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第8話:動き出した数字と、密室の噂


 数字というのは、ひどく残酷で、そして麻薬のような魔力を持っている。

 WEB小説の世界において、PVページビューという数字は絶対的な指標だ。それが増えれば自分が世界に認められたような万能感に包まれ、減れば自分の存在価値すら否定されたような暗い絶望に突き落とされる。


 元・商業作家である俺は、その数字の恐ろしさを骨の髄まで知っているつもりだ。

 だからこそ、昨日『ぴょんぴょんウサギ』のアカウントで第一話を再投稿した白峰のことが、少しだけ心配だった。


(……もし、今日もPVがゼロのままだったら、あのポンコツ会長のことだ。ショックで寝込んでいるんじゃないだろうな)


 そんなことを考えながら、いつも通りの気怠い足取りで登校し、校門を通り抜けようとした時のことだった。


「おはようございます。服装の乱れはないわね、今日も一日頑張りましょう」


 校門の前に立ち、登校してくる生徒たちに冷徹な声で挨拶をしている女子生徒がいた。

 腕には風紀委員の腕章、そして誰よりも目を引く凛とした立ち姿。氷の生徒会長、白峰莉音だ。


 周囲の男子生徒たちは「お、おはようございますっ」と緊張した面持ちで挨拶を返し、そそくさと校舎へ向かっていく。俺も彼らに混じって、目立たないように白峰の前を通り過ぎようとした。


 だが、すれ違いざま。

 俺と白峰の視線が、ほんの一瞬だけ交差した。


 氷の令嬢の仮面を被った彼女の唇が、周囲には絶対に聞こえないほどの微かな声で、しかし確かな熱を帯びて動いた。


「……はち」


「……あ?」


 俺が思わず聞き返すと、彼女は手元のバインダーで口元を隠し、耳まで真っ赤に染めながらもう一度囁いた。


「……今朝見たら、PVが『8』になってたの……っ!」


 その瞬間、彼女の瞳の奥で、ぴょんぴょんウサギが小躍りしているのが幻視できた。

 俺は思わず吹き出しそうになるのを咳払いで誤魔化し、前を向いたまま小さく口の端を吊り上げた。


「……上出来だ。放課後、また作戦会議な」


 俺がそう低く返すと、白峰は「うんっ!」という声にならない弾んだ息を漏らした。


 たったの8PV。

 ランキング上位の人間から見れば、誤差どころか塵にも等しい数字だ。だが、これまでずっと『0』という孤独の底を這いずり回っていた底辺作家にとって、一晩で自分の物語を読んでくれた人間が『8人』も現れたというのは、世界がひっくり返るほどの革命なのだ。



     *



 教室に入り、自分の席にカバンを置く。

 一時間目のチャイムが鳴るまで、机に突っ伏してひと眠りしようと目を閉じた瞬間、バンッ、と派手な音を立てて前の席の椅子が引かれた。


「よぉ夏目! 朝から相変わらず死んだ魚みたいな目をしてるな!」


 やたらと通る大きな声。

 顔を上げると、綺麗にセットされた茶髪と、人懐っこい笑顔が特徴的な男子生徒が座っていた。

 クラスのムードメーカーであり、なぜか俺のような日陰者にも気さくに話しかけてくる変わり者、高坂大樹こうさかだいきだ。


「……おはよう、高坂。朝からうるさいぞ」

「お前が静かすぎるんだよ。もっと青春しろ、青春。……それよりさ、お前、うちのクラスの相沢あいざわのこと知ってるか?」

「相沢? ああ……インスタだかTikTokだかで、フォロワーがいっぱいいるっていう……」


 俺は教室の中心に視線を向けた。

 そこには、クラスの女子カーストの頂点に君臨するような、派手で可愛らしい女子生徒――相沢リサが、数人の取り巻きに囲まれながら、何やら苛立った様子で話をしているのが見えた。


「その相沢がどうしたんだよ」

「あいつ、演劇部の幽霊部員なんだけどさ。今朝、演劇部の部室から『お気に入りのアンティークの手鏡』が盗まれたって大騒ぎしてるんだよ」

「手鏡?」

「おう。なんでも、映える写真を撮るための大事な小道具だったらしくてな。すげえご立腹で、犯人探しをしてるんだとさ」


 高坂は「女の執念って怖いよなー」と肩をすくめた。

 ただの窃盗事件なら、学校生活において珍しくもない、よくある日常のトラブルだ。教師にでも言えばいい。


「ふーん。まあ、どうせ部室に鍵をかけ忘れたとか、そういうオチだろ」

「それがさ、そうじゃないらしいんだよ」


 高坂は少しだけ声を潜め、ミステリ映画の探偵気取りでニヤリと笑った。


「相沢が昨日部室を出た時、最後まできっちり戸締まりをしたんだと。鍵は一つしかなくて、すぐに職員室に返却された。で、今朝になって相沢の友達が先に部室を開けたら、その手鏡だけが綺麗さっぱり消えてたらしい」

「……密室ってことか?」

「そう! 窓の鍵も内側からかかってたんだと。つまり、誰も入れない密室から、手鏡だけが消え失せたってわけだ。面白えよな!」


 高坂はワクワクした様子で語るが、俺は小さくため息をついた。


「別に面白くないだろ。窃盗は犯罪だ」

「お前は本当にノリが悪いなー。少しは名探偵みたいに推理とかしてみろよ」

「俺は探偵じゃない。ただの本屋のバイトだ」


 俺はそう言って、高坂との会話を打ち切った。

 密室から消えた手鏡。いかにもライトノベルや推理小説の導入に使われそうな陳腐な設定だ。俺の日常には関係のない話である。


 ――その時は、本気でそう思っていた。



     *



 そして、放課後。

 俺と白峰は、純喫茶『琥珀』の一番奥のボックス席に向かい合って座っていた。


「……それでね、PVが8になっただけじゃなくて、なんとブックマークも『1件』ついていたの! もう、朝から心臓がバクバクで……!」


 白峰はココアの入ったカップを両手で包み込みながら、顔を紅潮させて熱弁を振るっていた。

 氷の生徒会長の威厳は完全に崩壊し、ただの限界オタク女子が推しについて語るようなテンションだ。


「わかった、わかったから落ち着け。とりあえず初速としては悪くない。次は第二話の執筆だが……プロットの修正は進んでるか?」

「あっ、それがね!」


 白峰は鞄からノートを取り出し、バンッとテーブルに広げた。

 そこには、俺がダメ出しをした『暗殺者が壁をすり抜ける展開』の代わりのアイデアが、赤ペンでびっしりと書き込まれていた。


「今日、クラスの男子が噂しているのを聞いたの。演劇部の部室で『密室から手鏡が消える』っていう事件があったらしいのよ! これ、すごくない!? 現実の密室事件よ!」


 白峰の口から出たのは、今朝、高坂が教室で語っていたあの噂話だった。


「だから私、これを第二話のネタにしようと思って! ヒロインが閉じ込められた氷の密室のトリックを、この現実の事件を参考にすれば、もっとリアルな描写ができるんじゃないかって!」


 目をキラキラさせて提案してくる白峰を見て、俺は深く、重たいため息をついた。


「……お前な、小説の作り方を根本的に間違えてるぞ」

「えっ? ど、どういうこと?」

「いいか。フィクションにおける密室っていうのは、たいていの場合、機械的なトリックや物理的なごまかしで出来ている。だがな、現実の事件というのは違う」


 俺は微糖のアイスコーヒーを一口飲み、まっすぐに白峰の目を見据えた。


「現実の事件を動かしているのは、いつだって『人間の感情』だ。誰かが何かを隠したい、見栄を張りたい、あるいは嫉妬した。……そういうドロドロした生々しい感情こそが、現実の謎を生み出すんだよ」

「人間の、感情……」

「お前が俺に褒められたのは、構成力でもトリックの斬新さでもない。ヒロインの切実な『感情』を描き切ったからだ。だからこそ、現実の事件をただの物理トリックの参考にするのはもったいない」


 俺はテーブルの上にあった白峰のノートを指でトントンと叩いた。


「どうして犯人は、わざわざ密室を作ってまで、そんな手鏡を盗む必要があったのか。そこには必ず、人間のリアルな感情の動き(動機)が隠されているはずだ。……それを知ることの方が、作家としての血肉になる」

「それって……つまり」

「ああ」


 俺は残りのコーヒーを飲み干し、席を立ち上がった。


「その事件、俺が調べてやる。……現実の人間がどういう感情で動いて、どういう馬鹿な嘘をつくのか。俺たちの小説の『取材』に行こうぜ」

 

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