第十話 フルルカンパニー、始動
その夜。
町の喧騒も少しずつ遠ざかり、窓の外には静かな夜が広がっていた。
フィリップの屋敷では、暖炉の薪が静かな音を立てながら燃えている。
揺らめく橙色の炎が部屋を柔らかく照らし、その向かいにはフィリップとサーシャが向かい合って腰を下ろしていた。
フィリップは紅茶を一口含み、穏やかな笑みを浮かべる。
「今日のあなたは、楽しかったですね。特にユーリとかいう方との掛け合い、思わず吹き出してしまいました。」
昼間の自分を思い返し、照れくさそうに微笑む。
「やりすぎました。」
「そういえば、最初にミレイさんと会ったときも、ご自身を出してはいませんでしたね。」
サーシャはわずかに微笑む。
暖炉の炎が瞳に映り込み、その表情をより落ち着いたものに見せていた。
「はい、初めて会う方ですので、どのような方かわかりません。ですから、こちらも隠しておりました。」
フィリップは静かに腕を組む。
幼い頃から見てきた姪である。
人前では無邪気に振る舞いながら、その実、相手をよく観察していることも知っていた。
「もう、本来のあなたを見せてもよさそうですが。」
しかしサーシャは、ゆっくり首を横へ振る。
「いえ、まだわかりません。野盗に誘拐された直後だというのに全く動じた様子が見られませんでした。」
昼間の出来事が脳裏によみがえる。
普通ならまだ恐怖で震えていてもおかしくない状況だった。
それなのに、ミレイはどこか自然体だった。
「私でさえ、あの状況に陥ったら、平静を保っていられるかどうかわかりません。」
「なるほど。」
暖炉の薪が、小さく音を立ててはぜる。
サーシャは炎を見つめたまま、小さくつぶやく。
「あの方の特技は、何なのでしょう。」
フィリップも今までの出来事を思い返す。
「ローザさんを治したこと、書類の不正を見抜いたこと、系統が違うように思われますが。」
「ということは、異能。」
「の可能性が大きいですね。」
「ますます気をつけなくては。」
警戒というよりも、慎重さだった。
相手を知るまでは、自分も軽々しく本心を見せない。
商家で育った彼女らしい判断である。
フィリップは小さく笑った。
「不思議な少女です。」
その言葉には、興味と期待が入り混じっていた。
しばらく暖炉の炎を眺めていたサーシャが、ふと思い出したように顔を上げる。
「ところで、叔父様。キャンターさんとは、初めてお会いしたのですよね。」
フィリップは少し考えてから答えた。
「初めてといえば初めてです。」
曖昧な言い回しに、サーシャは首をかしげる。
「それなのに、すぐ信頼をされていたようですが、叔父様のその様な姿を初めて拝見しました。」
フィリップは静かに笑みを消した。
暖炉の炎が横顔を照らす。
「サーシャは、あの方を見て何か感じませんでしたか。」
問い返され、サーシャは真剣な表情になる。
少し考え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「感じました。それも、とても強く。怖かったです。もしあの力が悪いものだったらと想像して。」
「だから、あのような態度をとっていたのですか。」
「はい。それもあって軽薄な娘を演じておりました。」
暖炉の火がゆらりと揺れる。
昼間の無邪気なサーシャを知っている者が聞けば、同一人物とは思えないほど落ち着いた声だった。
フィリップは苦笑する。
「確かにあの方が悪だったら、大変なことになるでしょうね。」
サーシャは少し身を乗り出した。
「あの方のことを何かご存じなのですか?」
フィリップは静かに目を細める。
「あちらは私のことを知りません。私が遠くからお顔を拝見したことがあるだけです。」
「どのような方ですか。」
サーシャの瞳が期待に輝く。
「知りたいですか。」
「ぜひお聞かせください。」
フィリップは紅茶のカップを静かにソーサーへ戻した。
暖炉の炎が静かに揺れる。
「それでは、教えて差し上げましょうか。」
そして、夜は静かに更けていくのだった。
朝の柔らかな陽光が、大きな窓から部屋いっぱいに差し込んでいた。
アストリア商会本部の一室。
重厚な木の扉には、新しく磨き上げられた真鍮のプレートが掛けられている。
――フルルカンパニー。
部屋の中央には大きな会議机が置かれ、その周りには、この会社の未来を担う者たちが顔をそろえている。
サーシャ。
ミレイ。
フィリップ。
ユーリ。
そしてロンダー夫妻。
その誰もが期待と希望を胸に、この日の会議へ臨んでいた。
サーシャは皆の顔をゆっくり見渡す。
十歳とは思えないほど落ち着いた表情だった。
「ミレイさん、申しわけありませんでした。野盗からお守りできず。」
会議が始まる前に、ロンダーが深々と頭を下げた。
ロンダー自身は傷は癒えつつあるとはいえ、まだ完全ではない。
それでも今日は、自分の口で謝りたい、その思いが表情に表れていた。
ミレイは慌てて首を横に振る。
「いえ、そんなこと。それよりも私のために大怪我を負わせてしまって申し訳ありませんでした。」
今度はミレイが頭を下げる。
ロンダーは困ったように笑った。
その様子を見ていたローザも静かに口を開く。
「主人は早く伺いたいと言っていたのですが、お医者様から許可がおりず、遅くなって申し訳ございません。」
「良くなってよかったです。」
ミレイの素直な言葉に、ロンダー夫妻の表情も和らぐ。
サーシャが静かに立ち上がる。
「お詫びをするために、今日、和み亭へ伺うつもりだとロンダーさんから聞いたので、奥様にもこちらに来てもらいました。」
一同がうなずくのを確認すると、サーシャは会議の本題へ入った。
「それでは、我が社の組織についてお話しさせていただきます。」
その一言で、部屋の空気が引き締まる。
「ロンダーさんには、経理部長を担当していただきます。」
「はい、全身全霊で務めさせていただきます。」
ロンダーは姿勢を正し、力強く答えた。
サーシャは満足そうに微笑むと、視線をフィリップへ向けた。
「叔父様には相談役をお願いします。」
フィリップは肩をすくめる。
「サーシャ様のご命令なら。」
思わず部屋に笑いが起きた。
サーシャも小さく笑みを浮かべ、そのまま話を続ける。
「ユーリさんには、制作部門全体の責任者をお願いしたのですが、」
その瞬間、ユーリは顔をしかめる。
「それ、もしかして書類仕事ありのやつ? だったら、そんな面倒くさい事やだよ。」
即答だった。
部屋中が笑いに包まれる。
「というわけで、技術部門の責任者をお願いします。」
「それならいい。」
ユーリは満足そうに腕を組む。
「残りの担当については、必要に応じてお父様のアストリア商会から出向していただくこととします。」
サーシャがふっと表情を明るくする。
「フルルのぬいぐるみが完成しました。」
「ユーリ部長、お披露目を。」
「はいはい、お待たせしました。」
待ってましたとばかりにユーリが嬉しそうに立ち上がる。
両手で大切そうに抱えていた包みを机へ運び、ゆっくりと布を外した。
そこには、一体のフルルがいた。
若草色の、ふんわりとした毛並み。
丸い瞳。
柔らかな表情。
思わず抱きしめたくなるような、優しい姿だった。
部屋の誰もが息をのむ。
そして次の瞬間――。
ミレイの肩に乗っていた本物のフルルが、勢いよく飛び立った。
「ミュウ!」
小さな体が、ぬいぐるみの周りをくるくると飛び回る。
興味津々といった様子で、あちらから、こちらから眺める。
部屋中の視線が、その小さな綿毛へ集まった。
やがてフルルは、
ぴょん。
と軽やかに飛び乗る。
「ミュウミュウ」
嬉しそうに鳴きながら、ぬいぐるみへ身体をすり寄せた。
その愛らしい姿に、皆の表情が一斉にほころぶ。
ミレイは嬉しそうに笑った。
「フルルが喜んでる。」
「本当に嬉しそう。」
ユーリは照れ隠しのように鼻をこする。
「フルルも俺が作ったフルルをお仲間だって認めてくれたってことだな。」
その言葉に、フルルはもう一度嬉しそうに鳴いた。
「ミュウ」
完成したぬいぐるみの上で、フルルは嬉しそうに体を揺らしていた。
「ミュウ、ミュウ」
まるで仲間が増えたことを喜んでいるような鳴き声だった。
サーシャはその光景を満足そうに見守っていた。
「ユーリさんには、同じものを続けて作っていただきます。それをもとに、業務委託した工場で作ります。」
ユーリは腕を組み、力強くうなずいた。
「ユーリさんには、工場を回って、技術指導をお願いします。」
「おう。大船に乗ったつもりで任せてくれ。」
サーシャは微笑み、机の上のぬいぐるみへ視線を移した。
その視線は、すでにその先を見ていた。




