第七話 ハチミツボーイと白い風
「痛い!」
オットーが叫んだ。
「痛い、痛い!」
突然、自分の顔を両手で払い始める。
「痛い痛い痛い痛い!」
狂ったように叫びながら、小屋の外へ転がり出た。
何が起きたのか分からない。
ミレイは呆然と、その様子を見つめる。
外ではなおも悲鳴が続いていた。
「うわあああ! やめろ! やめろ!」
「誰か、誰か、助けてくれ~。」
窓から差し込む光の中を、小さな影が無数に飛び交っている。
ブーンブーンという羽音が、小屋の中まで響いてきた。
しばらくして、その羽音が一つだけ近づいてくる。
ミレイは恐る恐る振り返った。
そこには両手のひらほどの大きさをした、一匹の蜂のように見えるものが宙に浮かんでいた。
大きな複眼。
丸みを帯びた身体。
蜂でありながら、人間でもありそうな生き物。
それはミレイの周りを一周すると、鼻をひくひく動かした。
「クンクン。」
もう一度近づく。
「やっぱり御子様と同じような匂いがするな。」
突然話しかけられ、ミレイは目を丸くした。
「あなた……誰? 里の人?」
「おいらか? おいらは、ハチミツボーイ!」
胸を張って名乗るその姿に、ミレイは思わず瞬きをした。
蜂がしゃべっている。
しかも、どこか人懐っこい。
ついさっきまで命の危険を感じていたというのに、その不思議な姿を見ているうちに、恐怖が少しずつ薄れていく。
「私はミレイ。助けてくれたの?」
ハチミツボーイは鼻をひくひくと動かした。
「別に、じゃあな。」
そのまま飛び去っていった。
その後を追うように、蜂たちも一斉に飛び立った。
ブーン……。
羽音が、小屋の外へ遠ざかっていく。
「行っちゃった……」
「ありがとうって、ちゃんと言いたかったのに。」
静かになった小屋の中で、ミレイは小さく笑った。
クンクン。
自分の腕や体のにおいを嗅ぐ。
「フルル、私、何か匂う……臭くないよね?」
一方、その頃。
蜂たちを率いて森を飛ぶハチミツボーイの前へ、一人の少女が舞い降りた。
柔らかな飴色の髪。
花びらを思わせる衣。
風に揺れるたび、草花の香りがふわりと漂う。
フローラだった。
「お待ちください。」
「何だよ、お前。」
ぶっきらぼうに言い返す。
フローラは深く一礼した。
「ミレイ様をお救いくださったこと、心よりお礼申し上げます。」
「クンクン。」
「里の匂いがする。お前、里の者だな。」
「はい。私は草原の民、蝶の一族のフローラと申します。」
「あなたは、里の者ですね。」
「どうしてこちらの世界におられるのですか。」
「里の決まりをご存じないのですか?」
ハチミツボーイは大きくため息をついた。
「なにをポンポン言ってるんだよ。はいはい、全部答えてやるよ。」
腕を組み、少しだけ胸を張る。
「おいらはハチミツボーイ。」
「昔、御子様のお手伝いをしてた。」
フローラは黙って耳を傾ける。
「でも急に里へ帰れって言われた。」
「その時、こっちじゃクマンバチが大量発生しててさ、ミツバチたちが襲われてた。」
「だから帰らなかった。仲間を置いて帰れなかったんだ。」
「それで、そのままずっとこっち。」
「だから、その決まりってやつ、なんだか知らないけど、おいらには関係なし。」
「で、これでいい?」
ハチミツボーイが羽を震わせる。
「はい。ありがとうございました。」
「じゃあな。」
ミツバチの群れが一斉に羽音を響かせる。
ボーイは仲間を引き連れ、そのまま空の彼方へ飛び去っていった。
フローラは、その姿が森の彼方へ消えるまで見送る。
「はぐれ者ですか。あの者が、そのうちの一人……」
「お知らせしなければ。」
風が草を揺らし、花びらが一枚、空へ舞い上がった。
「娘っ子、無事かあ!」
野太い声が小屋いっぱいに響いた。
次の瞬間、あごひげを蓄えた大柄な男が勢いよく飛び込んでくる。
あまりの勢いに、ミレイは思わず肩を震わせ、身をすくめた。
「おっと、驚かせてしまったな。覚えていないかな。以前、和み亭で会った、突貫組のキサナギだ。」
ミレイはその顔を見つめる。
記憶をたどるように少し考え――やがて「あっ」という表情になると、小さくうなずいた。
その様子を見て、キサナギは安心したように笑った。
「どいて、どいて。」
小屋の外から中を覗き込んでいた突貫組の組員たちを片手で押しのけ、一人の若い女性がずかずかと入ってくる。
深緑の袖なし戦闘チュニック。
その上から黒革の軽装鎧をまとい、歩き方には迷いがない。
「ミレイさんだね。」
「私はヴィクトリア。ヴィクトリア姉さんとお呼び。」
にっと気さくに笑うと、後ろを振り返った。
「男どもは外に出といで。」
組員たちは顔を見合わせる。
「ほらほら。」
追い払うように手を振られ、苦笑しながら外へ出ていった。
「さて、ちょっとお見せ。」
ヴィクトリアは手際よく腕や肩を見て回り、怪我の具合を確かめる。
「良し。痣が所々あるけど、この程度問題ないね。」
満足そうにうなずく。
その一言に、ミレイの表情も少しだけ和らいだ。
小屋の外では――。
「組長、そこの広場にこの男が倒れていました。」
組員が指さした先には、全身を蜂に刺され、半死半生となったオットーが横たわっていた。
「こいつが主犯のオットーか。」
キサナギはしゃがみ込み、その姿を見下ろす。
「ひどいな、これは。何でこんな様になってるんだ。」
誰も答えは分からない。
ただ、全身の赤く腫れた傷が、その凄まじさを物語っていた。
「助かるかどうか分からんが、とりあえず連れて帰るぞ。」
「はい!」
組員たちはすぐに担架を用意し、慎重にオットーを運び始めた。
「ミレイさんはあたしと行くよ。ついておいで。」
小屋の前には、一頭の白馬が静かに待っていた。
引き締まった体躯。
陽光を受けて輝く銀色のたてがみ。
ただ立っているだけで、並の馬とは違うことが伝わってくる。
「これがあたしの愛する馬、疾風《疾風》。速いよ。」
ミレイの瞳がぱっと輝いた。
「馬に乗るの、初めて。うれしい。」
そっと鼻先をなでる。
すると疾風は目を細め、ペロリとミレイの頬をなめた。
「おや、もう疾風に好かれたかい。」
ヴィクトリアは楽しそうに笑う。
「普通は初対面だと、もう少し警戒するんだけどね。」
「……そうなんですか?」
「そうさ。この子、人を見る目だけは厳しいからね。」
ヴィクトリアは軽やかに鞍へまたがった。
「あたしの前にお乗り。支えてやるから安心おし。」
「ありがとうございます。」
ミレイが乗ると、ヴィクトリアはしっかりと体を支えた。
「それじゃ、行くよ。疾風!」
白馬が地面を蹴る。
次の瞬間には、風になっていた。
街道の景色が次々と後ろへ流れていく。
風が頬をなで、髪を大きく揺らす。
ミレイは目を輝かせながら、その速さを全身で感じていた。
やがて街道の端に、大きなトカゲが何頭も横たわっているのが見えた。
「あっ、あれ。」
「ミレイさんを追う途中で、あいつらに出くわしてね。この辺では有名な野盗なんだよ。」
「あいつらが?」
「それでミレイさんの場所もすぐにわかったんだ。全員取っ捕まえて、しっかりとお灸をすえといたからね。」
ミレイはほっと胸をなで下ろす。
「ありがとうございました。」
「もうすぐ町だよ。」
風を切る音がさらに大きくなる。
「すごい、速いですね。気持ちいい。」
ヴィクトリアは思わず吹き出した。
「この速さの疾風に乗って気持ちいいか。面白い子だね。」
そう言って笑うと、疾風は誇らしげにもう一段速度を上げた。
街へ向かって、一筋の白い風が街道を駆け抜けていった。
ここまで読んでくださって,ありがとうございます。
三章は十五話まで続きます。
第四章から、旅編になります。
登場人物が積極的に動き回ります。
末永くおつきあいただければ嬉しいです。




