第十三話 優しさの連鎖
その日の夜。
居間のランプが柔らかな光を落とす中、ロンダーは椅子にもたれ、向かいに座るローザを穏やかな眼差しで見つめていた。
昼間の会議。
和み亭での話し合い。
今日一日だけでも、ローザは何度も自分の考えを口にした。
「今日は驚いた。あんな君を見るのは初めてだ。嬉しいよ。」
その言葉に、ローザは少し照れたように目を伏せた。
「自分でもちょっと驚いているんです。」
「以前の君も素敵だったけれども、今の君はもっと素敵だなあ。」
思いがけない言葉に、ローザは頬を染めた。
「まあ。」
照れ隠しのように小さく笑う。
ロンダーもつられて微笑んだ。
しばらく静かに見つめ合ったあと、ロンダーはふと思い出したように話題を変えた。
「名簿が間に合うようだったら、販売促進旅行にも行ってみたらどうかな。」
嬉しい、でも……。
視線は自然とロンダーの胸元へ向かった。
「でも、あなたの体が。」
ロンダーは安心させるように笑う。
「いや、もう、大丈夫だよ。行ってみたいだろう。」
その声には無理をしている様子はなかった。
ローザの背中を押したいという気持ちが伝わってくる。
ローザはゆっくりとうなずいた。
「はい、他の都市の孤児がどのような境遇かも知っておきたいんです。」
胸にそっと手を当てる。
ロリィの存在を感じながら、小さく微笑んだ。
「ロリィも行ってみたいと言っています。」
その一言に、ロンダーも優しく笑う。
「うん。僕もロリィに、世界のいろいろな街や人たちを見せてあげたいな。」
「はい。」
ローザは嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。あなた。」
窓の外では、静かな夜風が吹いていた。
同じ頃――。
フィリップ邸でも、静かな夜が流れていた。
暖炉の火は穏やかに揺れ、部屋の中を橙色の光で包んでいる。
サーシャは机の上に広げた地図へ視線を落とした。
「サーシャは、いくつぐらいの都市を回るつもりですか。」
サーシャは指先で地図をなぞりながら答えた。
「なるべく多くの都市を回りたいのですが、ミレイさんをあまり長くお借りするのもはばかられますので。」
「そうですね。どこを回る予定ですか。」
サーシャは地図の一点を指差した。
「王都レグナリア、農業都市ソルテルダム、工業都市ドンロン、海運都市ニューポート、そしてここ商業都市ペレソーラを考えています。」
指先は地図の上を順番に移っていく。
フィリップはその軌跡を見つめた。
「三ヶ月ですと、移動を考えるとそれが妥当なところですね。」
「他の都市には、アイドルとしてERSに回ってもらいます。」
「そうなると、フルルから発せられるあの不思議な、なんというか、それを直に感じさせることができないのは苦しいですね。」
サーシャは思わず身を乗り出す。
「そうなんです! 本物のフルルからしか感じられない、あの、何とも心地良い、心が温かくなる、安らぎを覚える幸福感。あの感覚を直に伝えなくてはいけないのです。」
「一度この感覚を味わった人はフルルのぬいぐるみを見るたびに、この感覚がはっきりと蘇ってきますわ。」
目を閉じる。
胸の奥に、あの温もりがよみがえる。
「不思議なんです。フルルのこの感覚に触れてから、私、前よりももっと人に優しくしたいと思うようになって。」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に口をついて出た。
フィリップは目を細める。
「サーシャも。実は、私もです。この私がですよ、ははは。」
照れ隠しのように笑う。
「フルルを感じた人たちから、ぬいぐるみを通して、この気持ちが多くの人に伝わってほしいのです。」
フィリップはその言葉を繰り返すようにつぶやいた。
「優しさの連鎖が始まる。」
サーシャは力強くうなずく。
「はい、それがどんどんどんどん広がったら、もしかしたら。」
胸に浮かんだ願いは、あまりにも大きかった。
「不穏な空気が広がっているこの世界が、少しは住みやすくなるのではないか、ですね。」
サーシャは照れたように笑った。
「そこまで大それたことを考えてはいませんが。」
暖炉の炎は、ゆっくりと薪を包み込みながら静かに揺れていた。
「ところで、どのような順序で回るつもりですか。」
「王都から地方へと、地方から王都へ、どちらにしようか、迷っています。」
「王都は受け入れられれば影響力は強いですよ。」
サーシャもそのことは十分理解していた。
「はい、ですが世界教の総本部がありますから。」
フィリップは苦い表情を浮かべる。
「そうですね。今の世界教は欲にまみれた大司教どもが牛耳っていますから、賄賂か妨害か。」
サーシャは小さく息をつく。
「そう考えると地方から徐々に広げていった方がいいような気がしています。」
「それでいいのではないですか。ただ地方は今、全国的に治安が悪くなっています。十分気をつけてください。」
サーシャはわずかに微笑んだ。
「叔父様、今でもハンター仲間とはお付き合いがあるのですよね。」
「はい、ありますが。」
「ミレイさんたちの護衛なんですが、どなたかご紹介いただけませんか。」
フィリップは少し考え込んだ後、確認するように尋ねた。
「お父上の商会が契約している傭兵隊があるんじゃないですか。」
サーシャは首を横に振る。
「人材不足で質が落ちてきて。」
「なるほど、ここ数年、もめ事続きで需要が増えましたからね。」
暖炉の薪が、小さく音を立ててはぜた。
その音だけが部屋に響く。
やがてフィリップは顔を上げた。
「一つ考えがあります。」
サーシャの表情が明るくなる。
「と言われますと。」
フィリップは静かに微笑んだ。
「ミレイさんを三ヶ月近くお連れすることになりますので、キャンター夫妻にご挨拶に伺わないといけません。」
「はい、明日伺うつもりです。」
サーシャは即座に答える。
フィリップは続ける。
「そこで、今のことをキャンターさんにご相談してみたらどうですか。」
その一言で、サーシャの頭の中に光が差したようだった。
キャンター。
人望も厚く、人脈も広い。
何より、ミレイのことを誰よりも大切に思っている。
「キャンターさんに。それは、いいかもしれませんわね。」
暖炉の炎は静かに揺れ続けていた。
旅立ちへの道筋が、少しずつ形になっていた。
翌朝。
澄み渡る青空の下、和み亭では朝の支度が始まっていた。
開店前の店内には、朝食の仕込みをする香ばしい匂いが漂い、窓から差し込む光が床板を柔らかく照らしている。
キャンターは湯気の立つ茶碗を静かに置くと、向かいに座るサーシャへ穏やかな視線を向けた。
サーシャは姿勢を正し、一つ息を整えてから口を開いた。
「キャンターさんにご相談といいましょうか。お願いがあるんですが、よろしいでしょうか。」
キャンターは表情を和らげ、小さくうなずいた。
「なんでしょうか、私にできることでしたら。」
その言葉に、サーシャの肩から少し力が抜ける。
「ミレイさんたちに護衛を付けたいのですが、どなたかご紹介いただけないでしょうか。」
キャンターはすぐには答えず、ゆっくりと言葉を選んだ。
「そちらの関係者で、いくらでもいらっしゃるのではないですか。」
サーシャは小さく首を横へ振った。
「お恥ずかしい話ですが、確実に信頼できる者を集めるのが難しくて。」
「まあ、この世情ですから、それも無理からぬことですか。」
「それではお願いできますか。」
サーシャは改めて頭を下げる。
キャンターはその姿を静かに見つめ、穏やかに微笑んだ。
「わかりました。ほかならぬ、ミレイのためです。いくつかあたってみます。」
その返事に、サーシャの顔へ安堵の色が広がる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
深々と頭を下げる。
キャンターも静かにうなずき返した。
店の外では、朝の風が軒先の旗を揺らしていた。
街の外れ。
突貫組の事務所では、朝から威勢のいい笑い声が響いていた。
仕事を終えて戻ってきた者、これから依頼へ向かう者、机を囲んで世間話をしている者。
組員たちが思い思いに過ごす中、組長のキサナギが立ち上がった。
「みんな集まってくれ、依頼だ。」
その一声だけで、賑やかだった事務所が嘘のように静まり返る。
組員たちは素早く集まり、半円を描くように並んだ。
キサナギは一人一人の顔を見渡してから、ゆっくり口を開く。
「依頼主は、和み亭のキャンターさん。」
先ほどまで笑っていた組員たちの表情が引き締まった。
キサナギは続ける。
「依頼内容は、護衛。期間は三ヶ月。三名行ってもらう。一名は、俺。あと二名、募集する。」
組員たちの間に小さなどよめきが起こった。
三ヶ月。
しかも、組長自ら同行する。
「具体的な内容だが……」
キサナギは、護衛対象や巡る都市、現在の治安について一通り説明した。
説明が終わると、部屋の後ろから気楽な声が上がった。
「いろんなとこ行けるのか。そりゃあ美味しい話だな。」
すると、すぐ隣の男が肘で小突いた。
「お前キャンターさんからの依頼だぞ。」
「護衛するのは、キャンターさんの身内だろ。」
さらにもう一人が真顔で続けた。
「何かあってみろ、首が飛ぶぞ。」
その言葉に、男は苦笑いを浮かべた。
やがて、一人の組員が静かに手を挙げた。
「組長、キャンターさんからの依頼なら、もっと人数出した方がいいんじゃないですか。」
キサナギは腕を組み、ゆっくりうなずく。
「そうしたいのはやまやまだがな。」
その視線は組員全員へ向けられた。
「この頃、世の中が物騒になってんのはわかっているだろう。警備隊が当てにならない今、俺たちがいなくなったらどうなる。」
誰も返事をしなかった。
キサナギは静かに言葉を結ぶ。
「あと二人だが……」
その瞬間だった。
「組長、俺、行きます。」
一人が手を挙げる。
すると、間髪入れず別の声。
「俺が行くよ。」
「俺だよ。」
さらに、
「私だよ、私が行くよ。」
男たちを押し分けるように、一人の女性が前へ出た。
肩までの栗色の髪を後ろで束ね、切れ長の青い瞳が真っすぐキサナギを見据えている。
その姿を見た組員たちは、自然と道を開けた。
女性は自信に満ちた笑みを浮かべる。
「ミレイ嬢ちゃんだろ。組長、私でいいね。」
「お前に頼む、ヴィクトリア。」
ヴィクトリアは軽く拳を握った。
「じゃあ、もう一人は、カイル、あんたおいで。」
突然指名されたカイルは、自分を指差した。
「俺っすか。」
「文句あるのかい。」
その笑顔に、カイルは慌てて両手を振った。
「いえいえ、姉御、喜んで行かせていただきまっす。」
事務所に笑いが起こった。
キサナギも口元を緩めながら締めくくる。
「よし、この三名で決定だ。詳しい話をするから、俺の部屋に来い。」
こうして、ミレイたちの旅を支える三人の護衛が決まった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第三章は十五 話 まであります。
第四章はいよいよ旅に出ます。
展開が大きく変わります。
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