ集まった。
「まず、王都から一番離れている、世界の玄関口、海運都市ニューポート」
指先が海岸線をなぞる。
「続いて、麦畑が広がる、農業都市ソルテルダム。」
今度は内陸部へ。
「次に、煙突が立ち並ぶ、工業都市ドンロン。」
さらに東へ。
「そして、ここ。フルルの好きなスイーツ屋さんのある、商業都市ベレソーラ。」
その言葉に、ミレイの肩の上でフルルが小さく反応する。
「ミュウ」
部屋に小さな笑いが起こった。
サーシャも笑顔を浮かべながら続ける。
「最後に教会本部のある、王都レグナリア。」
五つの都市を結ぶ道筋は、大きな輪を描いていた。
ユーリが腕を組んでうなずいた。
「よく考えられてるじゃねえか。」
サーシャは少し得意そうに微笑む。
しかし、その横でフィリップが穏やかな笑みを浮かべる。
「ほお、さすが一流の細工師、瞬時に意図を見抜きましたか。」
ユーリは少し照れくさそうに鼻をこする。
「別に見抜いたなんてほどのことじゃないよ。見りゃ分かるだろ。」
そのやり取りを聞いていたミレイは、不思議そうに地図とユーリの顔を交互に見つめた。
「どういうことですか。」
その問い掛けに、ユーリとフィリップは同時にミレイへ目を向ける。
ユーリは頭をかきながら答えた。
「おれはお客さんが喜ぶ細工を作る。その土地の人が何を好きで、どんな暮らしをしているか考えながら作る。それだけのことだ。」
それを聞いたフィリップが穏やかに続ける。
「ユーリさんはお客様の嗜好や生活環境等を考慮して、細工を施している、ということです。」
「はあ?」
ミレイはますます首を傾げた。
サーシャが思わず笑みを浮かべ、フィリップも苦笑した。
「叔父様、それでは分かりませんわ。」
「これは失礼した。それではサーシャ、君から説明をしてくれますか。」
サーシャは立ち上がり、もう一度地図の前へ歩いた。
一本の指で五つの都市をゆっくりとなぞる。
「住む地域が異なれば、そこに住む人々の考え方、生活環境、行動様式など、全て異なります。この五つの特徴的な都市を全て回れば、この国に住む人々全てがほぼカバーできたといえます。」
皆、その説明に耳を傾けている。
サーシャは続けた。
「つまり、この国の人全てにフルルのあの素晴らしさが伝わったということになります。」
何人かが納得したようにうなずいた。
しかし、ミレイだけは地図を見つめたままだった。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。
「そうかな? それで全ての人、カバーできたのかな?」
その一言で、部屋の空気が止まる。
サーシャが驚いたようにミレイを見る。
「どういうこと、ミレイさん。」
「その中に、孤児や浮浪者の人たちは入っていますか。」
誰もすぐには答えられなかった。
サーシャは地図へ視線を落とした。
「そこのところは考えていませんが。」
今回考えたのは販売戦略である。
まず商品を受け入れてもらえる地域、広がりやすい地域を優先した。
ミレイは静かに続ける。
「あの、なんかその五つの都市の人たちは、豊かな人たちのように思えて。」
責める口調ではない。
純粋な疑問だった。
サーシャも素直にうなずく。
「はい、そうです。購買層を考えました。この層の方たちなら売り上げも伸びるでしょうし、評判も広めてくれます。」
そのとき、ローザがおずおずと手を挙げる。
「あの、私もお話させていただいてよろしいでしょうか。」
「はい、もちろん。」
サーシャはすぐにうなずいた。
ローザは一度胸へ手を当て、ゆっくりと言葉を選んだ。
「フルルさんから感じる幸福感。私はあの幸福感を孤児や浮浪者の皆さん、生活に苦しんでいる皆さんにこそ、お届けしたいと思います。ロリィもそう言っております。」
会議室が静かになった。
サーシャは小さく目を閉じる。
「あ~あ、私ったら。お父様から散々言われてきたのに。」
皆がサーシャを見る。
サーシャは照れ笑いを浮かべながら続けた。
「商いの本質は儲けることではない。商いを通してお客様に幸せになっていただくことだ。」
会議室は静まり返った。
やがてサーシャは、穏やかな笑顔でミレイへ向き直った。
「それで、ミレイさん、どうされたいですか。」
ミレイは迷わず答える。
「はい、貧しい方が多い都市にも行ってみたいです。」
しかし、その願いに真っ先に反応した者がいた。
それまで腕を組んだまま黙って話を聞いていたキサナギである。
ゆっくりと口を開いた。
「気持ちは分かるが、それはお勧めしないな。」
部屋の空気が少し引き締まる。
ミレイは真っすぐキサナギを見つめた。
フィリップも静かにうなずく。
「私も同感です。」
キサナギは地図の上へ視線を落とす。
「今はこの国全体が、いや、世界中が荒れている。貧困層が多い地域は特にだ。危険すぎる。」
その言葉に、ヴィクトリアもカイルも黙ってうなずいた。
「はい。それでも私は行きたいです。」
ヴィクトリアは肩をすくめながら苦笑する。
「困ったお嬢さんだね。組長なんとかしてやんなよ。」
その言い方は呆れているようでいて、どこか優しかった。
キサナギは思わず苦笑する。
「ヴィクトリア、お前。」
ヴィクトリアは腕を組み直し、真っすぐキサナギを見た。
キサナギは小さく息をつく。
そして顔を左右に振った。
「わかったよ。サーシャさん、護衛の方は任せてくれ。」
その一言に、サーシャの表情がぱっと明るくなる。
「ヴィクトリアさん、ありがとう。皆さん、わがままを言ってすみません。」
ミレイは立ち上がるようにして頭を下げた。
サーシャは地図へ目を向ける。
しばらく考えてから口を開く。
「そうなりますと、カラリンあたりはどうでしょう、叔父様。」
サーシャの問いに、フィリップは街道を指でたどる。
「我が国の最貧州ですか。そうですね、道筋としては適当でしょう。」
旅程としても大きな無理はない。
この州の護衛のためには……。
キサナギはすぐに頭の中で段取りを組み立て始める。
「ヴィクトリア、街道筋と六つの都市の便利屋に、組合を通して安全確認をさせといてくれ。」
「はい、すぐに。」
ヴィクトリアはもう仕事の顔になっている。
フィリップも続ける。
「私も、各地の会計事務所を通して情報を集めておくことにしましょう。」
キサナギはさらに考えを巡らせる。
「それとカラリンだが、ここには誰か先に潜らせておくか。」
カイルが待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「潜るっていったら俺っすか。」
キサナギは苦笑しながら言う。
「カイル、お前の潜るのは違うだろ。」
ヴィクトリアも吹き出した。
「違うね。」
カイルは不満そうに口を尖らせる。
キサナギは笑いを収めるように手を軽く振った。
「お前たち、くだらないこと言ってないで、さっさとやることをやれ。」
その一言で、会議室に笑いが広がった。
旅立ちは、もう目の前だった。




