第十二話 私、孤児です
和み亭。
夕食時を迎えた店内には、料理の香りと客たちの笑い声が漂っている。
その一角では、ロンダー夫妻とキャンター夫妻が向かい合って立っていた。
ロンダーが深く頭を下げる。
「ミレイさんを危険な目に遭わせ申し訳ありませんでした。」
その声には、自分を責める思いが滲んでいた。
しかし、アテーラは静かに首を振った。
「ロンダーさんのせいではありません。ロンダーさんこそミレイを庇って大怪我を負われ、申し訳ありませんでした。」
今度はアテーラが頭を下げる。
するとロンダーも慌てて顔を上げる。
「いえ、そんな……」
互いが互いを気遣い、謝り合う。
その様子を見守っていた客たちからも、小さな笑みがこぼれていた。
少し離れた席では、その光景を眺める男が一人。
ユーリだった。
腕を組み、呆れたように口を開く。
「おいおい、ありゃあ、米つきバッタか。」
その瞬間、すぐ隣から、鋭い声が飛ぶ。
「陰口を叩いているんじゃないよ。あ、お前の運命が見えた。ろくな死に方をしないね。」
「ピタリさん、やめてくれよ。冗談でもいい気はしないよ。」
ピタリは肩をすくめるだけだった。
二人のやり取りに、周囲から笑い声が起こる。
ロンダー夫妻とキャンター夫妻の謝り合いも、いつの間にか終わっていた。
やがて皆が席に着き、食事を囲み始める。
料理が運ばれ、湯気が立ち上る。
その湯気の向こうで、誰かがぽつりとつぶやいた。
「昼間、街中で襲われるなんて、物騒な世の中になったものです。」
「ここ数年、急に治安が悪くなりましたね。」
「大なり小なり、国中、こんな有様なんでしょう。」
店内の何人かも、その話へ耳を傾け始める。
今では誰にとっても他人事ではない話だった。
ミレイは静かに周囲を見渡した。
「なんでこんなふうになったんですか。」
その問い掛けに、その場の会話が止まった。
すると、後ろの席から年配の男がゆっくり口を開く。
「ユライア様が聖塔にお隠れになってからかな。それまではこんなことは一切なかったな。」
その一言をきっかけに、食堂中の客たちが振り返る。
「ユライア様がきっちしと悪い奴らを締めてくれていたからな。」
「国王様も、ユライア様には頭が上がらなかったな。」
「ああ、そうだった。」
「あの頃は安心して夜道も歩けた。」
懐かしむような声が重なる。
だが、すぐに別の席から違う声が上がる。
「でもよう、結構厳しかったぜ。ちょっと悪いことしたら、家財没収とか。あれ、やりすぎだろう。」
「そうだよ、そうだよ。」
今度は賛同する者が現れる。
しかし、反対側からも声が飛ぶ。
「あれだけ厳しかったから、みんな何事もなく暮らせていたんだぜ。」
「悪いことする奴がいけないんだよ。」
すると別の男が苦笑しながら肩をすくめた。
「いや、でも、俺は安心して暮らしていられなかったぜ。」
すぐに笑いが起こる。
「そうだな、いつとっ捕まるかとヒヤヒヤしてたもんな。」
「こちとら、どうってことないと思っていることでも、教義に反したって罰するんだぜ。」
「お前、今と昔とどっちがいいんだよ。」
「やっぱり、ユライア様かな。」
「俺はどっちも嫌だ。」
店内に笑いが広がる。
昔を知る者たちだからこそ語れる、少し苦く、少し懐かしい思い出話になっていた。
ユライア様の時代を知る者、知らない者。
それぞれの思いが交差しながらも、誰もが今の世の中に不安を抱いていることだけは共通していた。
ミレイは静かにテーブルへ視線を落とした。
街で見かけた光景が頭をよぎる。
薄汚れた服を着た子どもたち。
道端に座り込む老人。
うつろな目で行き交う人を眺めていた浮浪者。
この街だけのことなのだろうか。
「この間、ミレイさんと街に行ったときも、浮浪者や孤児がたくさんいました。なんとかしてあげないと。」
ローザが静かに口を開いた。
その言葉に、ロンダーもうなずく。
「他の都市の会計事務所の人が言っていたのですが、浮浪者や孤児が路上にあふれているような所もあるそうです。」
食堂の空気が、さらに静かになる。
「以前は、教会が孤児院で面倒を見てくれていたからよかったが。」
「そうですね。今みたいに街中に現れることなんてほとんどなかったです。」
ローザがため息をつく。
皆、それぞれ思い当たることがあるのだろう。
何も言わず聞いている。
ロンダーは続ける。
「このまま孤児が増えていって、いずれ野盗なんかになったら大変なことになりますね。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ビッキーが、突然話に割って入ってきた。
「ロンダーさん、それ、孤児がみんな、悪者になるっていうことですか。」
店内が静まり返る。
ロンダーはすぐに首を横へ振った。
「いえ、そういうわけではないです。」
その返事を聞いても、ビッキーの表情は晴れない。
それを察したアテーラが、優しく声を掛けた。
「ビッキー、落ち着いて。」
ビッキーは小さく息を吸い込む。
そして、静かに言った。
「私、孤児です。」
「え!」
思わずあちこちから驚きの声が上がる。
ミレイも目を見開いた。
「私だけじゃないよ。この食堂にだって何人も孤児だった人がいるよ。」
すると、一人の男が手を挙げる。
「俺もそうだ。」
別の席からも声が飛ぶ。
「あたしも。」
あちらこちらから次々と手が挙がる。
その光景に、ミレイは驚きを隠せなかった。
「え、こんなに。」
この街には、自分が思っていた以上に多くの元孤児たちが暮らしていたのである。
「これはどういうことですか。」
その問いに、一人の女性が静かに話し始めた。
「私はパン屋で何回もパンを盗んでいた。それでついに捕まっちゃってね。」
「これは、警備隊に突き出されるなと思った。そしたら、店で住み込みで雇ってくれるって。」
「信じられなかったよ。」
「私がいつも盗んでるのを見ててかわいそうだなと思って見逃していてくれたんだって。」
「でも、アテーラさんにそのことを話したら、それじゃあ盗みぐせがつくだけで悪くなるだけだって言われて、捕まえたんだって。」
「のれん分けまでしてくれて。今、私はパン屋のオーナーだよ。」
語り終えた女性は、少し照れくさそうに笑った。
ビッキーが続く。
「私は、そこの路地裏で、凍えて、お腹すかせて倒れていたところ、アテーラに助けてもらった。」
「そのままこのお店で働かせてくれたんだ。」
隣にいたアテーラを見る。
その眼差しは、感謝で満ちていた。
「今では私の方が助けてもらっています。ビッキー、ありがとう。」
ビッキーは照れくさそうに笑う。
「みんなこの街の人たちに助けてもらって今があるんだ。」
その言葉に、何人もの客が静かにうなずいた。
「孤児だって、立派に生きていけるんだ。」
誰も大げさな言葉は口にしない。
しかし、その一言だけで十分だった。
ミレイは胸が温かくなるのを感じていた。
この街には、人を見捨てない人たちがいる。
だから、こんなにも多くの笑顔があるのだ。
やがてミレイは、ビッキーへ尋ねた。
「ビッキーさん、どこの街でもこの街みたいなんですか。」
ビッキーは静かに首を横へ振る。
「違います。アテーラさんがお店や工場に声をかけて回って、引き取ってもらっているんです。」
皆の視線がアテーラへ集まる。
しかし本人は困ったように笑った。
「私が始めたことではありません。この店の前のオーナー夫妻がしていたことを引き継いだけです。」
そう言っても、客たちからは感謝の眼差しが注がれていた。
アテーラは少し寂しそうに続ける。
「でも、今は孤児が多すぎて、手が回らないの。」
一人の客がぽつりとつぶやく。
「アテーラさんがたくさんいればいいのに。」
その何気ない一言に、ローザの表情が変わった。
何かが、胸の中でつながった。
「ミレイさん、それです!」
思わず立ち上がるような勢いで声を上げる。
皆の視線が一斉にローザへ集まった。
ローザは興奮を抑えきれないまま続ける。
「前のオーナーからということは、この街に孤児を雇ってくれた方はかなりいると思います。パン屋さんのように一人前になっている元孤児の方もいるはずです。」
アテーラは少し考え、ローザを見た。
「三十年以上前からだから、数百人はいると思います。」
その数字に、店内がざわめく。
ローザはさらに続けた。
「その人たちに呼びかけて、孤児に働く機会を与える互助組織を作ったらどうでしょう。」
一瞬の静寂。
そのあと、キャンターが静かに口を開く。
「なるほど、一人だと自分から進んでやるのは難しいですけれど、仲間がいればやりやすいですね。」
その一言で、皆の頭の中に一つの形が生まれ始めた。
互助組織。
一人では難しいことも、仲間とならできるかもしれない。
そんな希望が、和み亭の中へ静かに広がっていった。
アテーラは腕を組みながら、ゆっくりとうなずいた。
この街には、かつて孤児だった者が数多くいる。
そして、その多くは今、それぞれの職場や店で懸命に生きている。
その人たちが力を合わせれば、一人では難しいことでも実現できるかもしれない。
ローザは皆の表情を見回しながら続ける。
「私、名簿作りをします。アテーラさん、孤児を雇ってくれた方を教えてください。」
「ここにいらっしゃる元孤児の方、他の元孤児の方を教えていただけますね。」
店内にいた元孤児たちは、顔を見合わせた。
誰かが静かにうなずく。
それにつられるように、あちらでも、こちらでもうなずく者が現れた。
「もちろんだ。」
「力になるよ。」
今度は自分たちが恩返しをする番だ。
そんな思いが伝わってくる。
ローザは、さらに考えを巡らせる。
名簿を作るだけでは足りない。
もっと多くの人の力が必要になる。
「キサナギさん、便利屋の皆さんは顔が広いですよね。」
突然話を振られたキサナギだったが、すぐに事情を察した。
「はい、ローザさん、他の便利屋にも声をかけておきます。」
街を駆け回る便利屋たちは、人脈こそ財産である。
ローザはロンダーへ向き直る。
「あなた、会計事務所のお客様の中で、協力してくれそうな方、ピックアップしてくれますか。」
「もちろん。」
「ローザ、君、いつからこんなに積極的になったんだい。」
その問いに、ローザ自身も少し考えるような表情になった。
以前の自分なら、人前でこんな提案をすることなど考えられなかった。
小さく微笑みながら答える。
「ミレイさんに会ってからかしら。」
その言葉に、ミレイは少し驚いたように目を丸くする。
キャンターはその様子を静かに見つめていた。
ミレイの周りでは、不思議なくらい人の心が前向きになっていく。
それは偶然なのか。
それとも――。
そんな考えが一瞬よぎる。
「名簿ができたら、ローザさん、私と一緒に世話役をやってくれそうな人に頼みに行きましょう。」
アテーラだった。
長年この街で人を支えてきた彼女だからこそ、誰に頼めばよいのか分かっている。
「はい。アテーラさん、よろしくお願いします。」
二人は微笑み合う。
店内にいた客たちも、その様子を温かく見守っている。
互助組織は、まだ紙の上にも存在しない。
けれど、この瞬間、その第一歩は確かに踏み出された。
和み亭という小さな店から始まる取り組みが、やがて多くの孤児たちの未来を変えていくことを、この場の誰もまだ知る由はなかった。




