第9話:作家の眼と、ゴミ箱の中の真実
放課後の旧校舎。
日が傾き始め、廊下に長く伸びる窓枠の影が、どこか檻のような閉塞感を漂わせている。
俺と白峰は、事件の舞台となった演劇部の部室前に立っていた。
「……本当にいいのよね? 生徒会長がこんな、探偵ごっこみたいな真似をして」
白峰が周囲を気にしながら、小声で俺に尋ねてくる。
彼女は制服の襟を正し、いつもの『氷の令嬢』としての仮面を被り直しているが、その瞳には好奇心と不安が入り混じっていた。
「探偵ごっこじゃない。これは『取材』だと言っただろ。……それに、あんたがいれば、部室の中を確認するのも正当な公務になる。生徒の私物が紛失したんだ、状況確認は会長の仕事だろ」
「それはそうだけれど……。なんだか、あなたのペースに巻き込まれている気がするわ」
白峰はため息をつきながら、職員室から借りてきた予備の鍵を差し込み、ゆっくりとドアを開けた。
カチリ、という重たい音がして、古びた木製のドアが内側へと開かれる。
部室の中は、衣装の入った段ボールや、半分壊れかけた大道具のパネル、そして化粧台代わりの長机が所狭しと並んでいた。
埃っぽさと、舞台用のドーランのような独特の匂いが鼻を突く。
「……ここが、事件の現場ね」
白峰が息を呑み、一歩足を踏み出す。
俺は彼女の後に続き、入り口に立ったまま、まずは部屋全体を「物語の舞台」として俯瞰した。
高坂の話によれば、盗まれたのは相沢リサの私物である『アンティークの手鏡』。
相沢は昨日の放課後、最後の一人として施錠して帰宅した。そして今朝、彼女の友人が部室を開けた時には、机の上に置いてあったはずの手鏡だけが消えていたという。
「さて、作家志望。……まずは自分の目で見てみろ。何が不自然だ?」
俺が問いかけると、白峰は「ええっ、いきなり!?」と戸惑いながらも、必死に部屋の中を調べ始めた。
彼女は窓際へ駆け寄り、サッシの鍵を確認する。
「窓は……内側からしっかり閉まっているわ。隙間もないし、外は三階の高さだから、ベランダもない。……物理的に、ここから入るのは不可能よ」
白峰は次にドアの鍵を見つめ、唸るように腕を組んだ。
「ドアの鍵も、職員室の記録では相沢さんが返却して、今朝まで誰も借りていない。……夏目さん、やっぱりこれ、すごい密室ミステリーなんじゃないかしら!? もしかして、透明人間とか……!」
「……お前、自分の小説のダメ出しをもう忘れたのか。オカルトに逃げるな。物語には必ずロジックがある」
俺は呆れて首を振ると、相沢が鏡を置いていたという長机に歩み寄った。
そこには、他にもメイク道具やヘアアイロンが散乱していたが、確かに中央付近にぽっかりと不自然な空白がある。
俺は机の表面を指でなぞり、視線を落とした。
そして、そのすぐ下にあるプラスチック製のゴミ箱を、足で軽く引き寄せた。
「……白峰。お前、相沢リサってどんな人間だと思う?」
「えっ? そうね……いつも完璧にメイクをして、SNSに自撮りをアップして。……少し派手だけれど、自分を美しく見せることに関しては、誰よりもプロ意識が高い人だと思うわ」
「そうだな。じゃあ、そんな『プロ』が、自分の商売道具であるアンティークの鏡を、あんな無造作に机の真ん中に放置して帰ると思うか?」
俺の指摘に、白峰がハッとしたように目を見開いた。
「言われてみれば……。彼女、いつもは大事な小道具は鍵付きのポーチにしまっているはずよ。それなのに、あの日だけ出しっぱなしだった……?」
「そう。そこが第一の違和感だ。そして、第二の違和感はこれだ」
俺はゴミ箱の中に手を伸ばし、底の方に張り付いていた『小さな欠片』を拾い上げた。
それは、わずか数ミリの、銀色の塗装が剥げたプラスチックの破片だった。
俺はそれを白峰の目の前に差し出した。
「これ……アンティークの鏡の一部かしら?」
「いや、違う。よく見てみろ。裏側が透けてる。……これ、ただの百均のプラスチック鏡に、シルバーのスプレーで塗装しただけのものだぞ」
「えっ!? でも、彼女はあれが本物のアンティークだって……」
「それが彼女の『嘘(見栄)』だったんだよ」
俺は破片をポケットにしまい、今度は窓枠のサッシをじっくりと観察した。
そこには、昨日から今日にかけて動かされた形跡――埃の付き方の不自然さ――は一切なかった。
窓も、ドアも、確かに密室だった。
だが、その密室は、犯人が「侵入するために」作ったものではない。
もっと別の、ひどく個人的で、不器用な理由で出来上がったものだ。
「……大体見えたな。白峰、もういい。ここにはもう用はないぞ」
「ええっ、ちょっと待って! まだ何も解決してないじゃない! 密室はどうなったの!? 犯人は!?」
慌てて追いかけてくる白峰を無視して、俺は部室のドアを閉め、鍵をかけた。
廊下を歩きながら、夕焼けに染まる校庭を眺める。
(……やれやれ。まさか、あんな単純で、馬鹿げた理由だったとはな)
だが、その「馬鹿げた理由」こそが、現実の人間を動かす最大の原動力なのだ。
物理トリックよりも、遥かに重たく、切実な動機。
「夏目さん、教えてよ! 何がわかったの?」
「……今はまだ教えない。まずは自分でもう一度考えてみろ。ヒントは、鏡が消えて一番困ったのは誰か、じゃなく。鏡が消えて『助かった』のは誰か、だ」
「助かった……? 盗まれて助かる人なんて――」
「いるんだよ。……自分の『嘘』を守るために、物語の筋書きを書き換えなきゃいけなくなった人間がな」
俺は、旧校舎の階段を下りながら、心の中で相沢リサという少女の「プロット」を組み立てていた。
彼女は悪人ではない。ただ、少しだけ見栄っ張りで、少しだけ友達想いだった。その矛盾が、この奇妙な密室を生み出したのだ。
「放課後、いつもの喫茶店で答え合わせだ。……その時までに、お前なりの『犯人の心理』をまとめておけよ。ぴょんぴょんウサギ先生」
「もう、その名前で呼ぶのはやめてってば!」
ぷんぷんと怒りながらも、白峰は必死に頭を回転させているようだった。
作家の眼を持つということ。
それは、世界を疑い、その裏側にある「本当の感情」を見つけ出すことだ。
彼女がこの事件の真相を知った時。
彼女の書く『氷の魔法使い』は、きっと今よりもずっと、人間らしい温かさを持つようになる。
俺は確信を持って、琥珀色の光が差し込む街へと歩き出した。




