第八話 ミレイ、社長になる
街へ戻ると、和み亭の前には大勢の人が集まっていた。
アテーラやキャンターをはじめ、ユーリ、ピタリ、ミレイと親しくなった人たち、和み亭の常連客、近所の人々まで、不安そうな顔で街道の方を見つめている。
その中の誰かが叫んだ。
「帰ってきたぞ!」
一斉に視線が向く。
疾風は人垣の手前で静かに歩みを緩めた。
ミレイは馬から降りると、そっと疾風の鼻先を撫でる。
「ありがとう。」
その声に応えるように、疾風は鼻を鳴らし、首をぶるりと震わせた。
「ヴィクトリアさん、ありがとう。」
「突貫組の皆さん、本当にありがとうございました。」
その言葉が終わるより早く、アテーラが駆け寄ってきた。
勢いよくミレイを抱きしめる。
そして頭、肩、腕、腰、足へと次々に手を伸ばし、怪我がないか確かめ始めた。
「奥さん、大丈夫よ。あざが少しあるだけ。」
ヴィクトリアが苦笑交じりに声を掛ける。
「よかったぁ……。」
アテーラは力が抜けたように、その場へ座り込んだ。
「ミレイー!」
「ミレイちゃーん!」
周囲からも次々に声が飛び、皆が笑顔で駆け寄ってくる。
キャンターは静かに突貫組の前へ進み出た。
「突貫組の皆さん、ミレイを救っていただき、ありがとうございました。」
深々と頭を下げる。
「キャンターさん。」
キサナギは慌てて手を振った。
「頭なんて下げないでください。」
「こっちが困っちまう。」
そのやり取りを見守っていた人々の間から、自然と拍手が起こった。
一人、また一人。
やがて和み亭の前は、温かな拍手に包まれていった。
その頃――。
グランティス会計事務所。
整然と並ぶ机。
積み上げられた帳簿。
窓から差し込む午後の陽射しが、磨き上げられた床を静かに照らしている。
その静けさを破るように、執事のジェームスが足早に部屋へ入ってきた。
「ミレイ様が無事、救出されたそうです。」
「お怪我もされていないとのことです。」
フィリップの表情がふっと和らぐ。
「そうですか、それは良かった。」
だが、すぐにもう一人のことが頭に浮かぶ。
「ところで、ロンダー君の容体はどうですか。」
「はい、お医者様のおっしゃることには、腹部の打撲だけで、内臓には影響がなかったとのことです。」
「それは良かった。一安心ですね。」
「はい。ミレイ様からお預かりしたカードの入ったバッグを、お腹に巻いていたそうです。」
ジェームスも穏やかにうなずく。
「なるほど、それで衝撃が和らいで。」
(偶然、いや、これも『奇跡の少女』かもしれませんね。)
「ロンダー君には、ゆっくり休むように伝えてください。」
「かしこまりました。」
「奇跡の少女かしら。」
サーシャがいたずらっぽく笑う。
フィリップは苦笑しながら首を振る。
「その呼び方はやめなさい、サーシャ。」
「はーい。」
返事は素直だが、その表情はどこか楽しそうだった。
「叔父様、フルルグッズのことで相談に乗っていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。」
「おお、珍しい。サーシャからの相談とは。」
「もう、意地悪な叔父様。」
少しだけ頬を膨らませる。
その様子に、フィリップは思わず笑みを漏らした。
「実は、フルルのぬいぐるみの見本を作らせましたの。」
「ほう。」
サーシャは机の上へ試作品を置く。
フィリップは興味深そうに手に取り、いろいろな角度から眺めた。
丁寧な仕上がり。
縫製も悪くない。
細かな部分まで、よく特徴を捉えている。
「でも……」
サーシャの声が少しだけ静かになる。
「あのかわいらしさ、なんとも言えない感触。」
「でも一番の魅力は、フルルがいるだけで心が落ち着いて、幸せな気持ちになること。」
「叔父様もおわかりになるでしょ。それが全然感じられないんです。」
「私がいくら説明しても、ダメ、伝わらないの。これは実際に体験しないとわからないんだわ。」
サーシャは両手でぬいぐるみを抱え、小さくため息をついた。
「だけどミレイさん、フルルを人に見せるのは絶対に嫌だって言うし。」
「ねえ、叔父様、どうしたらいいと思われますか。」
フィリップは腕を組み、しばらく考える。
そして静かに答えた。
「それは確かに厄介だね。」
「ミレイさんに相談してみるしかないんじゃないかなあ。」
サーシャもゆっくりうなずく。
「そうですね。それしかないですわね。」
少し沈んだ空気を変えるように、サーシャが顔を上げた。
「叔父様、これからお詫びとお見舞いに和み亭に行かれるんですか。」
「私もミレイさんに会いに行きたいのですが。」
「さすがに、今日はやめておいたほうがいいだろう。それに、こんな事件の後だから、ミレイさんに会えるかどうかわからないよ。」
サーシャは少しだけ考え――。
ふっと笑顔になった。
「ミレイさん、ショックを受けていらっしゃるでしょうから、私が慰めてさしあげます。」
フィリップは思わず吹き出した。
「それは頼もしいですね。」
温かな笑い声が、静かな執務室に広がった。
翌日。
和み亭には、いつもの穏やかな時間が戻り始めていた。
厨房からは香ばしい匂いが漂い、食堂では常連客たちが静かに朝食を楽しんでいる。
入口の扉が開く。
カラン、と澄んだ音が店内に響いた。
フィリップとサーシャが中へ入ってくる。
二人は店内を見回し、迷うことなくキャンターのもとへ歩いていった。
「私、グランティス会計事務所のフィリップと申します。」
「ミレイさんの親友で姪のサーシャです。」
フィリップは姿勢を正した。
「この度は、わが事務所の所員が大変なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。」
深々と頭を下げる。
店内の空気が静まった。
「いえ、たいした怪我もなく戻ってきたことですし、頭を上げて下さい。」
キャンターの声は穏やかだった。
フィリップはゆっくり顔を上げる。
その瞬間――。
わずかに目を見開いた。
「あなたはもしや、アーク――」
言い終える前に、キャンターが静かに言葉を返す。
「どなたかとお間違えではありませんか。」
その声は落ち着いていたが、どこか一線を引くような響きがあった。
フィリップは、はっと息をのみ、小さく頭を下げる。
「失礼しました。昔の私の知り合いに、似ているような気がして。勘違いでした。」
気持ちを切り替えるように、フィリップが尋ねる。
「ミレイさんのお加減は、いかがでしょうか。」
「今、上で休んでおります。」
「体の方は特に怪我もありませんでしたが、やはりショックだったようです。」
「そうですか。それでは、また改めて……」
そう言って帰ろうとした、その時だった。
「フィリップさん、あ、サーシャさんも。」
やわらかな声が二階から聞こえた。
皆が見上げる。
階段の上から、ミレイがこちらを覗いていた。
「あなた、部屋で休んでいなくちゃ駄目じゃない。」
アテーラが心配そうに声を掛ける。
「もう平気。下に降りていってもいい。」
「無理しないのよ。」
「はい。」
ミレイは小さく笑うと、一段ずつゆっくり階段を降りてきた。
フィリップは再び姿勢を正す。
「ミレイさん、この度は、わが社のものが大変なことをいたしまして、大変申し訳ありませんでした。」
そう言って、もう一度深く頭を下げた。
ミレイは少し困ったように笑う。
「フィリップさんが悪いんじゃないから気にしないでください。」
サーシャが前へ出る。
「あなた、ショックを受けたでしょ。私が慰めてあげるわよ。」
「ふふ。ありがとう。ちょっと驚いたけど、もう平気。」
「そう。じゃああなたに話があるんだけど、いいかしら?」
「サーシャ、今度にしなさい。」
フィリップがたしなめる。
「いいですよ。」
「他の人がいないところがいいわ。」
「アテーラさん、二階のお部屋、お借りしてもいいですか。」
「いいわよ。奥の部屋がいいかしら。」
「サーシャが勝手を言って申し訳ありません。」
フィリップが申し訳なさそうに頭を下げる。
するとキャンターが静かに口を開いた。
「私たちも同席させていただいて宜しいですか。」
「本人は平気と言ってはおりますが、あんなことがあった後ですので。」
サーシャは腕を組み、少し考える。
そして、きっぱりと言った。
「これは私とミレイの経営者会議だから、部外者の方は困ります。」
「経営者会議?」
その場にいた全員が、同じような顔になった。
ミレイは少し照れながら説明する。
「あ、アテーラさん、私、仕事が見つかって、社長になったんです。」
「社長? 何のこと?」
遠巻きに見ていた人たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
「あの子、社長だってよ。」
「社長ってなんだよ?」
「社長だよ、社長。」
「あんな子供が社長だっていうの?」
店の中が一気に賑やかになった。
キャンターは苦笑しながら立ち上がる。
「ここでは何ですので、二階に行きましょう。」
その一言で、一同は二階へ向かうことになった。




